2022年08月26日
日韓併合について調べてみた
かつて日本は朝鮮半島を併合していました。これはいわゆる植民地化とは違うものでした。
そして近年、このことについて韓国は事あるごとに謝罪や補償を求めていますが、これに対応することは正しいことではないという事が分かりました。
併合前と併合後の朝鮮半島の変化について調べ、下記の通りまとめました。
1910(明治43)8月29日〜1945(昭和20)9月9日 35年間
1910(明治43)年8月22日に、韓国併合条約が調印され、29日に発効した。
1945(昭和20)年9月9日、朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印し、終了した。
大日本帝国は大韓帝国側の全借財を肩代わりし、併合した。
朝鮮総督府(初代総督、寺内正毅)が置かれた。
韓国の併合を依頼したのは韓国側であり、日本が植民地として支配した訳ではない。
「韓国は日本に近きことと、一人で立ちゆく能力なきが故に、日本の監理と保護の下に入らねばならぬ」(ランズダウン英国外相)
イザベラ・バード(イギリスの旅行作家)『朝鮮紀行』(1894年〜1897年に李氏朝鮮を旅行時の記録)
堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。
「ソウルは汚いことと臭いことでは世界一である」(『三〇年前の朝鮮』イザベラ・バード著、1920年刊)
1894(明治27)年7月29日、韓国駐在シル米国代表
「日本は思いやりの態度で韓国に接していると思う。・・・韓国を中国の束縛から解放しようとしているようだ。韓国国民に平和と繁栄と文明開化をもたらすことによって、力の弱い隣国を安定した独立国にしようと考えている。」(『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ)
併合の前の1906(明治39)年、韓国統監、伊藤博文は韓国国家を立て直すために「学校教育の充実」を最優先で実施。日本銀行から500万円を借款し、そのうちの50万円を教育の振興に充てた。
また、「普通学校令」「師範学校令」「外国語学校令及高等学校令」「高等女学校令」「私立学校補助規定」「私立学校令」を制定。近現代の韓国の教育制度の礎は、伊藤博文により築かれた。
当時の文盲率は70〜80%ほど。
しかしその伊藤は1909年、中国のハルビン駅で朝鮮民族主義者の安重根に暗殺された。
安重根は現在韓国で英雄視され、ソウル市に記念館と銅像がある。またハルビン市内にも記念館と銅像がある。韓国、中国国民の恥知らずな行動と、これを許す日本の外務省のなんと情けないことか。
■小学校(国民学校)数
1906年 40校未満
1944年 5,213校
■初等教育就学率
1910年 1.0%
1923年 11.2%
1935年 21.7%
1943年 49.0%
■1924年、日本で6番目の帝国大学として、京城帝国大学を設立
■1908年「李王家博物館」が作られた
それ以前、仏像などが破壊されたり埋められたりしていたのを発掘し、展示。海外への売り飛ばしも厳禁し、海外への流出を防止した。
総距離5,000キロに及ぶ鉄道、道路、上下水道、電気、病院、学校、工場
水防工事、水利工事により農業が発展
水豊ダム 1937〜1944 70万キロワット/時(黒部ダムの約2倍)
■造林
併合前 乱伐によるはげ山
1911年 4,000ヘクタール、1,152万本
1922年までの累計 36万ヘクタール、10億本
■水田
併合前 84万町歩
1920年 155万町歩
1928年 162万町歩
1942年 177万町歩
■耕地面積
1910(明治43) 246.4万町歩
1914(大正3) 295.9万町歩
1919(大正8) 432.4万町歩
1929(昭和4) 439.2万町歩
1938(昭和13) 443.6万町歩
1942(昭和17) 439.6万町歩
■米生産高
併合前 1,000万石/年
1932 1,700万石
1940 2,200万石超
■企業
三菱製鉄、日本製鐵、日本窒素肥料
■金融システムは日本の銀行が作った
1902 第一銀行(現在のみずほ銀行)韓国総支店が第一銀行券を発行、実質的な中央銀行として機能
1909(明治42)年 伊藤博文が中央銀行として「韓国銀行」を設立→1911「朝鮮銀行」→「韓国銀行(現行中央銀行)」
■人口
1910年 13,128,780人
1944年 25,120,174人
■寿命
1910年 24歳
1942年 45歳
■工業生産額
1927〜1933 3億円台/年
1935 6億円台超
1940 18億円台超
■財政補填
1905(明治38)年以降1945(昭和20)年まで、1919年を除き、毎年15〜20%補填
日本と韓国は交戦国ではなかったので、国際法上は発生しないが、国交正常化した1965年、
「日韓企保運条約」締結時、「政府無償贈与」として3億ドル(当時のレートで1,915億円)、有償2億ドル、民間借款3億ドルが支払われた。
また、本来日本が正当に請求できる資産として、朝鮮半島に残した現在の価値で約14兆円分も放棄した。
(イギリスはインドから撤退する際、巨額の資金をインドに払わせた)
2000年まで日本はODAを実施。総額7,000億円超。
これらの資金、援助により、韓国は「漢江の奇跡」と言われる復興を遂げた。
両国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決された。
それにもかかわらず、韓国はことあるごとに日本に請求し、日本はそれに応じ続けている。
真の友好は、まず真実の確認から。
皆さんも一度、ご自身で調べてみることをお勧めいたします。
参考資料
『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』水田政憲
『日本を誣いる人々』渡部昇一、 呉善花、 八木秀次
Wikipedia
◆PR◆
未経験から正社員のITエンジニアへ!プログラミングが無料で学べて、就職もサポート。
【未経験からプログラマ】完全無料であなたの就職をサポート
そして近年、このことについて韓国は事あるごとに謝罪や補償を求めていますが、これに対応することは正しいことではないという事が分かりました。
