1869(明治2)年、5月21日は、京都市の上京第二十七番組(柳池<りゅうち>)小学校と、下京第十四番組(修徳<しゅうとく>)小学校で日本初の小学校の開校式が行われた日だそうだ。
そうだ!京都へ行ってみよう
京都には何かがある…日本人の心のふるさとが・・・(^_^;)
そして現在、放送中の大河ドラマ「八重の桜」。
主人公は激動の幕末、東北・会津の武家に生まれたおてんば娘の八重さんです。
まずは彼女の人となりをご紹介しましょう。
弘化2年(1845年)生まれの八重は、17歳年上の兄で、会津藩の砲術師範を務める覚馬(かくま)に憧れて育ち、兄から射撃や砲術を学びました。
後に起こった戊辰戦争では、最新のスペンサー銃を手に、一カ月に渡って奮戦します。
断髪・男装して戦うその勇敢な姿は、“幕末のジャンヌ・ダルク”と称されました。
しかし、その戦いに敗れ、父と弟を失った上、夫の川崎尚之助とも離別した八重は、 3年後の明治4年(1871年)、当時京都府顧問だった覚馬を頼って京都に移住します。
日本で最初の女学校「女紅場(にょこうば)」で補助教員の職に就いた八重は、さらに英語を学び、覚馬とともに外国人向けの京都のガイドブック作りを手伝いました。
その頃、アメリカに留学していた新島襄(にいじまじょう)が、キリスト教学校を日本に設立しようと帰国します。
明治8年(1875年)、八重と襄は運命的な出会いを果たし、その約8カ月後、京都で日本人として初のキリスト教式の結婚式を行いました。
ちなみにアメリカ帰りの襄はレディファーストを実践。
八重は夫である襄よりも、人力車に先に乗っていました。
まだ、女性は慎ましやかに、夫を影で立てるという時代。
そんな八重に陰口を叩くものも大勢いましたが、それも気にしなかったのが八重という人でした。
自分の信じる道をひたむきに歩む八重の生き様を、襄は婚約後の手紙で「ハンサム(美しい人)」と書いていました。二人の住まいが、今も京都御所の東側に残っています。
新島旧邸は事前申し込みが必要です。
受付を済ませて、まずは同じ敷地内にある新島会館別館に向かいましょう。
ここでは新島八重の生涯をパネルなどで分かりやすく展示しています。
ほかにも、八重の強い精神を形作ったとされる「日新館童子訓」(会津藩の子弟が学んだ藩校・日新館の幼年教育の基礎となる教え)、新島襄による朱書きの書き込みがされた聖書、襄が八重に宛てた手紙、八重の詠んだ和歌、さらには貴重な写真の数々をご覧いただけます(資料や写真はすべて複製)。
襄の大学設立への思い、そして自分の信念を貫いた八重の強さが様々な資料から伝わってきます。
知識を頭に入れたところで、ようやく「新島旧邸」へ。
外観はコロニアル様式(スペイン時代の建物の形式)で、和に洋を取り入れたもの。
白い建物の正面にはポーチがあり、大きな窓やバルコニーがあるのが特徴です。
襄が住んでいた頃は、東のバルコニーから、五山の送り火で知られる大文字山がよく見えたといいます。
明治9年(1876年)、仏教界が激しく反対する中、襄は同志社英学校を設立します。
これが後の同志社大学となるのです。
新島邸は、かつて同志社の学生の交流の場として、多くの人の出入りがありました。
襄が当時使っていた書斎は、壁一面に書棚があり、その8割が洋書でした。
同志社の学生は、この書斎を図書室のように自由に利用していたといわれています。
一階の大きな応接間には当時の椅子やテーブル、八重が愛用していたオルガンがそのまま置かれています。
ここは教室、職員室、会議室、教会の集会室など、多目的に使われていました。
また部屋の隅には、鉄板で作った簡単な暖炉があります。そして、八重の身長に合わせて作られた台所ですが、当時の京都の民家では、台所といえば土間形式が一般的。
しかし、襄はこれを用いず、床板をいっぱいに張り、その上に流しを置きました。
そして、食堂で新島夫婦はロールキャベツやビフテキ、オムレツなど、西洋風の食事をしていたといいます。
ワッフルベーカー、洋食器、スープセット、襄が愛用した銀のスプーンなど、実際に使われていたもののレプリカが展示されています。
また、二階の寝室にはベッドが置かれていますが、洋式の生活が初めてだった八重のために、ベッドは低い作りになっています。
襄が亡くなった後、八重は一階の洋間を改造して茶室「寂中庵」を作りました。
50歳の時に裏千家に入門した彼女は、裏千家第13代家元、圓能斎(えんのうさい)の弟子となり、修行を積んでいます。
この茶室で稽古や茶会を開き、また亡くなる前日にも八重は茶会に出かけるなど、終生、茶を愛しました。
晩年、八重は篤志看護婦となって、日清戦争では40人の看護婦を率いて従軍します。
この功績が認められ、皇族以外の女性として、初めての勲章日清戦争では「勲七等宝冠章」、日露戦争では「勲六等宝冠章」を受けました。
時代の先を見つめ、そして自分の信念に基づき、しっかりと道を切り拓いてきた八重。
“幕末のジャンヌ・ダルク”、“日本のナイチンゲール”と呼ばれたハンサムウーマン・八重の生き様に触れようと、ここ新島旧邸は連日、観光客や歴史ファンで賑わいを見せているようです。
そんな京都散歩はいかがですか?
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