2014年02月14日
ナイジェリア
ナイジェリア連邦共和国(ナイジェリアれんぽうきょうわこく)、通称ナイジェリアは、アフリカ西部に位置する連邦共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にニジェール、北東にチャド湖を挟みチャド、東にカメルーン、西にベナンと国境を接する。南は大西洋のギニア湾に面し、かつては「奴隷海岸」と呼ばれた。首都はアブジャ。最大の都市はラゴス。
アフリカ最大の人口を擁する国であり、乾燥地帯でキャラバン貿易を通じてイスラム教を受容した北部と、熱帯雨林地帯でアニミズムを信仰し後にヨーロッパの影響を受けキリスト教が広がった南部との間に大きな違いがある。また、南部のニジェール川デルタでは豊富に石油を産出するが、この石油を巡って内戦や内紛が繰り返されるなど、国内対立の原因ともなっている。
目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 植民地時代
2.2 自治領
2.3 独立・第一共和政
2.4 第一次軍政
2.5 第二共和政
2.6 第二次軍政
2.7 第三共和政
2.8 第三次軍政
2.9 第四共和政
3 政治 3.1 元首
3.2 行政
3.3 立法
3.4 司法
4 軍事
5 地方行政区分
6 地理
7 経済
8 国民 8.1 言語
8.2 宗教
8.3 教育
9 文化 9.1 文学
9.2 音楽
9.3 映画
9.4 世界遺産
9.5 祝祭日
10 ナイジェリア出身の人物
11 脚註
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
国名[編集]
正式名称は英語: Federal Republic of Nigeria (- nījĭr'ēə)。通称 Nigeria。
日本語による表記は、ナイジェリア連邦共和国。通称、ナイジェリア。
国名の由来は、国内を流れるニジェール川より。ニジェール川の語源は、遊牧民トゥアレグ族により、この川がニエジーレン (n'egiren) 「川」、またはエジーレン (egiren) 「川」と呼ばれていたことによる。これがフランス人に伝えられ、ラテン語で「黒」を意味するニジェール (niger) と転訛した。
ニジェール (Niger) とナイジェリア (Nigeria) は本来は同じ地域を指しているが、旧宗主国を異にする両地域が別々に独立した際に、現在のように別の国を指すこととなった。
歴史[編集]
詳細は「ナイジェリアの歴史」および「:en:History of Nigeria」を参照
16世紀のベニン王国の象牙のマスク
紀元前5世紀から2世紀にかけて、国土の中央部のジョス高原において土偶で知られる初期鉄器文化であるノク文化が繁栄した。
9世紀頃、国土の南東部、ニジェール川の三角州の付け根付近にあたるイボ=ウクゥ(英語版)において青銅器製品を多量に伴うすばらしい王墓が造られた(en:Archaeology of Igbo-Ukwu、イボ文化(英語版))。この地方では、イボ族その他イビビオ族(英語版)のように指導者のない集団による人口の多い村々のネットワークが、アフリカ固有の平等主義と民主主義の概念によって管理されていた。10世紀 - 15世紀頃に、国土の南西部には、青銅製などのすばらしい彫刻で知られるイフェ王国と、ソープストーン(英語版)の塑像で知られるヨルバ人の文化がエシエ(英語版)で栄えた。これらの大胆なフォルムの彫刻は後に19世紀ヨーロッパに紹介され、20世紀美術に多大な影響を与えた。14世紀から18世紀にわたって南部にベニン王国が繁栄した。彼らは15世紀末に来航したポルトガル人から銃を取り入れ軍事力と王権を強化した。
密林によって外部の文化から阻まれた南部と異なり、北部ではキャラバン交易(サハラ交易)を通じ北アフリカから物資や文化の伝播があり、イスラム教を受容した。チャド湖周辺には12世紀から13世紀ごろアフリカのキャラバン交易路の利益と軍事力でカネム・ボルヌ帝国が全盛を迎えた。この王家は19世紀まで続いた。また同じくチャド湖の西方にハウサ諸王国・都市国家群が繁栄し、なかでも19世紀にはフラニ族のイスラム神学者ウスマン・ダン・フォディオが都市国家ゴビール(英語版)で改革運動を開始したが、国から追い出されると遊牧生活のフラニ族たちと協力してジハードを起こし(フラニ戦争(英語版), 1804年 – 1808年)、ソコトの街を首都に、北部一帯にソコト帝国(ソコト・カリフ国, フラニ帝国)を建国した。
植民地時代[編集]
1897年のベニンシティ
詳細は「:en:Colonial Nigeria」を参照
