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結婚観

結婚って言うのは・・・
前から思ってたんですが、之は戦争(??)ではないかと。新たに家庭を築いていくお二人の文化の戦争・・
それぞれが育ってきた家庭の文化(習わしや考え方など)当然違うわけでおのおのが、「それは私の家では・・・」とか、「私は・・・」とか始まるわけで。それは子育てや食事の習慣、催事(年末年始の過ごし方や
)例えば、お雑煮のお餅は丸か角かとか、味噌仕立てか醤油ベースかとか、鶏出汁か鰹出汁とか結構細かいことでぶつかるわけでお互いに若いうちはそれなりに妥協をして折り合っていきながら新しい文化を創っていくんだよね。ただし、これがややこしい、それぞれが生きてきた環境の違いや価値観の違い(これが結構でかい)と思うんだよね。まぁいわば戦争だね、文化の・・・。うまく折り合いがつけばいいんだけど。
それと子育て・・これは自分が親からされてきたことしかわからない、残念ながら。子育てという教育は受けてはいないはずだもんね、大方の方は。難しい!続きはまたの機会に・・

置かれた場所で咲きなさい(渡辺和子さん)

おひさしぶりです。m(_ _)m
何を書きましょうかね(苦笑)
昨日聞いたお話から

置かれた場所で咲きなさい(渡辺和子さん)
ご存じの方もいらっしゃるでしょうがあらためて
【人はどんな場所でも幸せを見つける事ができる⇒どんなところに置かれても花を咲かせる心を持ち続けよう。】
不幸を嘆くことなく巡りくるときまでしっかりと根を張ってそのときに備える
だそうです。
われも頑張らねば。・・・そうだ頑張るのではなく踏ん張るのだとか・・・(これは別の方の言葉です。

シャンパン

皆様ご存じの通りシャンパンとは一般には、フランスのシャンパーニュ=アルデンヌ地域圏で生産されたブドウのみを使い、瓶内二次発酵を行った上で封緘後15か月以上の熟成を経た、いわゆるシャンパン製法のスパークリングワインを指す。元となるワインは様々なレシピによりブレンドされる点や、二次発酵のために発泡のもととなるシロップを添加(ティラージュ)、また仕上げにリキュールとシロップの添加(ドザージュ)する点も特徴である。ほぼ同様の工程を経たスパークリングワインに、スペインの「カヴァ」、イタリアの「スプマンテ」(一般名詞)、ドイツの「ゼクト」(一般名詞)、フランス国内でもアルザス地域圏の「クレマン・ダルザス」、ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏の「クレマン・ド・ロワール」、ブルゴーニュ地域圏の「クレマン・ド・ブルゴーニュ」等があるが、シャンパンはその選定基準の厳しさと熟成期間の長さにおいて突出している。またフランス国内の酒屋(それぞれのクレマンの産地地元は除いて)やスーパーマーケットでも、シャンパンは他地域のスパークリングワインと比較してずっと高額である。
現在シャンパンと言う場合、1919年にAOC(アペラシオン・ドリジーヌ・コントロレ。原産地呼称統制法)によって定められた定義「シャンパーニュに使用できるブドウ品種は、ピノ系品種とアルバンヌ、プティ・メリエのみである」[2]、また2010年11月22日の政令による定義[3]に基づき、シャンパーニュ地方でつくられた7つのピノ系ブドウ品種、ピノ・ノワール(Pinot Noir)、ピノ・ムニエ(Pinot Meunier)、ピノ・グリ(Pinot gris)、アンフュメ、アルバンヌ(Arbanne)、プティ・メリエ(Petit Meslier)、ピノ・ブラン[4]とシャルドネ(Chardonnay)を材料として醸造されたスパークリングワインのことである。1919年の定義にシャルドネが指定品種の中に含まれていなかったのは、ブドウ品種の分類に関する研究があまり進んでおらず、シャルドネはピノ系のブドウに含まれていたためである。(以上ウィキより)
そこでなにを選ぶかと言うことですが・・・
まずは価格です。だいたい4000円以上のものならばまず間違いはありません。
具体的には・・・又の機会にm(_ _)m




