2019年04月23日
強烈な体験の前後では 些細なことも長い記憶する
最終的には、心の働きの脳内メカニズムについて述べていきます。
記憶を作り変えるB
強烈な体験の前後では
些細なことも長い記憶する
神経細胞には数多くのシナプスがあり、それを通じて他の神経細胞と情報をやり取りしている。
海馬や大脳皮質では、1つの神経細胞がそれぞれ数万個程度のシナプス結合で他の神経細胞とつながっている。
1つひとつの神経細胞に着目すると、自身が持つたくさんのシナプスでの結合を用いて異なるセルアセンブリに
所属しているらしい。
記憶が連合するときに、シナプスのレベルでは何が起こっているのだろうか?
この質問に対する答えは完全には明らかにされていないが、その取っかかりとなる研究が進められつつある。
「行動タグとシナプスタグ」である。
東日本大震災が起こった2011年3月11日の事は、地震発生の2〜3時間前から些細な出来事を含めて妙にはっきりと覚えている人が多い。
例えば、昼食にはよく行く店でラーメンを食べたといったようなことである。
ほんの数日前の昼食に何を食べたのかさえ、記憶があやふやになることが多いのに、震災の日のことは数年
経ってもしっかりと記憶しているのだ。
このように、強烈な体験をするとその前後の些細な出来事も一緒に長期記憶として保存されてしまうことが
あり、これを「行動タグ」と呼んでいる。
この現象は人間だけでなくマウスのような実験動物でも生じることが報告されている。
行動タグも2つの記憶が関連付けられる現象だ。
私たちのグループは、行動タグが成立するときには、些細なことと強烈な体験の記憶痕跡セルアセンブリが
オーバーラップしてくることを発見した。
実験では、マウスがすぐに忘れるような記憶の課題と強烈な体験を組み合わせた。
まず、マウスにとっては初めての“新しい物”を置いたケージにマウスを入れる。
新しい物には盃(さかづき)やスタンプなどを使った。
マウスには見慣れない物なので、鼻先を近づけて長い時間をかけて探索する。
一旦ケージから出し30分後に戻しても、今度はそれほど長時間の探索はしない。
マウスには既知の物になったからだ。
しかし、1日経つと忘れていまい、新しい物として再び探索に長い時間をかけるようになる。
同じマウスに強烈な体験もさせる。
床が、細い棒を広い間隔で並べただけの隙間だらけになっているケージに入れるのだ。
新しい物の課題と強烈な体験の間隔が1時間以内だと、マウスは新しいものを長時間記憶するようになる。
行動タグが成立するのだ。
しかし、3時間以上離れているとすぐに忘れてしまい行動タグは成立しなかった。
これらの記憶に関与する海馬では、行動タグが成立する場合、それぞれの記憶に対応するセルアセンブリの
オーバーラップが増大した。
先ほど紹介した実験と同じ手法で、光遺伝学の手法によって強烈な体験の記憶痕跡セルアセンブリの活動を
人為的に抑制したところ、盃などの新しい物の記憶が思い出せなくなった。
行動タグが成立するには、些細な出来事と強烈な体験のセルアセンブリがオーバーラップすることが重要だと
わかる。
さて、その時にシナプスのレベルでは何が起きているのだろう。
この問いの答えを紹介する前に、まずは記憶の混線が起きない仕組みを紹介しよう。
個々の記憶は別々に覚える
ここまで記憶の連合について話してきたが、それも1つひとつの記憶を“個別に”覚えているからこそ可能な
わけだ。
私はワインを飲みながら、テレビで世界陸上の100メートル決勝のボルトの走りを見たことを覚えているが、ワインを飲んでいるのはボルトで、走っているのは自分といった記憶の混線は生じない。
あまりに当たり前なので、気にもとめないだろうが、1つひとつのイベントを厳密に区別して覚えていないと、記憶の混線は避けられないはずなのだ。
なぜ、そのようなことが可能なのだろうか?
