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2018年03月18日

もともと人は隣人を愛することはできないのではないか?

皇居近くで桜がちらほら咲き始めました。

例年より9日も早いということ。

都内で桜祭りを4月上旬にしていたら葉桜の中やることになってしまいます。

桜がない中、各人がちった桜を思い描くそういったお祭りも風流かと。

本日はこれ もともと人は隣人を愛することはできないのではないか?

「汝、隣人を愛せよ」とキリスト教の教えにあります。

そもそも隣人とは誰を指しているのでしょうか?

親子の間でも隣人ともいえますし、まったく見ず知らずの人でも隣人とも言えます。

ここでは自分に関係する人達とわたしは解釈します。

そもそもこういう人達を愛することが可能なのでしょうか?

つまり無償の愛というもので。

無条件に無償の愛にていついかなる時も隣人を愛することは可能か?

いや、無理

ほんと、無理

勘弁してください!

この問いの解釈によっては上のような究極の問いになるわけです。

上の条件の場合、親子であってもうそうでありましては他人など愛せることができない。

ドストエフスキーも、もともと人は隣人を愛することはできないものと語っています。

このような解釈もできます。

もともと人は隣人を愛することができないので、あえて

「汝、隣人を愛せよ」という教えをしている。と

またこういう解釈もできます。

もともと人は隣人を愛することができないので、あえて

「汝、隣人を愛せよ」というのではなく、「汝、自分を愛せよ」と

無条件に無償の愛にていついかなる時も自分を愛することは可能か?

これも

いや、無理

ほんと、無理

勘弁してください!

自分も隣人のひとりなんですね・・・・。

わたしの解釈として、

無条件にいついかなるときも隣人(自己を含む)を愛することなんてできはしない。

だからといって諦めてよいのか?

よくないのではないか?

では隣人を愛することをあえて恣意的に努力すべきだ

というのが「汝、隣人を愛せよ」のわたしの見解です。

キリスト教の信者のかたには怒られるかもしれませんが、あえてこの問いを投げかけたい

「汝、隣人を愛することは可能か?」

まとめ
・恋人同士がかわす「愛しているよ」ということへの欺瞞












posted by ましゅ at 06:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然
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