ソチ五輪ラージヒルジャンプ団体で、葛西選手達が銅メダル獲得・・・ばんざぁ〜〜い

皆様招致のように今日早朝ソチオリンピックラージヒルジャンプ団体競技において日本は銅メダルを獲得!
葛西選手は個人の銀メダルのときには見せなかった涙をながして喜ぶ姿がとても印象的だった。その際のインタビューで葛西選手は「友達以上、恋人未満」と仲間を評した。素晴らしいチームワークでの勝利であった。
方やカーリング女子は惜しくも優勝候補のスウェーデンに僅差でやぶれ、こちらも小笠原選手がなみだを見せた。悔し涙をながしていた。本人は泣くつもりはなかったようであったが、思わず涙がこぼれ落ちてしまったようだ。
どちらの涙もともに一生懸命やった結果で有り勝敗は別としてすがすがしいものであったと思う。
残された競技もあとわずかであるが、選ばれた選手には全力を尽くし悔いのない競技をしていただくように祈るばかりである。
頑張れ!日本!


5月29日は【呉服】の日です

全国呉服小売組合総連合会が制定した5月29日の記念日。「ご(5)ふ(2)く(9)」の語呂合わせから。呉服(和服)のPRのために制定された。「呉服」というのは語源的には「呉織」で作られた服という意味で、「呉織」とはその名の通り中国の呉の国から伝わった製法で作った織物という意味です。
「呉織」は訓読みして「くれはとり」とも読みますが(「ハトリはハタオリの音便)、綾模様のある絹織物を指します。しかし後世には一般に絹織物で作った服を全て「呉服」と呼ぶようになりました。(綿や麻の和服は「太物」)
現代では若い人はお茶・お花・踊りの稽古の時やお呼ばれ、パーティーの時など特別な時しか着ない呉服ですが、そもそもそんなに古い歴史がある訳ではありません。現在着られているような形の着物はせいぜい江戸時代からです。
その呉服の中でも代表格といえるのが友禅ですが、これは京都の京友禅と金沢の加賀友禅に分かれます。これはどちらも同じ人物、宮崎友禅斎が興したもので、だいたい元禄年間(1688-1704)に京都で京友禅を始め、正徳2年(1712)に前田家に招かれて加賀に移り、ここで加賀友禅を始めました。
友禅は糊置きの技法により色が散ったり混ざったりしないようにして多彩な柄を表現するもので、基本的な技法は江戸初期からあったらしいのですが友禅斎がその技法を完成したことから彼の名前が残されています。
是非この機会に京都や加賀を訪れてみませんか?・・・呉服を訪ねて


