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2016年08月19日

8月19日、71年前日本軍北方守備隊いまだ戦えり、

知られざる日露の二百年、この本は2013年出版だな、3年前・・
しかもこのインタビユーいつかは判らぬが大丈夫かこの元大佐〜〜
戦前・戦中の日本の外交官もなかなかだったのはさすがだ、・・
この日ソ不可侵条約と云われる条約は確か5年区切りとしていて、破棄とかの
通達は一年以上前と云う条項があるのでは、つまり期限は1946年・
4月25日ということでは
日本もしくは日本人の対露感情としてこの条約破りもさることながら15日
以降の千島列島・占守島侵攻から樺太侵攻、そして許せないのは9月2日
日本が戦艦・ミズーリーの艦上で降伏文書に署名したにも係わらず、
9月5日まで北方4島を侵攻したいうことだ、だがこれだけではない。
スターリンは北海道分割を要求したのだ、これだけ見ても日本人が
そう簡単にロシアと条約とは結ばないだろう〜〜〜よ。
本来千島18島と北方4島は日本の領土この二つは対帝制ロシアと条約に
取り交わした国際法で決定したものである。


1945年の旧ソ連対日参戦、正当化論調に異議「約束守るべきだった」 
アレクセイ・キリチェンコKGB元大佐インタビュー

00ソ連国家保安委員会(KGB)元大佐、アレクセイ・キリチェンコ氏(遠藤良介撮影).jpg
インタビューにこたえるソ連国家保安委員会(KGB)元大佐、アレクセイ・キリチェンコ氏(遠藤良介撮影)

第二次大戦後の北方領土問題や「シベリア抑留」の悲劇を生んだ旧ソ連の
対日参戦(1945年8月9日)について、ロシアでは当時の
日ソ中立条約(41年締結)の効力を否定して正当化する論調が
強まっている。
ソ連による抑留問題の実態を暴露した
ソ連国家保安委員会(KGB)元大佐の歴史家、
アレクセイ・キリチェンコ氏(79)は産経新聞のインタビューに応じ、
こうした見方が誤っていると論破した。一問一答は次の通り。

−−ソ連は45年4月5日、中立条約を延長しない旨を日本に通告した。
これをもって、対日参戦に問題はなかったとの主張がある

「ソ連のモロトフ外相は当時、日本の佐藤尚武大使に条約を延長する意思が
ないことを表明した。しかし、
老練な佐藤大使は、条約が46年4月25日まで有効であることを
モロトフに認めさせている。
後にスターリン首相がこれを“修正”して対日参戦したということになるが、外相の約束は破られるべきでなかった」

−−ある日本専門家は最近の論文で、41年の日本軍人らの発言や
松岡洋右外相の「北進論」を挙げ、日本には中立条約を守る意思が
なかったと強調している

「戦争のことを考えるのが軍人の仕事である。ソ連との戦争に反対する者が
陸軍にも海軍にも存在していた。
松岡は政府と見解が相いれず、同年7月に更迭されている。誰にどんな
『計画』があったとしても、それに意味はない」

(2/4ページ)

−−ソ連の極東戦力が日本の対ソ攻撃を抑止したとも主張されている

「実際には、日本は41年秋、満州の関東軍からの部隊引き抜きも含め、
南方へと兵力を迅速に集中させた。9月にはソ連にも、
当時の関東軍の構成では、日本に戦争はできないということが明らかだった。10月末には、スターリンが極東の軍や共産党指導者との少人数の会合を
持ち、極東の部隊を西部(対ドイツ戦)に投じることが決まった。
日本が攻撃してこないとの確信があったのだ」

「ほかならぬ極東の部隊が41年11月7日にモスクワの『赤の広場』での
パレードを行い、そこから(西部の)戦闘に向かった。それによって
モスクワは攻撃されることを免れたのだ。41年から43年の間に、
極東から西部へと完全に訓練・武装された42個師団が振り向けられた」

−−満州からソ連への国境侵犯が頻発し、それが日本の「攻撃意図」の
表れだともされている

「日本はノモンハン事件(39年)以降、ソ連国境を破らないようにと
いうことを徹底していた。日中戦争があり、ソ連を挑発して『2正面』で
戦うことはできなかったためだ。逆に、関東軍がソ連からの脱走兵や
送り込まれた諜報員を収容所に入れていた事実があり、越境はソ連からの
方が活発だったのではないか」

(3/4ページ)

−−ソ連はどう対日参戦に向かったのか

「戦争の前半には、中立条約はソ連にとっても日本にとってもきわめて
有利なものだったのだと考える。しかし、
独ソのスターリングラード攻防戦(42〜43年)の後、ソ連は自らの力を
認識し、日本との戦争準備を始めた。
国防委員会は対日戦に備え、シベリア鉄道の予備支線として
コムソモリスク・ナ・アムーレ−ソビエツカヤ・ガバニ間の鉄道敷設を
決め、それは予定された45年8月1日より数日早く完了している」

−−原爆投下でなく、ソ連こそが第二次大戦を終結させたのだとして
対日参戦を正当化する主張も強い

「満州の実態を見るならば、当時、片道分の燃料しかない航空機が
380しかなく、その多くは8月半ばに日本に戻ってしまった。
ソ連側は5000機以上も戦闘態勢にあったが、空中戦はほとんどなかった。満州には戦車もたいへん少なく、この頃には完全に弱体化していたというのが事実だ」

−−“公式史観”と異なる見方を公にする理由は

(4/4ページ)

「私は、日本をソ連の敵国の一つとして研究し始めた。だが、日本の現実を
深く知るにつけ、ソ連とその後のロシアが少なからぬ過ちを犯し、それが
今日に至るまで両国関係に本質的な影響を与えていることを理解した。
むろん、日本も天使にはほど遠かった。
将来の悲劇と困難を避けることには意味があると考える」

(モスクワ 遠藤良介)

ソ連の対日参戦 ソ連軍は1945年8月9日、当時有効だった
日ソ中立条約を破って日本に対する戦闘を開始し、
満州(中国東北部)や樺太(サハリン)などに侵攻。日本がポツダム宣言を
受諾し、15日に終戦の詔書が発表された後も一方的な侵略を続けた。
ソ連軍が日本の北方四島を占拠し終えたのは、日本が降伏文書に調印した
9月2日よりも遅い同5日だった。
ソ連はまた、武装解除した日本将兵など約60万人を旧ソ連各地に連行して
強制労働を課し、6万人以上の死者が出た(「シベリア抑留」)。

アレクセイ・キリチェンコ氏 ソ連国家保安委員会(KGB)元大佐、
ロシア科学アカデミー東洋学研究所上級研究員。1936年、
旧ソ連のベラルーシ生まれ。64年にKGB大学を卒業しKGB第2総局で
対日防諜を担当。
80年代に研究所入りして日本人強制抑留問題に取り組み、日露間での
真相解明に向けた原動力となった。
著書に「知られざる日露の二百年」(現代思潮新社)がある。
タグ:ソ連
posted by 豊後国主 at 18:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事
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