昭和30年代、NHKに続き、4チャンネルの日本テレビ、6チャンネルのTBS、8チャンネルのフジテレビ、10チャンネルのテレビ朝日、12チャンネルのテレビ東京の順に、民放は開局していった。
NHKは、ニュースが主体で、民放は、王、長嶋選手が活躍する野球放送、力道山が活躍するプロレス中継が、横綱的存在の番組であった。
世相も、戦後の混乱期を脱しバブルの助走時代、人々は工場で汗、油まみれに働き、野球放送とプロレス放送を見ることによってストレスをはらしていた。
当然まだ白黒放送で、放送時間も、現在みたいに、一日中放送しているわけではない。
夜のゴールデンタイムと昼メロが主で、昭和30年代後半になると、朝のモーニングショーがヒットし、その後、午後3時代の番組も放送されるようになったのである。
民放では、巨人戦、プロレスの放送権を持つ日本テレビは、後から開局したTBSやフジテレビに比べるとダントツである。
TBS、フジテレビは、日本テレビと比べると、横綱と序の口の勝負で、とても歯がたたない。
そこで、なんとか日本テレビに対抗出来ないものか、と考えたあげく、手を組み、両社で資本を折半し、カメラマンやオーディオマン、映像マン、照明など、番組制作技術スタッフプロダクションを設立したのである。
その会社は東通という会社で、後にカラー放送が始まり、バブルの時代になると破竹の勢いで伸びていく。
その後、日通、電通に迫り、日本の3通と呼ばれるまで急成長していくのである。
昭和40年、ひかるは、その東通の第1期生として華々しく入社したのである。
ひかるが夜学卒業時、求人板には、今の名だたる家電メーカー、東芝や日電、松下やソニーなど、設計関係や、それがらみの求人が所狭しと並んでいた。
テレビ関係の求人は殆んど無く、隅っこに一枚あっただけで誰も振り向かなかった。
ひかるは、難なくテレビ界に就職出来たのである。
(TV界が、これ程急発進、急展開する事は、誰も予測出来なかったのである)
求人広告で目を引いたのは、赤井電気という、中堅企業であった。
待遇が、他の会社に比べ、格段に良かったのである。
クラスの秀才達は、その赤井電気に殺到した。
15年前後、新聞の見出しに、赤井電気倒産の記事を見た時、胸をなでおろした。
会社更生法で、存続はしたようであるが、就職した、ずば抜けて頭の良かった友人達の顔が、頭をよぎったのである。
ひかるは、さほど頭がよくなくて良かった。幸運であった、としみじみ感じたのである。
また、頭がよくなくて良かったと思われるような幸運が、これから先、何度もひかるに訪れるのである。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image