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柴田勝家(1522?~1583)
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柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる(異説あり)。生年には大永6年(1526年)・大永7年(1527年)説あり。出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、確実な資料はない。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる。若いころから尾張の織田信秀の家臣として仕え、尾張愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが織田信長継承の頃には織田家の重鎮であった。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。弘治2年(1556年)8月に信長との戦いに敗れて剃髪し、降伏した。信勝の死後、罪を許され、信長の家臣となった。天正元年(1573年)、織田軍の有力武将として近江、摂津など各地を転戦する。天正3年(1575年)には高屋城の戦い、長篠の戦いにも参加する。天正8年(1580年)、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老に位置することになる。天正10年(1582年)、上杉氏方の越中国魚津城、松倉城(富山県魚津市)を攻囲中に本能寺の変があって織田信長が横死する。しかし勝家は上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、京都に向かうことができなかった。
●晩年考
本能寺の変後、織田氏の後継者問題では信長の三男・織田信孝の烏帽子親を務めていたこともあり、信孝を推したが、明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなり、信長の遺領配分においても河内や丹波、山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡、長浜城(現在の長浜市)を得るにとどまり、勝家と秀吉の立場は逆転してしまった(清洲会議)。なお、この後に羽柴秀吉の仲介を受けてお市の方と結婚している。その後勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗するが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害した。享年62。辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」。菩提寺は、福井県福井市の西光寺と滋賀県高島市の幡岳寺。位牌も現存している。昭和3年(1928年)11月10日、宮内省より贈従三位に叙位された。
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柴田神社境内(北ノ庄城址公園前)にある柴田勝家像
★勝家は自害の直前、お市に城から逃れるように勧めたが、市は「浅井落城で逃げてまたもや」と拒絶したという。このとき、勝家自身は腹を十文字に割いて自害したという。・・・よほど強い意志を持った方だったのですねぇ!
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