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2019年10月04日

母国のために〜〜

この記事を読んで、今の台湾人や、戦後生まれの台湾人の国籍ってどうなんだ。
中国籍台湾州か、それとも、独自のパスポートがあるのかよくはわからないが、
この人の気持ちもわからなくはないが、たぶん無理かも・・・・
日本人として生まれ日本人として育ち軍属とはいえ戦地に赴いたのだ、日本は母国
そう思うのはむりのないはなし、この記事を読んでて思うのはかって米国陸軍最強の
部隊と言われた442部隊の日本人二世部隊のこと、自分たちの生まれた母国米国と
親の生まれた母国日本が戦争してるさなか彼らは母国米国を選び米国を信じ戦った。
自分たちが生まれる遥か前に併合し日本人として生まれたかれらが戦後母国がない
母国が欲しい、・・・
なんとかならないものか〜〜〜〜!!


「最期は日本人として」 歴史に翻弄された97歳元日本軍属
2019.10.3 12:16産経WEST

「日本人として死にたい」と話す元日本軍属の楊馥成さん=那覇市(矢田幸己撮影)

日本統治時代の台湾で生まれ育った台湾人3人が日本国籍の確認を求めて起こす
訴訟に、原告として名を連ねる農業技術者の楊馥成(ようふくせい)さん(97)。
日本人として育ち、先の大戦では軍属として食料確保などに従事した。
歴史の波に翻弄された人生だが、日本人としてのアイデンティティーは
見失ったことはない。
「最期は日本人として死にたい」と願うだけだという。(矢田幸己)

大正11年、旧台南州の農家に5人きょうだいの次男として生まれた。
旧日本名は大井満。
姓は生家の地名にちなみ、名には井戸の水が満ちるように、との意味が込められた。

学校では、日本語を主とする初等教育を受け
「日本人の先生によくかわいがってもらった」。
本土と同じく「修身」の科目があり、幼少期から日本人としての素養を身につけた。

台湾から夏の甲子園大会に出場し、準優勝を遂げたことで知られる
嘉義(かぎ)農林学校(現・国立嘉義大学)を経て、州の農林技士に。ある日、
新聞広告の「軍属募集」が目に留まった。
外地の台湾では当時、特別志願による募集があり、
「いずれ軍に行くのだから」と応募。50人枠に約千人が殺到する中、合格した。

戦時中は第7方面軍の補給部隊に配属。食料確保のため、シンガポールで
10ヘクタールもの牧場を耕し、野菜を作るなどした。
「軍属とはいえ、日本のためを思って働いた」


終戦後、台湾へ復員し、農林関係の仕事を再開した。しかし、中国大陸から
台湾へ移った蒋介石・国民党政権の異端分子との嫌疑をかけられ、1950年8月に
投獄された。
獄中生活は7年に及び、激しい拷問で奥歯が2本欠けた。
「私は罪を認めず耐え続けたが、多くの同胞がいわれなき罪で虐殺された。
貴重な青春時代を奪われ、灰色の7年だった」

日本政府は昭和27年、国民政府との間で日華平和条約を締結。
日本の最高裁判決によると、同条約の発効(同年8月)をもち、台湾出身者は
日本国籍を失ったとされる。
祖国に見放されてしまったとの喪失感と「母国を持ちたい」との思いが募る。

先の大戦で日本統治下の台湾から戦地へ赴いた日本軍人・軍属は20万人以上。
うち約3万人が命を落としたとされる。
日本統治は功罪両面だが、独裁政権による戦後の戒厳下とは「比べるまでもない」と
こぼす。

歴史の波に翻弄された97年の人生。それでも、日本人としてのアイデンティティーは忘れたことがない。
「過去は取り戻せない。ただせめて、最期を日本人として迎えることができれば」と
願っている。

タグ:台湾
posted by 豊後国主 at 09:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事
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