併合前と併合後の朝鮮半島の変化について調べ、下記の通りまとめました。
期間
1910(明治43)8月29日〜1945(昭和20)9月9日 35年間
1910(明治43)年8月22日に、韓国併合条約が調印され、29日に発効した。
1945(昭和20)年9月9日、朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印し、終了した。
大日本帝国は大韓帝国側の全借財を肩代わりし、併合した。
朝鮮総督府(初代総督、寺内正毅)が置かれた。
韓国の併合を依頼したのは韓国側であり、日本が植民地として支配した訳ではない。
併合前の外国人の言葉
「韓国は日本に近きことと、一人で立ちゆく能力なきが故に、日本の監理と保護の下に入らねばならぬ」(ランズダウン英国外相)
イザベラ・バード(イギリスの旅行作家)『朝鮮紀行』(1894年〜1897年に李氏朝鮮を旅行時の記録)
堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。
「ソウルは汚いことと臭いことでは世界一である」(『三〇年前の朝鮮』イザベラ・バード著、1920年刊)
1894(明治27)年7月29日、韓国駐在シル米国代表
「日本は思いやりの態度で韓国に接していると思う。・・・韓国を中国の束縛から解放しようとしているようだ。韓国国民に平和と繁栄と文明開化をもたらすことによって、力の弱い隣国を安定した独立国にしようと考えている。」(『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ)
教育
併合の前の1906(明治39)年、韓国統監、伊藤博文は韓国国家を立て直すために「学校教育の充実」を最優先で実施。日本銀行から500万円を借款し、そのうちの50万円を教育の振興に充てた。
また、「普通学校令」「師範学校令」「外国語学校令及高等学校令」「高等女学校令」「私立学校補助規定」「私立学校令」を制定。近現代の韓国の教育制度の礎は、伊藤博文により築かれた。
当時の文盲率は70〜80%ほど。
しかしその伊藤は1909年、中国のハルビン駅で朝鮮民族主義者の安重根に暗殺された。
安重根は現在韓国で英雄視され、ソウル市に記念館と銅像がある。またハルビン市内にも記念館と銅像がある。韓国、中国国民の恥知らずな行動と、これを許す日本の外務省のなんと情けないことか。
■小学校(国民学校)数
1906年 40校未満
1944年 5,213校
■初等教育就学率
1910年 1.0%
1923年 11.2%
1935年 21.7%
1943年 49.0%
■1924年、日本で6番目の帝国大学として、京城帝国大学を設立
■1908年「李王家博物館」が作られた
それ以前、仏像などが破壊されたり埋められたりしていたのを発掘し、展示。海外への売り飛ばしも厳禁し、海外への流出を防止した。
インフラ等
総距離5,000キロに及ぶ鉄道、道路、上下水道、電気、病院、学校、工場
水防工事、水利工事により農業が発展
水豊ダム 1937〜1944 70万キロワット/時(黒部ダムの約2倍)
■造林
併合前 乱伐によるはげ山
1911年 4,000ヘクタール、1,152万本
1922年までの累計 36万ヘクタール、10億本
■水田
併合前 84万町歩
1920年 155万町歩
1928年 162万町歩
1942年 177万町歩
■耕地面積
1910(明治43) 246.4万町歩
1914(大正3) 295.9万町歩
1919(大正8) 432.4万町歩
1929(昭和4) 439.2万町歩
1938(昭和13) 443.6万町歩
1942(昭和17) 439.6万町歩
■米生産高
併合前 1,000万石/年
1932 1,700万石
1940 2,200万石超
■企業
三菱製鉄、日本製鐵、日本窒素肥料
■金融システムは日本の銀行が作った
1902 第一銀行(現在のみずほ銀行)韓国総支店が第一銀行券を発行、実質的な中央銀行として機能
1909(明治42)年 伊藤博文が中央銀行として「韓国銀行」を設立→1911「朝鮮銀行」→「韓国銀行(現行中央銀行)」
■人口
1910年 13,128,780人
1944年 25,120,174人
■寿命
1910年 24歳
1942年 45歳
■工業生産額
1927〜1933 3億円台/年
1935 6億円台超
1940 18億円台超
■財政補填
1905(明治38)年以降1945(昭和20)年まで、1919年を除き、毎年15〜20%補填
朝鮮半島への賠償問題
日本と韓国は交戦国ではなかったので、国際法上は発生しないが、国交正常化した1965年、
「日韓企保運条約」締結時、「政府無償贈与」として3億ドル(当時のレートで1,915億円)、有償2億ドル、民間借款3億ドルが支払われた。
また、本来日本が正当に請求できる資産として、朝鮮半島に残した現在の価値で約14兆円分も放棄した。
(イギリスはインドから撤退する際、巨額の資金をインドに払わせた)
2000年まで日本はODAを実施。総額7,000億円超。
これらの資金、援助により、韓国は「漢江の奇跡」と言われる復興を遂げた。
両国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決された。
それにもかかわらず、韓国はことあるごとに日本に請求し、日本はそれに応じ続けている。
真の友好は、まず真実の確認から。
皆さんも一度、ご自身で調べてみることをお勧めいたします。
参考資料
『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』水田政憲
『日本を誣いる人々』渡部昇一、 呉善花、 八木秀次
Wikipedia
◆PR◆
未経験から正社員のITエンジニアへ!プログラミングが無料で学べて、就職もサポート。
【未経験からプログラマ】完全無料であなたの就職をサポート
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/11560823
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック