2011年06月24日
加藤清正が誕生れて死んだ日!?
↓この4つとりあえずポチッと応援よろしくね(^^)/
永禄五年(1562)/慶長十六年(1611)6月24日。加藤清正が誕生れて死んだ日!?
永禄五年(1562)のこの日、秀吉子飼いで、賤ヶ岳七本槍(実際は9本槍だって知ってた? 詳しくは『豊臣秀吉の秘密』を読んでね)の一人として有名な加藤清正が生まれる。
三歳の時に父親が死んだので、縁戚関係にあった羽柴秀吉の元で暮らしだす(清正の母と秀吉の妻寧々が義姉妹との説)。
十五歳で元服(今で言う成人式)をして、加藤虎之助清正と名乗り、秀吉の小姓として取り立てられる。
二十歳の時に秀吉の鳥取城攻めに従って初陣。その後、冠山城攻め・山崎の合戦・賤ヶ岳の戦い・ 朝鮮役など秀吉の元で活躍する。
だが、朝鮮役で石田三成・小西行長らと対立、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に加担して九州を固め、戦後に肥後一国五十二万石の大大名と成る。
その後も清正は、秀吉の恩を忘れず徳川と豊臣の和睦につくし、慶長十六年(1611)三月、二条城で秀頼・家康の会見を実現させる。
だけど、会見の帰国の際に船中で発病、回復することなく誕生日と同じ6月24日に、熊本城で没しました‥‥。
思えば幼い頃、九州熊本のじいちゃん・ばあちゃんに預けられて育った俺が、生まれて初めて登城のが熊本城だったな。
熊本城は加藤家の後は細川家の城だったのに、何故か熊本県民のじいちゃんは「清正、清正」と言っていた様な気がする(?_?)
だけど清正人気も頷けるよな。清正は父親の死後五歳の時に一時期、母と共に尾張・津島へ移り幼年期を過ごしたそうだが、この津島時代に近所の同じ年頃の少年と2人とツレに成って、後にこの2人は森本儀太夫秀虎と飯田覚兵衛直景と名乗り清正の家老と成ったそうだ。
子供の頃の友情や秀吉の恩を忘れない清正。そりゃあ人気あるわな?
ん!? そう言や朝鮮役で虎退治して有名やけど、清正の幼名って『虎之助』だぞ!? 虎を助けるんじゃないんかいな? ‥‥おしまい!(^^)!
永禄五年(1562)/慶長十六年(1611)6月24日。加藤清正が誕生れて死んだ日!?
永禄五年(1562)のこの日、秀吉子飼いで、賤ヶ岳七本槍(実際は9本槍だって知ってた? 詳しくは『豊臣秀吉の秘密』を読んでね)の一人として有名な加藤清正が生まれる。
三歳の時に父親が死んだので、縁戚関係にあった羽柴秀吉の元で暮らしだす(清正の母と秀吉の妻寧々が義姉妹との説)。
十五歳で元服(今で言う成人式)をして、加藤虎之助清正と名乗り、秀吉の小姓として取り立てられる。
二十歳の時に秀吉の鳥取城攻めに従って初陣。その後、冠山城攻め・山崎の合戦・賤ヶ岳の戦い・ 朝鮮役など秀吉の元で活躍する。
だが、朝鮮役で石田三成・小西行長らと対立、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に加担して九州を固め、戦後に肥後一国五十二万石の大大名と成る。
その後も清正は、秀吉の恩を忘れず徳川と豊臣の和睦につくし、慶長十六年(1611)三月、二条城で秀頼・家康の会見を実現させる。
だけど、会見の帰国の際に船中で発病、回復することなく誕生日と同じ6月24日に、熊本城で没しました‥‥。
思えば幼い頃、九州熊本のじいちゃん・ばあちゃんに預けられて育った俺が、生まれて初めて登城のが熊本城だったな。
熊本城は加藤家の後は細川家の城だったのに、何故か熊本県民のじいちゃんは「清正、清正」と言っていた様な気がする(?_?)
だけど清正人気も頷けるよな。清正は父親の死後五歳の時に一時期、母と共に尾張・津島へ移り幼年期を過ごしたそうだが、この津島時代に近所の同じ年頃の少年と2人とツレに成って、後にこの2人は森本儀太夫秀虎と飯田覚兵衛直景と名乗り清正の家老と成ったそうだ。
子供の頃の友情や秀吉の恩を忘れない清正。そりゃあ人気あるわな?
ん!? そう言や朝鮮役で虎退治して有名やけど、清正の幼名って『虎之助』だぞ!? 虎を助けるんじゃないんかいな? ‥‥おしまい!(^^)!