5月24日は「ゴルフ場記念日」です

1903(明治36)年5月24日、日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」がオープンしたことにちなんで制定された。
ゴルフの歴史をたどってみると、日本でのゴルフは六甲山から始まった。神戸港開港以来、神戸の居留地での居留地外国人によるスポーツの、起源を辿ると、明治3年A・C・シムによって創設されたKRAC(神戸レガッタ・アンド・アスレチック倶楽部)の活動に始まが、その若かったKRACの会員が30年も経過すると体力も衰えて、激しい競技スポーツに参加できないことを知ったイギリス人の茶貿易商A・グルーム(アーザー・ヘスケス・グルーム)は、ある会合で友人達と談笑中、自然の中でしかも仲間と楽しめるゴルフの必要性を感じ早速彼は友人を誘って、低廉な六甲山頂の土地を確保し1901(明治34)年に4ホールだけのゴルフ場を作った。これが文字通り、日本最初のゴルフ場で、2年後の1903(明治36)年5月には9ホールに拡張し、ホールの開場式は服部知事や坪野市長を招いて行った。会員も120人に増えて、日本初の神戸ゴルフ倶楽部が発足した。そして、その翌年の明治37年には、18ホールに拡大して1907(明治40)年には、横浜対神戸のインターポート試合と、日本アマチュア選手権を実施した。
また、神戸ゴルフ倶楽部(KGC)は冬の4ヶ月間閉鎖される不便を補うため、英国人ウィリアム・ロビンソンが、37年に横屋ゴルフアソシェーションを創設した。
日本初のプロゴルファーや日本婦人選手権の初代チャンピオンが誕生したのも神戸である。
六甲に別荘があった室谷藤七(同GCの理事長などを歴任した人)は、第1回関西アマチュア選手権で優勝した名プレーヤーで、日本人初のスクラッチプレーヤー(ハンデ0)となる。
又、神戸ゴルフ倶楽部では、六甲山麓(ろく)に住む子供たちが小遣い銭稼ぎに山道を登ってキャディーを務めていた。横屋、その後出来た鳴尾でも近所の子供がバッグをかついでいた、この中から数々のプロが誕生したが、プロ第1号が福井覚治である。
因みに、日本人最初のゴルファー(1907年=明治40年)は、小倉正太郎で、日本人女性で最初にゴルフをしたのもその妹で、神戸女学院生であった小倉末子(14歳:後のピアニスト)であった。
現在のハウスは、1931(昭和6)年〜1932(昭和7)年にかけて改築されたもので、当時の百貨店や関西学院、神戸女学院などを手がけていたアメリカの設計家ウイリアム・メレル・ヴォーリスによるものである。
明治の時代は、神戸開港とともに始まった。開港と同時に、外国人居留地が出来、西洋の文化が、そこから発信されだした。そのため、神戸には、日本初のものが多くあり、この神戸倶楽部もその一つ。神戸っ子のお国自慢の一つである。又、神戸倶楽部のある六甲山のよいところは、市内にそびえていることと、日本の山にありがちな求道性や哲学がないことだと、司馬遼太郎さんが書いている。『司馬遼太郎追想集・ここに神戸がある』(月刊神戸っ子)の一節。名山と評される日本の多くの山は、たいていの場合、修験者によって開かれた。富士山、御岳、大峰山、葛城山…。しかし、六甲山は、そうではない。登る者に圧迫するような観念的な要素がなく、明るい緑の空気のなかで、若い人は安心して恋を語ることができるし、中年の男性は仕事のことを忘れてゴルフクラブを振ることができる…。それこそが六甲山の値打ちだと・・・。神戸を訪れた時は是非、六甲山を登ってみてくださいな。
また今日5月24日の誕生花は「芍薬(しゃくやく)」でその花言葉は恥じらい」「恥辱」「はにかみ」「謙遜」「内気」「怒り」「立腹」「清浄」とある。









今日は東京スカイツリー開業一周年の日です

おはようございます。今日はスカイツリーが開業してから1年目です。先日来場者数は634万人を超えたとか!皆さんいかれましたか?

5月21日は、「小学校開校の日」です

1869(明治2)年、5月21日は、京都市の上京第二十七番組(柳池<りゅうち>)小学校と、下京第十四番組(修徳<しゅうとく>)小学校で日本初の小学校の開校式が行われた日だそうだ。
そうだ!京都へ行ってみよう
京都には何かがある…日本人の心のふるさとが・・・(^_^;)

そして現在、放送中の大河ドラマ「八重の桜」。
主人公は激動の幕末、東北・会津の武家に生まれたおてんば娘の八重さんです。
まずは彼女の人となりをご紹介しましょう。
弘化2年(1845年)生まれの八重は、17歳年上の兄で、会津藩の砲術師範を務める覚馬(かくま)に憧れて育ち、兄から射撃や砲術を学びました。
後に起こった戊辰戦争では、最新のスペンサー銃を手に、一カ月に渡って奮戦します。
断髪・男装して戦うその勇敢な姿は、“幕末のジャンヌ・ダルク”と称されました。
しかし、その戦いに敗れ、父と弟を失った上、夫の川崎尚之助とも離別した八重は、 3年後の明治4年(1871年)、当時京都府顧問だった覚馬を頼って京都に移住します。
日本で最初の女学校「女紅場(にょこうば)」で補助教員の職に就いた八重は、さらに英語を学び、覚馬とともに外国人向けの京都のガイドブック作りを手伝いました。
その頃、アメリカに留学していた新島襄(にいじまじょう)が、キリスト教学校を日本に設立しようと帰国します。
明治8年(1875年)、八重と襄は運命的な出会いを果たし、その約8カ月後、京都で日本人として初のキリスト教式の結婚式を行いました。
ちなみにアメリカ帰りの襄はレディファーストを実践。
八重は夫である襄よりも、人力車に先に乗っていました。
まだ、女性は慎ましやかに、夫を影で立てるという時代。
そんな八重に陰口を叩くものも大勢いましたが、それも気にしなかったのが八重という人でした。

