2015年11月16日
追憶、朴正煕大統領、石原慎太郎
私も今年、齢68歳中学、高校とそんな戦後の風潮がかすかに残っていた
高校生のころ見た、安藤昇の映画、あの左頬の長い傷跡は
衝撃的だった〜な。
父親大統領は日本ではなく満州の士官学校か、どうりで満州軍なんだな。
昔は国費で勉強ができる環境があったから、傑出した人物がでたのかも
しれないが、・・
韓国の獅子身中の虫、何といってもあの、挺対協であろうよ、・・
朴正煕大統領は実に傑出した人物であったが…
(1/3ページ)
私は縁あって韓国の現大統領とその父親の朴元大統領の二人と知己がある。
歴代の大統領の中では傑出していたと思われる朴正煕大統領とは、実に
しげしげと面談し打ち解けた会話を持つことができたものだった。
彼は特に当時結成していた青嵐会を高く評価してくれていて駐日大使を
していた李厚洛を通じてしばしば我々の仲間を招待してくれていた。
ある時は福田赳夫さんも交えて限られたメンバーで休日のゴルフ場を
借り切りにしてプレイしたりしたものだった。
彼の娘さんの現大統領との知己を得たのは、彼女の父親が暗殺された時、
福田さんと同行し朴さんの自宅に弔問に出かけた折のことだった。
両親を暗殺で失い孤独に留守宅を守って私たちを迎えてくれた彼女の印象は
実につましく質素なもので強い印象を受けた。
その彼女が女ながら大統領になりおおせたのは、父親の後にろくな大統領が
続かず北に比べて押されぎみの政情に飽き足らぬ国民が彼女の父親への
畏敬の念を絶ちやらずの故とも思われるが、それにしても娘さん方は
さしたる指導力も発想力も感じられず、政治は財閥関係の不祥事にも
介入できずにお手上げで、特に日韓関係に関しては言う事やること父親とは
大違いで昔を思うと感無量なものがある。
(2/3ページ)
私は最近列強の植民地支配について研究しているというイギリスの学者の
『朝鮮が瞬間的に幸せになった時代』なる本を贈られて読んだが、
それはまさに日本の朝鮮統合についての記述だった。断っておくが、
日本の朝鮮統治は植民地支配ではなしに、あくまで彼らの議会が裁決し自ら
望んで行われた合併であって、それによってこそ朝鮮の近代化は進み
ロシアへの属国化は免れたのだ。
ある時酒の席で朴元大統領は思いがけぬ述懐をしてくれたものだった。
「自分は貧農の息子で勉強をしたくてもできずにいたが、日本人が
やってきて子供を学校に通わせぬ親は罰を食う、ということで親も嫌々
許して小学校に通うことができた。そこでの成績がよかったので
日本人の校長に勧められ、ただで通える師範学校にいかされた。さらに
そこの校長が私を見込んで、これからは軍人の時代だからと推薦されて
満州の軍官学校に送られ首席となった。そして、他にもいた
日本人の子弟をさしおいて卒業の際には代表して答辞を
述べさせられたものだ。
あれだけの事をさせる民族はあまりいないと思うな」と。そしてまた
突然私に「あの竹島は厄介なことになるよ、あれは李承晩が国際法を
無視してやった線引きで、その内必ず困る火種になると思うから、今の内に
お互いダイナマイトでもしかけて無くしてしまったらいい」と。
(3/3ページ)
彼なら今問題の慰安婦について果たして何と言うだろうか。
当時人口二千万人しかいなかった朝鮮で二十万人もの若い女性たちを官憲が
本当に拉致していったとしたなら、当時の朝鮮の男たちは無為のままに
それを看過していたのだろうか。
敗戦後の日本の街で在日のいわゆる三国人たちが暴れ回っていた頃、
戦争帰りの若者たちは絶対の支配力を振るっていたアメリカ軍のMPにも
逆らって自警の組織を作り彼らに対抗して戦ったものだ。それが後に
暴力団化し『安藤組』や『銀座警察』ともなったものだが、当時の朝鮮には
こうした気骨のある男たちは果たしていなかったものだろうか。
従軍慰安婦の問題は歴史の名を借りた意趣晴らしの作り事でしか
ありはしない。
それは歴史という冷厳な現実への政治的歪曲(わいきょく)であって
真実への冒涜(ぼうとく)に他ならない。
あの朴元大統領がもしも存命ならお互いの将来のために少し頭を
冷やせといってくれるに違いないが。
高校生のころ見た、安藤昇の映画、あの左頬の長い傷跡は
衝撃的だった〜な。
父親大統領は日本ではなく満州の士官学校か、どうりで満州軍なんだな。
昔は国費で勉強ができる環境があったから、傑出した人物がでたのかも
しれないが、・・
韓国の獅子身中の虫、何といってもあの、挺対協であろうよ、・・
朴正煕大統領は実に傑出した人物であったが…
(1/3ページ)
私は縁あって韓国の現大統領とその父親の朴元大統領の二人と知己がある。
歴代の大統領の中では傑出していたと思われる朴正煕大統領とは、実に
しげしげと面談し打ち解けた会話を持つことができたものだった。
彼は特に当時結成していた青嵐会を高く評価してくれていて駐日大使を
していた李厚洛を通じてしばしば我々の仲間を招待してくれていた。
ある時は福田赳夫さんも交えて限られたメンバーで休日のゴルフ場を
借り切りにしてプレイしたりしたものだった。
彼の娘さんの現大統領との知己を得たのは、彼女の父親が暗殺された時、
福田さんと同行し朴さんの自宅に弔問に出かけた折のことだった。
両親を暗殺で失い孤独に留守宅を守って私たちを迎えてくれた彼女の印象は
実につましく質素なもので強い印象を受けた。
その彼女が女ながら大統領になりおおせたのは、父親の後にろくな大統領が
続かず北に比べて押されぎみの政情に飽き足らぬ国民が彼女の父親への
畏敬の念を絶ちやらずの故とも思われるが、それにしても娘さん方は
さしたる指導力も発想力も感じられず、政治は財閥関係の不祥事にも
介入できずにお手上げで、特に日韓関係に関しては言う事やること父親とは
大違いで昔を思うと感無量なものがある。
(2/3ページ)
私は最近列強の植民地支配について研究しているというイギリスの学者の
『朝鮮が瞬間的に幸せになった時代』なる本を贈られて読んだが、
それはまさに日本の朝鮮統合についての記述だった。断っておくが、
日本の朝鮮統治は植民地支配ではなしに、あくまで彼らの議会が裁決し自ら
望んで行われた合併であって、それによってこそ朝鮮の近代化は進み
ロシアへの属国化は免れたのだ。
ある時酒の席で朴元大統領は思いがけぬ述懐をしてくれたものだった。
「自分は貧農の息子で勉強をしたくてもできずにいたが、日本人が
やってきて子供を学校に通わせぬ親は罰を食う、ということで親も嫌々
許して小学校に通うことができた。そこでの成績がよかったので
日本人の校長に勧められ、ただで通える師範学校にいかされた。さらに
そこの校長が私を見込んで、これからは軍人の時代だからと推薦されて
満州の軍官学校に送られ首席となった。そして、他にもいた
日本人の子弟をさしおいて卒業の際には代表して答辞を
述べさせられたものだ。
あれだけの事をさせる民族はあまりいないと思うな」と。そしてまた
突然私に「あの竹島は厄介なことになるよ、あれは李承晩が国際法を
無視してやった線引きで、その内必ず困る火種になると思うから、今の内に
お互いダイナマイトでもしかけて無くしてしまったらいい」と。
(3/3ページ)
彼なら今問題の慰安婦について果たして何と言うだろうか。
当時人口二千万人しかいなかった朝鮮で二十万人もの若い女性たちを官憲が
本当に拉致していったとしたなら、当時の朝鮮の男たちは無為のままに
それを看過していたのだろうか。
敗戦後の日本の街で在日のいわゆる三国人たちが暴れ回っていた頃、
戦争帰りの若者たちは絶対の支配力を振るっていたアメリカ軍のMPにも
逆らって自警の組織を作り彼らに対抗して戦ったものだ。それが後に
暴力団化し『安藤組』や『銀座警察』ともなったものだが、当時の朝鮮には
こうした気骨のある男たちは果たしていなかったものだろうか。
従軍慰安婦の問題は歴史の名を借りた意趣晴らしの作り事でしか
ありはしない。
それは歴史という冷厳な現実への政治的歪曲(わいきょく)であって
真実への冒涜(ぼうとく)に他ならない。
あの朴元大統領がもしも存命ならお互いの将来のために少し頭を
冷やせといってくれるに違いないが。
タグ:韓国
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