平和学の父ヨハン・ガルトゥングさんによって数学や弁証法の価値を感じています♪
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こんな事を発信してから、
弁証法について、
まとめたくなっています!
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ヘーゲルにおける弁証法
弁証法という言葉はギリシア語のディアレクティケーdialektikeに由来し、元来問答法・問答術というほどの意味であった。ディアレクティケーはその後プラトン、アリストテレスなどによって育まれ、ストア派、新プラトン派、中世スコラ学、カント等を経てヘーゲル哲学へと流れ込んでいった。ヘーゲルは弁証法を、認識と存在における動的な発展法則としてとらえた。それは図式的に言えば、定立(テーゼ)〔独〕these、反定立(アンチテーゼ)〔独〕Antithese、綜合(ジンテーゼ)〔独〕Syntheseという段階を経て進展してゆく。この思考法の特徴は、それまでの悟性的思考法(あれかこれかという二律背反的発想)を越え、ある定立にある反定立が対立した場合、どちらかを取りどちらかを捨てるというのではなく、その対立の各項中において否定さるべきものは否定し、保有さるべきものは保有して、定立でも反定立でもない新たな綜合に到達する(これを止揚または揚棄〔独〕aufhebenという)ことを目指すところにある。そしてその総合自信、今度は一つの定立となり、それに一つの反定立が対決し、云々、という具合に真理に向かって進展してゆくとヘーゲルは彼自身の観念論哲学(存在と認識との同一性)のゆえに、この弁証法を概念の自己発展の形式としてとらえ、あたかも抽象的な観念がその観念の含む内的自己矛盾によって動的に発展し、究極の真理にまで至るかのような体系をうちたててしまった。ヘーゲルの観念弁証法は、生身の現実的人間を切り捨ててしまったのある。
マルクス主義における弁証法
これにたいしてマルクスは、へーゲル弁証法は頭で歩いていると批判し、現実的基盤の上を足で歩かせるために、唯物論的な再編成を行った。彼によれば「観念的なものは、人間の頭脳に移行され、翻訳された物質的なもの以外の何物でもない」マルクスにおいては観念の世界よりも物質的・現実的な世界が優位を占める。またエンゲルスは自然の変化・発展の一般法則として「自然の弁証法」をみとめ、その三つの法則として量質転換、対立物の相互浸透、否定の否定をあげている。だがエンゲルスにおけるあるいはその流れを汲む俗流マルクス主義における弁証法的な把握方法とは、ヘーゲルが観念の世界において華々しく展開したものを現実世界にひきおろしてきたものにすぎない。たとえばそれは、個々の事物、個々の運動はそれ自体としてバラバラにとらえてはならず、相互連関的に統一的全体性の中で把握せねばならぬことや、すべてのものは動的発展の相の下で、つまり生成、消滅、変化の相の下で、それ自身の内的矛盾を自己発展の原動力としているものとして、理解されねばならぬことを主張する。しかしながら、それは弁証法の根拠については何も語らない。弁証法はあたかも天から降って湧いた先天的な大法則であるかのようである。人間の意識を物質の反映としてしかとらえぬために、現実的な思惟は物質のたんなる運動にすぎなくなり、かつてヘーゲル弁証法で観念が演じていた絶対的な役割をこんどは物質が演じるようになるだけである。それには存在と意識の緊張関係が欠落し、さらに何よりもまず弁証法の弁証法自体による基礎づけが抜け落ちている。
弁証法の基礎づけ
存在は知(意識)に還元することはできないが、同時に存在と知の中に弁証法的運動を確立せねばならない。存在と知が相対立するかぎり史的唯物論は二元論であるが、思惟を人間の実践のある型として現実的な存在の領域に統合するかぎり、それは一元論である。この矛盾をはらみながら緊張した関係が弁証法を基礎づける一つの鍵である。
弁証法から人間をふり落とさぬためには、弁証法を人間そのものによって基礎づけねばならない。その現実的な試みの一つにサルトルの「弁証法的理性批判」が存在する。
ここでサルトルの仕事を概略的にせよ述べることは不可能であるから、とりあえず彼の試みの幾つかの前提を述べるにとどめておきたい。
われわれの個人的実践の中にその基礎を有する弁証法は、われわれの直接的で日常的な具体的経験の中に見出されねばならない。だがそれはたんなる経験的発見ではなく「その存在を可知性を通じて体験する」ことである。弁証法はそれ自体偶然であってはならず、「すべての経験に含まれてい入るが各々の経験からは溢れ出ているような普遍性であり、必然的である」弁証法についての経験は、弁証法を批判的に検討し根拠づけるものとして「批判的経験」である。
批判的経験は、全体化の内部で行われるものであって、けっして全体化の運動の観想的把握ではない。それは、全体化があらゆる部分に内面化され、それらの部分のあるものによって媒介されて自分自身の綜合的認識として自己を実現するかぎり、その進行中の全体化そのものの現実的な一契機である。認識とは、それ自身全体化するものであると同時に、全体化の自己自身への現前でもある。そして全体化活動としての弁証法が存在と認識の理性であるとするならば、それは、存在論的見地からは、全体化の行われている場所における進行中の全体化の過程そのものであり、認識論的見地からは、原理的に全体化の歩みをたどるような認識にたいするその全体化の透過性である。つまり弁証法的認識とは、それ自体一つの全体化の一契機であり、全体化は己れのうちに自己の反省的再全体化としての認識を総過程中の全体化の不可欠な一構造として含んでいるのである。したがってわれわれの誰でもが行えるこの批判的経験を一歩一歩さかのぼっていけば、やがて弁証法の全貌があらわになってくる筈だ、とサルトルは考える訳である。
この著作は今のところ未完結ではあるが、弁証法についてのきわめて鋭く根源的な把握を示しているように思われる。
→否定、実践、弁証法的唯物論、イデア論、唯識
〔参考文献〕サルトル著、平井、竹内ほか訳『弁証法的理性批判T・U・V』人文書院
ヘーゲル著、樫山欽四郎訳『精神現象学』河出書房
竹内芳郎著『サルトルとマルクス主義』紀伊国屋書店
(足立和浩
弁証法的神学⇒危機神学
※抜粋元
現代哲学事典 (講談社現代新書 225) 新書 1970/4/1
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