自分の信じる道をひたむきに歩む八重の生き様を、襄は婚約後の手紙で「ハンサム(美しい人)」と書いていました。二人の住まいが、今も京都御所の東側に残っています。
新島旧邸は事前申し込みが必要です。
受付を済ませて、まずは同じ敷地内にある新島会館別館に向かいましょう。
ここでは新島八重の生涯をパネルなどで分かりやすく展示しています。
ほかにも、八重の強い精神を形作ったとされる「日新館童子訓」(会津藩の子弟が学んだ藩校・日新館の幼年教育の基礎となる教え)、新島襄による朱書きの書き込みがされた聖書、襄が八重に宛てた手紙、八重の詠んだ和歌、さらには貴重な写真の数々をご覧いただけます(資料や写真はすべて複製)。
襄の大学設立への思い、そして自分の信念を貫いた八重の強さが様々な資料から伝わってきます。
知識を頭に入れたところで、ようやく「新島旧邸」へ。
外観はコロニアル様式(スペイン時代の建物の形式)で、和に洋を取り入れたもの。
白い建物の正面にはポーチがあり、大きな窓やバルコニーがあるのが特徴です。
襄が住んでいた頃は、東のバルコニーから、五山の送り火で知られる大文字山がよく見えたといいます。
明治9年(1876年)、仏教界が激しく反対する中、襄は同志社英学校を設立します。
これが後の同志社大学となるのです。
新島邸は、かつて同志社の学生の交流の場として、多くの人の出入りがありました。
襄が当時使っていた書斎は、壁一面に書棚があり、その8割が洋書でした。
同志社の学生は、この書斎を図書室のように自由に利用していたといわれています。
一階の大きな応接間には当時の椅子やテーブル、八重が愛用していたオルガンがそのまま置かれています。
ここは教室、職員室、会議室、教会の集会室など、多目的に使われていました。
また部屋の隅には、鉄板で作った簡単な暖炉があります。そして、八重の身長に合わせて作られた台所ですが、当時の京都の民家では、台所といえば土間形式が一般的。
しかし、襄はこれを用いず、床板をいっぱいに張り、その上に流しを置きました。
そして、食堂で新島夫婦はロールキャベツやビフテキ、オムレツなど、西洋風の食事をしていたといいます。
ワッフルベーカー、洋食器、スープセット、襄が愛用した銀のスプーンなど、実際に使われていたもののレプリカが展示されています。
また、二階の寝室にはベッドが置かれていますが、洋式の生活が初めてだった八重のために、ベッドは低い作りになっています。
襄が亡くなった後、八重は一階の洋間を改造して茶室「寂中庵」を作りました。
50歳の時に裏千家に入門した彼女は、裏千家第13代家元、圓能斎(えんのうさい)の弟子となり、修行を積んでいます。
この茶室で稽古や茶会を開き、また亡くなる前日にも八重は茶会に出かけるなど、終生、茶を愛しました。
晩年、八重は篤志看護婦となって、日清戦争では40人の看護婦を率いて従軍します。
この功績が認められ、皇族以外の女性として、初めての勲章日清戦争では「勲七等宝冠章」、日露戦争では「勲六等宝冠章」を受けました。
時代の先を見つめ、そして自分の信念に基づき、しっかりと道を切り拓いてきた八重。
“幕末のジャンヌ・ダルク”、“日本のナイチンゲール”と呼ばれたハンサムウーマン・八重の生き様に触れようと、ここ新島旧邸は連日、観光客や歴史ファンで賑わいを見せているようです。
そんな京都散歩はいかがですか?









