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2018年06月02日

韓国は北朝鮮に支援するだけの余力はある〜〜か

北朝鮮の刈り上げが一回目の南北会談でブンタンに
道路インフラが出来ていないと、のたもうたとか報道が有ったが
そんな事は北朝鮮の国内問題、北朝鮮が韓国の経済を相当に
充てにしてるみたいだが合意したあと韓国に金がないと知った
時どんな態度を取るのか〜〜〜、見ものだわ〜〜な。


(21)日本人が築いた「電力遺産」を食い潰す北朝鮮 

(1/4ページ)【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】

鴨緑江に水力発電用として建設された「水豊ダム」

衛星写真で今の朝鮮半島をとらえたら、「真っ暗」な北朝鮮と
「煌々(こうこう)と明るい」韓国の対比が、
くっきりと表れる。

2014年の発電設備容量は北朝鮮が約725万キロワットで
韓国のわずか約7・8%でしかない(韓国産業銀行統計)。
実際の総発電量で比べると、さらに減って韓国の
4・3%(2013年)にとどまる。
首都・平壌では多少の改善も伝えられるが、北朝鮮の
電力不足は相変わらずのようだ。

ところが、日本統治時代の朝鮮北部は“発電所銀座”とでも
呼びたくなるほどの「電力王国」だった。
大正末期以降、日本人は、人が容易に立ち入れない
急峻(きゅうしゅん)な山地に奥深く分け入り、
赴戦江、長津江、虚川江といった川に、次々と巨大な
水力発電所を建設していったからである。

中でも、満州国(現・中国東北部)と朝鮮の国境を流れる
鴨緑江に水力発電用として建設された
「水豊ダム」は、ケタ外れのスケールだった。
高さ約106メートル、幅約900メートル、
総貯水容量116億立方メートル、人造湖の表面積は、
琵琶湖の約半分に相当した
(※昭和38年完成の
「黒部ダム」は、高さ186メートル、幅492メートル)。

昭和16(1941)年から電力供給を始めた水力発電所の
発電機は、1基あたりの出力が、世界最高(当時)の
10万キロワット。それが最終的に
7基(最大出力計70万キロワット)備えられ、
朝鮮と満州国に供給された。

水豊の巨大さは、当時の内地(日本)の水力発電所の規模と
比べると、よく分かる。
1発電所で出力が8万キロワットを超えるのは、
信濃川(16・5万キロワット)
▽千手(12万キロワット)
▽奥泉(8・7万キロワット)
▽黒部川第3(8・1万キロワット)の4カ所しかなかった。
それが同時期の朝鮮では、水豊のほかにも、虚川江第一、
長津江第一、赴戦江第一など6カ所も完成していたのである。

(2/4ページ)【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】

 朝鮮北部の発電力は終戦時に計173万キロワット、工事中の発電所を加えると、300万キロワットを超える。発電コストは内地より安く、廉価な電力が、京城や平壌などの主要都市や、やはり朝鮮北部に建設された一大化学コンビナートの興南工場群に供給されていった。

 ■急伸した電灯普及率

京城の電気事業は、日韓併合前の明治32(1899)年、
李朝王家の保護下で米国人企業家がつくった
漢城電気(後に韓美電気)によって営業がスタートしている。
だが、高額の電気代に加えて設備費も徴収されたため、
契約者は京城約5万戸のうち、わずか493戸にすぎなかった。

経営不振の同社の電気事業を、日本資本の
日韓瓦斯(ガス)電気(後に京城電気)が路面電車事業とともに買収し、一般家庭にも広く電気を普及させてゆく。

昭和5年には京城とその周辺で、約9万5千戸、
14年には約14万8千戸と急増。朝鮮全体では、
16年度末の主要21都市の電灯普及率が66%に達し、
全土でも17・4%になっている。
3年度末の数値が6%だったことを考えると、
13年間で電灯普及率が約3倍に伸びたことが分かる。

もっとも、主要21都市の日本人家庭の普及率が、
ほぼ100%だったのに対し、朝鮮人家庭は約23%に
とどまっており、日鮮間に格差があったことも、
否定はできないが…。

朝鮮北部の「水力資源」に目をつけ、朝鮮総督府の認可を
受けて、周囲には無謀とも思われた発電所群の建設に
乗り出したのは日本の民間の経営者、技術者であった。
日窒(にっちつ)コンツェルンの創始者、野口遵や、
久保田豊、森田一雄といった先駆的な技術者たちである。

(3/4ページ)【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】

彼らの慧眼(けいがん)は“逆転の発想”というべき
ユニークなアイデアに表れていた。朝鮮北部の大河川は、
おおむね西部に流れており、勾配が少なく、冬季には渇水が
続く。このため水力発電には不適だと考えられていたのを、
「西流する河川をせき止め、逆方向の東に向け日本海側へ
落とす」という発想で、不可能と思われた巨大水力発電所を
次々と建設していったのである。

電力の用途も“逆転”だった。
100万キロワット単位の電力は、当時の一般需要
(昭和初期の朝鮮全土の電力需要は数万キロワット)を
カバーしてあまりある。
そこで野口は昭和2年、朝鮮窒素肥料会社を設立、電力の
活用先として、先に触れた興南工場群を建設してゆく。
《むしろ中心は大肥料工場の建設にあり、電力開発は、
興南工場の付帯事業とすらいっても過言ではあるまい》
(『野口遵』から)と。

 ■発電所は今も稼働中

野口らが建設した水豊ダムの発電所は今も稼働中だ。
現在の出力は80万キロワット、北朝鮮発電の「主力」である
水力発電所の中でも最大を誇り、供給電力は中国と
折半している。
関係者によれば、発電機を製作した日本の重電メーカーが
戦後も、保守・修理にあたっていたが、今は経済制裁のために、それも難しくなり、
老朽化による稼働率の低下も見られるという。

虚川江、長津江、赴戦江の発電所も「現役」だ。
これら日本統治時代以外の水力発電所も、1960年代以前に
ソ連(当時)・東欧の支援で建設されたものが主で
《設備は老朽化し、エネルギー管理技術も遅れている(略)
1990年代半ばの大洪水により、水力発電設備の85%が
損傷を受けたとみられる》(韓国産業銀行統計)という惨状だ。これでは北朝鮮が「電力遺産」を“食い潰している”と
いわれても仕方がない。

(4/4ページ)【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】

朝鮮に戸籍を移してまでその近代化に尽くした野口は
昭和19年、70歳で亡くなる。死後、寄付した全財産は、
生涯をささげた化学研究と、朝鮮留学生のための奨学金に
充てられた。
=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
タグ:韓国北朝鮮
posted by 豊後国主 at 19:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事
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