2014年06月15日
津波2.5m?神戸・旧居留地で発見された、過去「南海地震」の鮮明な爪痕
津波2.5m?神戸・旧居留地で発見された過去「南海地震」の鮮明な爪痕
■発掘された爪痕と八雲の教訓に学ぶ
勝海舟、
坂本龍馬ら幕末の英雄が恐らく足を踏み入れたであろう場所で、
平成21〜22年、
南海地震による津波の痕跡が発掘されている。
神戸市中央区のJR三ノ宮駅から南へ下った
神戸市役所のすぐ西に位置する、
旧外国人居留地だ。
神戸の外国人居留地は、
安政5(1858)年に幕府が米国との間で結んだ
日米修好通商条約にもとづいて
10年後に神戸が開港されるとともに、
建設が始まった。
それに先立つこと4年、
のちの居留地の南側に海舟の発案で設立されたのが
幕府の海軍操練所で、
1年後に閉鎖されるまでの間、
各藩の子弟や龍馬ら脱藩浪人までもが学んだ。
そのころのこの辺りは、
西側の兵庫港が回船の港として栄えていたのとは異なり、
うらさびしい海浜だったようだ。
歯にきぬ着せぬことで知られた海舟の表現を借りると、
「つまらない百姓家ばかり」
(「氷川清話」)ということになってしまう。
むしろ、
だからこそ、
日本人と外国人との摩擦を嫌った幕府は居留地として開放したのだろう。
その後、
居留地として開発、
整地されたことがタイムカプセルの役割を果たし、
津波の痕跡が約140年の時を経て顔をのぞかせることになったのだ。
発掘された場所は現在、
市の危機管理センターとなっているが、
居留地が開かれたのちの明治時代には、
米国系の日本茶輸出会社
「ヘリヤ商会」が輸出する茶の加工工場を構えていた。
その工場跡地のコンクリートなどで地盤改良、
整地されたすぐ下、
地表から約1・5メートルの所で、
厚さ約30センチの砂の層が南北約15メートル、
東西約2メートルにわたり確認された。
同志社大学理工学部の増田富士雄教授(地質学)の分析によると、
この砂の層は、
東側に流れていた旧生田川の
河川氾濫で生じる泥をほとんど含んでいなかった。
また、
砂の粒子が山側方向と海側方向へ
交互に折り重なるように堆積していたことから、
寄せてはかえす運動を幾度も繰り返す
津波によって形成されたとみられるという。
さらに、
この地層の上下には明治時代に整地された層と17世紀初頭の層があり、
増田教授は宝永4(1707)年に起きた宝永地震か、
嘉永7(1854)年の安政南海地震による津波ではないかとしている。
現場が標高1・7〜2メートルであることから
津波高は2・5メートル程度と推定され、
「現在のJR三ノ宮駅周辺にまで遡上(そじょう)していた可能性がある」
(神戸市教育委員会文化財課の担当課長、千種浩さん)という。
それにしても、
阪神間の浜を広範囲に襲ったはずの津波の痕跡が、
ここでしか見つかっていないのはなぜなのだろうか。
千種さんによると、
「砂の層の発掘場所がくぼ地になっていて、
堆積物が残りやすい微妙な地形になっていたようだ」ということらしい。
ところで、
この旧居留地にゆかりのある歴史上の人物がもう一人いる。
小泉八雲ことラフカディオ・ハーンである。
八雲は居留地で発行されていた新聞「コーベ・クロニクル」に、
明治27(1894)年から2年間、
記者として在籍していた。
明治27年に評論「地震と国民性」を書き、
同29年には、
この年起きた明治三陸地震による大津波の新聞記事を目にしたことを機に、
短編小説「生き神様」を著している。
この小説はのちに中井常蔵によって子供向けの
「稲むらの火」に書き改められ、
津波避難の防災教育の教材として
現代にいたるまで広く知られることになる。
こうした業績から
近年は防災研究者としての側面に光があてられることもある八雲だが、
居留地で健筆をふるっていた頃にはすでにヘリヤ商会は建っていたはずで、
もちろん津波の痕跡とは遭遇していないだろう。
しかし八雲は、
南海地震のような津波地震が繰り返し太平洋沿岸部を襲っていたことには
「生き神様」で触れており、
そうした自然環境下で生活を営む日本人の忍耐強さ、
回復力のはやさを「地震と国民性」で称賛している。
それから約120年後に起きた東日本大震災では、
明治三陸地震とほぼ同じ約2万人が犠牲になった。
もし八雲が現代によみがえったならば、
何と評論しただろうか。
せめて、
旧居留地でみつかった津波の痕跡に学び、
次の大震災に備えたいものである。
■電事連は南海トラフ巨大地震が
■火力発電所におよぼす被害想定を公表。
6発電所で最悪の場合「復旧に4カ月以上」とし、
原発停止で火力頼みの電力供給に打撃となりそうだ。
■大阪府は南海トラフ巨大地震の被害想定を公表し、