5月20日は東京港開港記念日です

東京港開港記念日とは1941年のこの日、芝浦・竹芝両埠頭が完成し、外国貿易港として開港指定を受けたのを記念して。
それまで東京の貿易は横浜港に依存していたが、関東大震災により東京にも大型船が入港できる港が必要になったことから、東京港が作られた。
明治維新以降、東京の貿易は横浜港に依存してきたが、関東大震災で東京にも大型船が入航可能な海港が必要となった。芝浦岸壁・竹芝両ふ頭が完成した1941年のこの日、東京港が開港しました。
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【東京港の歴史】参考・・東京都港湾局ホームページよりより転載させていただきしました。
初期の東京港
  [江戸時代〜関東大震災]
 東京港の前身である江戸湊は、江戸庶民に必要な消費物資の流通拠点として近世海運史上重要な役割を果たしました。幕末、横浜港は国際貿易港として開港しましたが、東京港の開港は実現しませんでした。
 明治時代、築港が隅田川口改良工事としてようやく始まり、水路の浚渫とその浚渫土砂による月島や芝浦の埋立造成が進められました。
開港めざして
  [関東大震災〜終戦]
 大正12年、関東大震災を契機に本格的ふ頭の建設が急きょ実施され、大正14年に日の出、続いて芝浦、竹芝の両ふ頭があいついで完成しました。東京港は近代港としての歩みを開始し、昭和16年5月20日、ついに念願の開港が実現しました。

 しかし間もなく日本は太平洋戦争に突入し、東京港本来の港湾機能は、戦後の連合軍による接収期間も含め、ほとんど停止状態になりました。
本格的な国際貿易港への飛躍[終戦〜現代]
 戦後、国内産業の復興とともに港湾施設の整備が急務となり、豊洲石炭ふ頭や晴海ふ頭などが建設されました。
 昭和40年代に入ると世界的なコンテナ輸送革命の波が湧き起こり、東京港はいち早くコンテナ化に対応しました。昭和42年、日本ではじめてのフルコンテナ船が品川ふ頭に入港し、東京港は国際貿易港として大きく飛躍することになりました。
 東京港では、その後も物資別専門ふ頭やフェリーふ頭など、時代の新しい要請に応える最新鋭の港湾施設を積極的に整備し、首都圏さらには東日本全域に及ぶ物資流通の要のひとつとして貢献してきました。






5月17日は生命・きずなの日です

2002年(平成14年)、日本ドナー家族クラブ(http://www.jdfc.net/index-j.html)が制定。ドナーとその家族が社会的に深く理解され、生命の大切さ、きずなの大切さについて考える日。

“生命の大切さ”と、“愛する人”への思いを忘れずにいるために、この日を・・・
 日本ドナー家族クラブ(JDFC)では、2002年度から5月17日を『生命・きずなの日〜Bridge of Life day』として制定しました。  日本では5月の頃は新緑の候と言い、すべての生命が萌え立つというのを象徴する季節であります。
 私達はこの佳い日に、私達の“最愛の人”ドナーとなられた方々を記念する日とし、同時に“生命の大切さ”、“きずなの大切さ”を思い合う、国民的記念日と制定しました。日本記念日協会にも登録・承認されました。
 残念ながら、今の我国では、移植医療の背後にいる“真のヒーロー”と言われるドナー及びドナーファミリーに対する社会的な理解と認識が不足しており、移植に関わる関係者の意識も低く、ドネーションの真価が社会的理解にまで達しているとは言えません。そんな中で、ドナーファミリーが、複雑な感情を抱え苦しんでいる状況があります。
 だからこそ、私達は日頃から、恒常的にドナーファミリーを支え、啓蒙の活動を続けていますが、記念日、メモリアル・デーの制定と共に、レシピエントの団体との共同、交流、経験のつみ重ねを深めて、毎年5月17日を大切な記念日として守り、発展させ、ドナー及びドナーファミリーへの社会の理解を高める努力をこれからも続けていきます。
 「私達は、社会に置き去りにされがちなドナーの家族を守り、励まし」「“究極の愛を貫いたドナー”の家族として、思いやりの精神と生命尊重を社会に喚起する」(JDFC設立趣旨)「ドナーの家族の利益のために活動し、必要に応じて社会への提言をしていく」(規約)との精神に則って、新緑の生命萌え立つ、5月17日に、ドナーファミリーの最愛の人を社会的に記念していこうとするものです。JDFCではこの日を記念して、会員ご家族にお花を贈っています。(http://www.jdfc.net/0517day.htmlより転載させていただきました)

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