その説明として、1997年にドイツのフライ(Uwe Frey)と英国のモリス(Richard G. M. Morris)は
「シナプスタグ」という仮説を提唱した。
シナプスタグ説では、1つの神経細胞は1つの記憶だけに関与しているのではなく、複数の記憶に関与して
いると考える。
Aという記憶とBという記憶が関連付けを欠いた独立した記憶であっても、それぞれを担うセルアセンブリは
完全に別というわけではなく、数は少ないものの両方のセルアセンブリに所属する(つまり、両方の記憶を
担う)神経細胞が存在するというのだ。
その神経細胞では、AグループのシナプスとBグループのシナプスはつながる相手が異なるために、
それぞれ別の記憶を保持していることになる。
つまり、それぞれのシナプスは同じ細胞に付随しているにもかかわらず、異なる集団に属しているわけだ。
シナプスを介してつながる細胞は、互いがつながるべき相手を厳密に認識して結合していることになる。
これは、シナプス特異性と呼ばれている。
シナプス特異性に関する最大の謎は、神経細胞が個々のシナプスをどうやって区別しているか、という点だ。
シナプスでの結びつきを強化して長期間保たれる記憶となるには記憶保持用のタンパク質が必要となり、
それはPRP(plasticity-related protein)と総称されている。
「それぞれが異なる相手とつながっている多数のシナプスを、どのように区別しているのか」という問いは、
言い換えれば「記憶保持用タンパク質PRPをどうやって必要とするシナプスだけに届けているのか」と
いうことになる。
あるシナプスに長期記憶の入力があると、そのシグナルが核に伝わり、遺伝子発現を誘導してシナプス強化用
のタンパク質PRPを合成する。
しかし、このタンパク質は強化すべきシナプスのみで使われなければならない。
そうでないと、関係のない情報に関与しているシナプスまで強化してしまい、「私はワインを飲みながら世界
陸上の決勝で走った」という支離滅裂な記憶になりかねない。
フライとモリスは2経路実験と呼ぶ電気生理学的な実験から、活動したシナプスには何らかの痕跡(シナプス
タグ)ができるのだろうと提唱した。
タグの実態は、当時は不明のままだったが、タグを持つシナプスのみが識別されることで、そのシナプスのみ
に記憶保持用タンパク質が届くとした。
言い換えると、細胞体で合成されたPRPは全てのシナプスに運ばれるが、タグを持つシナプスだけがPRPを
利用して結合を強化できると考えた。
参考文献:別冊日経サイエンス『最新科学が解き明かす脳と心』
2017年12月16日刊
発行:日経サイエンス社 発売:日本経済新聞出版社
記憶を作り変えるB
強烈な体験の前後では
些細なことも長い記憶する
神経細胞には数多くのシナプスがあり、それを通じて他の神経細胞と情報をやり取りしている。
海馬や大脳皮質では、1つの神経細胞がそれぞれ数万個程度のシナプス結合で他の神経細胞とつながっている。
1つひとつの神経細胞に着目すると、自身が持つたくさんのシナプスでの結合を用いて異なるセルアセンブリに
所属しているらしい。
記憶が連合するときに、シナプスのレベルでは何が起こっているのだろうか?
この質問に対する答えは完全には明らかにされていないが、その取っかかりとなる研究が進められつつある。
「行動タグとシナプスタグ」である。
東日本大震災が起こった2011年3月11日の事は、地震発生の2〜3時間前から些細な出来事を含めて妙にはっきりと覚えている人が多い。
例えば、昼食にはよく行く店でラーメンを食べたといったようなことである。
ほんの数日前の昼食に何を食べたのかさえ、記憶があやふやになることが多いのに、震災の日のことは数年
経ってもしっかりと記憶しているのだ。
このように、強烈な体験をするとその前後の些細な出来事も一緒に長期記憶として保存されてしまうことが
あり、これを「行動タグ」と呼んでいる。
この現象は人間だけでなくマウスのような実験動物でも生じることが報告されている。
行動タグも2つの記憶が関連付けられる現象だ。
私たちのグループは、行動タグが成立するときには、些細なことと強烈な体験の記憶痕跡セルアセンブリが
オーバーラップしてくることを発見した。
実験では、マウスがすぐに忘れるような記憶の課題と強烈な体験を組み合わせた。
まず、マウスにとっては初めての“新しい物”を置いたケージにマウスを入れる。
新しい物には盃(さかづき)やスタンプなどを使った。
マウスには見慣れない物なので、鼻先を近づけて長い時間をかけて探索する。
一旦ケージから出し30分後に戻しても、今度はそれほど長時間の探索はしない。
マウスには既知の物になったからだ。
しかし、1日経つと忘れていまい、新しい物として再び探索に長い時間をかけるようになる。
同じマウスに強烈な体験もさせる。
床が、細い棒を広い間隔で並べただけの隙間だらけになっているケージに入れるのだ。
新しい物の課題と強烈な体験の間隔が1時間以内だと、マウスは新しいものを長時間記憶するようになる。
行動タグが成立するのだ。
しかし、3時間以上離れているとすぐに忘れてしまい行動タグは成立しなかった。
これらの記憶に関与する海馬では、行動タグが成立する場合、それぞれの記憶に対応するセルアセンブリの
オーバーラップが増大した。
先ほど紹介した実験と同じ手法で、光遺伝学の手法によって強烈な体験の記憶痕跡セルアセンブリの活動を
人為的に抑制したところ、盃などの新しい物の記憶が思い出せなくなった。
行動タグが成立するには、些細な出来事と強烈な体験のセルアセンブリがオーバーラップすることが重要だと
わかる。
さて、その時にシナプスのレベルでは何が起きているのだろう。
この問いの答えを紹介する前に、まずは記憶の混線が起きない仕組みを紹介しよう。
個々の記憶は別々に覚える
ここまで記憶の連合について話してきたが、それも1つひとつの記憶を“個別に”覚えているからこそ可能な
わけだ。
私はワインを飲みながら、テレビで世界陸上の100メートル決勝のボルトの走りを見たことを覚えているが、ワインを飲んでいるのはボルトで、走っているのは自分といった記憶の混線は生じない。
あまりに当たり前なので、気にもとめないだろうが、1つひとつのイベントを厳密に区別して覚えていないと、記憶の混線は避けられないはずなのだ。
なぜ、そのようなことが可能なのだろうか?
その説明として、1997年にドイツのフライ(Uwe Frey)と英国のモリス(Richard G. M. Morris)は
「シナプスタグ」という仮説を提唱した。
シナプスタグ説では、1つの神経細胞は1つの記憶だけに関与しているのではなく、複数の記憶に関与して
いると考える。
Aという記憶とBという記憶が関連付けを欠いた独立した記憶であっても、それぞれを担うセルアセンブリは
完全に別というわけではなく、数は少ないものの両方のセルアセンブリに所属する(つまり、両方の記憶を
担う)神経細胞が存在するというのだ。
その神経細胞では、AグループのシナプスとBグループのシナプスはつながる相手が異なるために、
それぞれ別の記憶を保持していることになる。
つまり、それぞれのシナプスは同じ細胞に付随しているにもかかわらず、異なる集団に属しているわけだ。
シナプスを介してつながる細胞は、互いがつながるべき相手を厳密に認識して結合していることになる。
これは、シナプス特異性と呼ばれている。
シナプス特異性に関する最大の謎は、神経細胞が個々のシナプスをどうやって区別しているか、という点だ。
シナプスでの結びつきを強化して長期間保たれる記憶となるには記憶保持用のタンパク質が必要となり、
それはPRP(plasticity-related protein)と総称されている。
「それぞれが異なる相手とつながっている多数のシナプスを、どのように区別しているのか」という問いは、
言い換えれば「記憶保持用タンパク質PRPをどうやって必要とするシナプスだけに届けているのか」と
いうことになる。
あるシナプスに長期記憶の入力があると、そのシグナルが核に伝わり、遺伝子発現を誘導してシナプス強化用
のタンパク質PRPを合成する。
しかし、このタンパク質は強化すべきシナプスのみで使われなければならない。
そうでないと、関係のない情報に関与しているシナプスまで強化してしまい、「私はワインを飲みながら世界
陸上の決勝で走った」という支離滅裂な記憶になりかねない。
フライとモリスは2経路実験と呼ぶ電気生理学的な実験から、活動したシナプスには何らかの痕跡(シナプス
タグ)ができるのだろうと提唱した。
タグの実態は、当時は不明のままだったが、タグを持つシナプスのみが識別されることで、そのシナプスのみ
に記憶保持用タンパク質が届くとした。
言い換えると、細胞体で合成されたPRPは全てのシナプスに運ばれるが、タグを持つシナプスだけがPRPを
利用して結合を強化できると考えた。
参考文献:別冊日経サイエンス『最新科学が解き明かす脳と心』
2017年12月16日刊
発行:日経サイエンス社 発売:日本経済新聞出版社
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