府内の死者数は最悪で13万人とした。
津波の浸水域が拡大し、
早期避難の重要性を裏付けた。
■大阪の「弱点」は軟弱地盤、
広い地下街…
大阪で被害を増大させる基本的な要因は、
どんなシナリオでも変わらない。
地震の揺れが長くとどまる軟弱地盤
▽水に弱い海抜ゼロメートル地帯
▽全国一の危険木造住宅密集地
▽東京や名古屋と並ぶ広大な地下鉄や地下街
▽堤防沈下による浸水の危険性−などだ。
死者最大32万、238万棟全壊と想定
東海・東南海・南海地震の震源域が連なる南海トラフ(浅い海溝)の
最大級の巨大地震について内閣府は、
死者は関東以西の30都府県で
最大32万3千人に達するとの被害想定を公表した。
M9・1の地震で最大34メートルの津波が太平洋岸を襲い、
震度7の揺れなどで最大約238万棟が全壊・焼失すると推定。
南海トラフ巨大地震の想定震源域
「南海トラフ巨大地震」は東海沖から九州東部沖に延びる
南海トラフ(浅い海溝)で想定される
マグニチュード9・1の最大級の巨大地震。
地震の発生時期や規模を高い確度で予測することは困難とされる
避難者は1週間後に最大950万人
避難所はパンク。
食料や水は行政などの備蓄では足りず、
3日間で3200万食と4800万リットルが不足
何をどうそろえる?いざという時のための「備蓄1週間分」
南海トラフ巨大地震に関連し、
家庭での備蓄食料は従来の
「3日分」から倍以上の
「1週間分」が必要とされる。
備蓄のコツは
「『非常食』と
『災害食』に分けて考えること」と専門家はアドバイスする
普段からの防災訓練、「自助」「共助」の考えが町を救う
死者・行方不明者約10万人を出した関東大震災。
その中で、
住民の力で猛火を食い止め、
「奇跡的成功」(東京震災録)と称された神田和泉町の精神は、
今なお高く評価される
中央防災会議の作業部会報告書には
「直前予知の可能性がある唯一の地震」とされてきた
東海地震の直前予知を見直す内容が盛り込まれ、
日本地震学会も予知全般について
「現在の地震学では非常に困難」とした。
予知にかわり「減災・防災」の重要性が声高に叫ばれつつある
経済的な被害額は最悪で220兆3千億円。
国家予算の2年分を上回り、
東日本大震災の約13倍、
阪神大震災の約23倍に相当する。
どう備えるか、
これからの課題です。
ecar
■発掘された爪痕と八雲の教訓に学ぶ
勝海舟、
坂本龍馬ら幕末の英雄が恐らく足を踏み入れたであろう場所で、
平成21〜22年、
南海地震による津波の痕跡が発掘されている。
神戸市中央区のJR三ノ宮駅から南へ下った
神戸市役所のすぐ西に位置する、
旧外国人居留地だ。
神戸の外国人居留地は、
安政5(1858)年に幕府が米国との間で結んだ
日米修好通商条約にもとづいて
10年後に神戸が開港されるとともに、
建設が始まった。
それに先立つこと4年、
のちの居留地の南側に海舟の発案で設立されたのが
幕府の海軍操練所で、
1年後に閉鎖されるまでの間、
各藩の子弟や龍馬ら脱藩浪人までもが学んだ。
そのころのこの辺りは、
西側の兵庫港が回船の港として栄えていたのとは異なり、
うらさびしい海浜だったようだ。
歯にきぬ着せぬことで知られた海舟の表現を借りると、
「つまらない百姓家ばかり」
(「氷川清話」)ということになってしまう。
むしろ、
だからこそ、
日本人と外国人との摩擦を嫌った幕府は居留地として開放したのだろう。
その後、
居留地として開発、
整地されたことがタイムカプセルの役割を果たし、
津波の痕跡が約140年の時を経て顔をのぞかせることになったのだ。
発掘された場所は現在、
市の危機管理センターとなっているが、
居留地が開かれたのちの明治時代には、
米国系の日本茶輸出会社
「ヘリヤ商会」が輸出する茶の加工工場を構えていた。
その工場跡地のコンクリートなどで地盤改良、
整地されたすぐ下、
地表から約1・5メートルの所で、
厚さ約30センチの砂の層が南北約15メートル、
東西約2メートルにわたり確認された。
同志社大学理工学部の増田富士雄教授(地質学)の分析によると、
この砂の層は、
東側に流れていた旧生田川の
河川氾濫で生じる泥をほとんど含んでいなかった。
また、
砂の粒子が山側方向と海側方向へ
交互に折り重なるように堆積していたことから、
寄せてはかえす運動を幾度も繰り返す
津波によって形成されたとみられるという。
さらに、
この地層の上下には明治時代に整地された層と17世紀初頭の層があり、
増田教授は宝永4(1707)年に起きた宝永地震か、
嘉永7(1854)年の安政南海地震による津波ではないかとしている。
