2011年03月13日
怖かった…
3月11日はウチの旦那の誕生日。
「平日はゆっく出来ないから、パーティーは土曜にやろうね。」
って話していました。
3月11日、これほどまでの地震が起きるなんて、想像もしませんでした。
仕事中…最初は少し揺れ出して、私の部署は男性が多いせいか、意外とみんな冷静。
でも私は、怖くて急いで机の下に隠れました。
そうしたら、間もなく長い揺れが続いて、いつのまにか見えていたみんなが、視界から消えていました。激しい揺れの中で
“今まで私が体験した地震と違う。何これ。こんなの初めてだ。”
って思いました。
コピー機が飛ばされていたり、書類なんて何がなんだか…。
気付いたら非常ベルが鳴り響いていました。
机の下で必死にしがみついていました。
その後、避難指示があって外に出ました。
階段には壁が少し崩れたのか、かけらが沢山落ちていました。
外に出てからも余震は何度もあって、体が自然とガタガタ震えてきました。
周りの女性たちは、そんな感じでした。
勿論、直後から携帯は繋がらない。
“家族は皆大丈夫だろうか?”
まずそのことが頭をよぎります。
上司は、
「こんな状態で家族のことが心配だと思うし、家に帰って大丈夫だから。」
と言ってくれました。急いで家に帰りました。
運転中も揺れを感じて何度も止まりました。
信号も途中で機能しなくなりました。
慎重に運転しました。
途中で止まって、携帯でおじいちゃんにかけました。
皮膚が荒れていた息子を病院に連れていってくれることになっていました。
その時だけ、不思議なことに偶然電話が繋がって、二人の無事を確認出来ました。
「車を運転中だった。周りを確認して何もないところで止まっていたよ。」
ということでした。
その後、自宅もにも旦那にもつながらない。学校は大丈夫だろうか…。
帰り道、大谷石のお宅の塀は崩れていたり、瓦屋根の瓦が沢山落ちていたり、窓ガラスは外れていたり、割れてたり、倒れていたり、道路にもヒビが。
道路越しに自宅が見えました。おばあちゃんの姿が見えたので安心しました。
家にいるおばあちゃんの安全も確認できたので、そのまま学校へ向かいました。
娘は震えて泣いていました。子供達はみんなそんな様子。
揺れている中、避難を始めたそうで、階段をで怪我をしてしまった子もいたということでした。
「隣の教室は上にあったテレビが飛んできたんだって。怖くてたまらなかった。」
と震えていました。そのまま家に帰りました。
家に帰るとおばあちゃんは割れた食器を片づけていました。
おじいちゃんと、息子もいました。少したつと旦那も帰ってきました。
全員怪我ひとつ無かったことに感謝して、喜びあいました。
ウチの地域は停電はしていましたが、水は大丈夫でした。
電話は繋がらないけれど、メールは出来ました。
iモードを見ることも出来ました。
実家の無事も確認出来ました。
ポータブルのラジオを聞くと、国内観測史上最大の地震とのことで…
只々驚くばかりでした。東北地方は物凄いことになっていることが伝わってきました。
暗闇の中、懐中電灯の明かりを頼りに厚着をして、続く余震の中一晩過ごしました。
ウチの地域は12日朝5時には電気が復旧しました。
ほんの1キロ先の地域は夕方までは復旧しなかったそうです。
テレビを見て、事の重大さに言葉が出ませんでした。
後から分かったことですが、私の職場がある市は震度6強、我が家の地域は震度6弱の震度でした。
揺れは激しかったけれど、栃木県には海が有りません。
津波の被害は無かったので、不便はあったけれど、今こうしてPCにも向かえる現実があります。
映像で海に近い東北地方の惨劇を見ていると、もう何と言っていいのやら言葉が見つかりません。
一人でも多くの方の無事を祈るばかりです。
「平日はゆっく出来ないから、パーティーは土曜にやろうね。」
って話していました。
3月11日、これほどまでの地震が起きるなんて、想像もしませんでした。
仕事中…最初は少し揺れ出して、私の部署は男性が多いせいか、意外とみんな冷静。
でも私は、怖くて急いで机の下に隠れました。
そうしたら、間もなく長い揺れが続いて、いつのまにか見えていたみんなが、視界から消えていました。激しい揺れの中で
“今まで私が体験した地震と違う。何これ。こんなの初めてだ。”
って思いました。
コピー機が飛ばされていたり、書類なんて何がなんだか…。
気付いたら非常ベルが鳴り響いていました。
机の下で必死にしがみついていました。
その後、避難指示があって外に出ました。
階段には壁が少し崩れたのか、かけらが沢山落ちていました。
外に出てからも余震は何度もあって、体が自然とガタガタ震えてきました。
周りの女性たちは、そんな感じでした。
勿論、直後から携帯は繋がらない。
“家族は皆大丈夫だろうか?”
まずそのことが頭をよぎります。
上司は、
「こんな状態で家族のことが心配だと思うし、家に帰って大丈夫だから。」
と言ってくれました。急いで家に帰りました。
運転中も揺れを感じて何度も止まりました。
信号も途中で機能しなくなりました。
慎重に運転しました。
途中で止まって、携帯でおじいちゃんにかけました。
皮膚が荒れていた息子を病院に連れていってくれることになっていました。
その時だけ、不思議なことに偶然電話が繋がって、二人の無事を確認出来ました。
「車を運転中だった。周りを確認して何もないところで止まっていたよ。」
ということでした。
その後、自宅もにも旦那にもつながらない。学校は大丈夫だろうか…。
帰り道、大谷石のお宅の塀は崩れていたり、瓦屋根の瓦が沢山落ちていたり、窓ガラスは外れていたり、割れてたり、倒れていたり、道路にもヒビが。
道路越しに自宅が見えました。おばあちゃんの姿が見えたので安心しました。
家にいるおばあちゃんの安全も確認できたので、そのまま学校へ向かいました。
娘は震えて泣いていました。子供達はみんなそんな様子。
揺れている中、避難を始めたそうで、階段をで怪我をしてしまった子もいたということでした。
「隣の教室は上にあったテレビが飛んできたんだって。怖くてたまらなかった。」
と震えていました。そのまま家に帰りました。
家に帰るとおばあちゃんは割れた食器を片づけていました。
おじいちゃんと、息子もいました。少したつと旦那も帰ってきました。
全員怪我ひとつ無かったことに感謝して、喜びあいました。
ウチの地域は停電はしていましたが、水は大丈夫でした。
電話は繋がらないけれど、メールは出来ました。
iモードを見ることも出来ました。
実家の無事も確認出来ました。
ポータブルのラジオを聞くと、国内観測史上最大の地震とのことで…
只々驚くばかりでした。東北地方は物凄いことになっていることが伝わってきました。
暗闇の中、懐中電灯の明かりを頼りに厚着をして、続く余震の中一晩過ごしました。
ウチの地域は12日朝5時には電気が復旧しました。
ほんの1キロ先の地域は夕方までは復旧しなかったそうです。
テレビを見て、事の重大さに言葉が出ませんでした。
後から分かったことですが、私の職場がある市は震度6強、我が家の地域は震度6弱の震度でした。
揺れは激しかったけれど、栃木県には海が有りません。
津波の被害は無かったので、不便はあったけれど、今こうしてPCにも向かえる現実があります。
映像で海に近い東北地方の惨劇を見ていると、もう何と言っていいのやら言葉が見つかりません。
一人でも多くの方の無事を祈るばかりです。