現場が標高1・7〜2メートルであることから
津波高は2・5メートル程度と推定され、
「現在のJR三ノ宮駅周辺にまで遡上(そじょう)していた可能性がある」
(神戸市教育委員会文化財課の担当課長、千種浩さん)という。
それにしても、
阪神間の浜を広範囲に襲ったはずの津波の痕跡が、
ここでしか見つかっていないのはなぜなのだろうか。
千種さんによると、
「砂の層の発掘場所がくぼ地になっていて、
堆積物が残りやすい微妙な地形になっていたようだ」ということらしい。
ところで、
この旧居留地にゆかりのある歴史上の人物がもう一人いる。
小泉八雲ことラフカディオ・ハーンである。
八雲は居留地で発行されていた新聞「コーベ・クロニクル」に、
明治27(1894)年から2年間、
記者として在籍していた。
明治27年に評論「地震と国民性」を書き、
同29年には、
この年起きた明治三陸地震による大津波の新聞記事を目にしたことを機に、
短編小説「生き神様」を著している。
この小説はのちに中井常蔵によって子供向けの
「稲むらの火」に書き改められ、
津波避難の防災教育の教材として
現代にいたるまで広く知られることになる。
こうした業績から
近年は防災研究者としての側面に光があてられることもある八雲だが、
居留地で健筆をふるっていた頃にはすでにヘリヤ商会は建っていたはずで、
もちろん津波の痕跡とは遭遇していないだろう。
しかし八雲は、
南海地震のような津波地震が繰り返し太平洋沿岸部を襲っていたことには
「生き神様」で触れており、
そうした自然環境下で生活を営む日本人の忍耐強さ、
回復力のはやさを「地震と国民性」で称賛している。
それから約120年後に起きた東日本大震災では、
明治三陸地震とほぼ同じ約2万人が犠牲になった。
もし八雲が現代によみがえったならば、
何と評論しただろうか。
せめて、
旧居留地でみつかった津波の痕跡に学び、
次の大震災に備えたいものである。
■電事連は南海トラフ巨大地震が
■火力発電所におよぼす被害想定を公表。
6発電所で最悪の場合「復旧に4カ月以上」とし、
原発停止で火力頼みの電力供給に打撃となりそうだ。
■大阪府は南海トラフ巨大地震の被害想定を公表し、
府内の死者数は最悪で13万人とした。
津波の浸水域が拡大し、
早期避難の重要性を裏付けた。
■大阪の「弱点」は軟弱地盤、
広い地下街…
大阪で被害を増大させる基本的な要因は、
どんなシナリオでも変わらない。
地震の揺れが長くとどまる軟弱地盤
▽水に弱い海抜ゼロメートル地帯
▽全国一の危険木造住宅密集地
▽東京や名古屋と並ぶ広大な地下鉄や地下街
▽堤防沈下による浸水の危険性−などだ。
死者最大32万、238万棟全壊と想定
東海・東南海・南海地震の震源域が連なる南海トラフ(浅い海溝)の
最大級の巨大地震について内閣府は、
死者は関東以西の30都府県で
最大32万3千人に達するとの被害想定を公表した。
M9・1の地震で最大34メートルの津波が太平洋岸を襲い、
震度7の揺れなどで最大約238万棟が全壊・焼失すると推定。
南海トラフ巨大地震の想定震源域
「南海トラフ巨大地震」は東海沖から九州東部沖に延びる
南海トラフ(浅い海溝)で想定される
マグニチュード9・1の最大級の巨大地震。
地震の発生時期や規模を高い確度で予測することは困難とされる
避難者は1週間後に最大950万人
避難所はパンク。
食料や水は行政などの備蓄では足りず、
3日間で3200万食と4800万リットルが不足
何をどうそろえる?いざという時のための「備蓄1週間分」
南海トラフ巨大地震に関連し、
家庭での備蓄食料は従来の
「3日分」から倍以上の
「1週間分」が必要とされる。
備蓄のコツは
「『非常食』と
『災害食』に分けて考えること」と専門家はアドバイスする
普段からの防災訓練、「自助」「共助」の考えが町を救う
死者・行方不明者約10万人を出した関東大震災。
その中で、
住民の力で猛火を食い止め、
「奇跡的成功」(東京震災録)と称された神田和泉町の精神は、
今なお高く評価される
中央防災会議の作業部会報告書には
「直前予知の可能性がある唯一の地震」とされてきた
東海地震の直前予知を見直す内容が盛り込まれ、
日本地震学会も予知全般について
「現在の地震学では非常に困難」とした。
予知にかわり「減災・防災」の重要性が声高に叫ばれつつある
経済的な被害額は最悪で220兆3千億円。
国家予算の2年分を上回り、
東日本大震災の約13倍、
阪神大震災の約23倍に相当する。
どう備えるか、
これからの課題です。
ecar
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