ナイジェリアの植民地化は、1472年にポルトガル人がラゴスを建設し、奴隷貿易の拠点とした時から始まった。17世紀から19世紀を通じて、ポルトガル人、イギリス人を主体とするヨーロッパの貿易商人たちが、南北アメリカ大陸へ送る奴隷の増加に伴い海岸に多くの港を建設し、彼らはナイジェリアの海岸部を「奴隷海岸」と呼んだ。19世紀にはイギリス軍が奴隷売買を禁止し、商品貿易に取ってかわられた。1884年、オイルリバーズ保護国(英語版)(英語: Oil Rivers Protectorate)。1886年にイギリス政府はジョージ・トーブマン・ゴールディ卿らによる貿易会社を「王立ニジェール会社(英語版)」とし諸特権を与え、ナイジェリア一帯の支配を開始した。19世紀末にベニン王国は周囲のフラニ人のソコト帝国、ヨルバ人のオヨ王国もろともイギリスに滅ぼされて、ナイジェリアは植民地化された(ニジェール海岸保護国(英語版))。en:Anglo-Aro War(1901年 - 1902年)。1903年にはソコト帝国も滅亡し、イギリスとフランスに分割された。1901年王立ニジェール会社は北部ナイジェリア保護領(英語版)と南部ナイジェリア保護領(英語版)の二つの保護領に再編成され、1914年一つの保護領en:Colony and Protectorate of Nigeria(1914年 - 1954年)に統合された。
自治領[編集]
留学生たちを中心に第二次世界大戦前から独立への動きはあったが、第二次大戦後ナショナリズムが高まり、自治領(1954年 - 1960年)となった。1956年、シェルはオゴニ(ポートハーコートを中心とするニジェール・デルタにある)で原油採掘を開始。
独立・第一共和政[編集]
詳細は「:en:First Nigerian Republic」および「:en:Nigerian Sharia conflict」を参照
1960年、第一次大戦後旧ドイツ帝国植民地でイギリスの信託統治領となっていた西カメルーンの北部を編入して、それぞれが広範な自治権を有する北部州・西部州・東部州の3地域の連邦制国家として、完全独立を果たす。独立時は、イギリス女王を国家元首として頂く英連邦王国であったが、1963年に連邦共和国憲法を制定し、大統領制に移行した。それと同時に、西部州から中西部州を分割し、全4地域になる。しかし、議会では3地域の代表が激しく対立しあい、人口の多い北部優位は動かず、それが東部との対立を深め、内政は混迷を深めていった。
第一次軍政[編集]
ビアフラ共和国の領域。ビアフラ戦争では100万人以上の死傷者が出た。
詳細は「ビアフラ戦争」を参照
この混乱の結果、1966年1月15日、イボ族のジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍によるクーデターが勃発し、イロンシが大統領に就任した。1966年7月28日、イロンシ大統領が暗殺されて、ヤクブ・ゴウォン軍事政権が樹立された。ゴウォン政権は連邦政府への中央集権化を図るため、地方を12州に再編したが、これに反発した東部州は1967年、東部州の有力民族であるイボ族を中心にビアフラ共和国を建国し独立を宣言した。これによって内戦(ビアフラ戦争)になるが、1970年、イボ族の敗北で終結した。
1975年、軍の民政移行派(オルシェグン・オバサンジョ、ムハンマド将軍らを含む)によるクーデターが成功し、ムハンマドが大統領に就任した。1976年ムハンマド大統領は暗殺され、1977年、オバサンジョは最高軍事評議会議長に就任、新憲法を制定。
第二共和政[編集]
詳細は「:en:Second Nigerian Republic」を参照
1979年、大統領選挙でシェフ・シャガリが当選し、文民大統領が誕生した。しかし、多くの国民は民政化後かえって汚職や経済が悪化したと感じた。
第二次軍政[編集]
1983年の次回選挙でオバフェミ・アウォロウォが勝ったにもかかわらず、ムハンマド・ブハリ将軍ら軍政派によるクーデターで再び軍政に戻る。彼は経済再生を約束したが、強圧的な体制を敷いたため、経済はかえって悪化した。1985年再度クーデターが起きイブラヒム・ババンギダ将軍が実権を掌握。彼は最初人権を重視すると約束したが、次第に圧制に移行した。また、為替自由化などの経済改革はナイジェリアの通貨暴落を招き、何度もクーデター未遂を引き起こした。
第三共和政[編集]
詳細は「:en:Third Nigerian Republic」を参照
1990年の新憲法で1992年の大統領選挙が約束され、疑問視されつつも実現したが、ババンギダは不正があったと主張し、やり直させた。1993年6月の再選挙で実業家モシュード・アビオラ(英語版)が勝利し、ババンギダはまたも不正を主張したが、8月に引退し、文民出身の側近アーネスト・ショネカン(英語版)にいったん政権を任せた。
第三次軍政[編集]
その3か月後の1993年11月、1980年代の2回のクーデターにも関わったとみられるサニ・アバチャ将軍が実権を掌握した。サニ・アバチャは1998年の民政移管を約束したが、その一方で政党や集会・出版を弾圧し、多くの政治家や民主運動家や政敵を牢獄に送り、ナイジェリアに圧政を敷き、新憲法制定を延ばし続けた。彼はアフリカ随一の地域大国らしく振舞うべく、リベリアの長い内戦を終わらせ民政移管するプロセスに参加し、軍によるクーデターが起こった際はただちにリベリアに軍を派遣し、文民政権を守った。これによって、アバチャにナイジェリアの民政移管を期待したものもいたが、1998年やっと約束どおり告示された大統領選挙では、候補者はアバチャ一人だけであった。しかし、選挙直前の6月8日にアバチャが心臓麻痺で死去し、7月7日にモシュード・アビオラ(英語版)が死去した。後を継いだアブドゥルサラミ・アブバカールの政権のもと、1999年に新憲法が制定され、民政へ移行した。
第四共和政[編集]
第5代・12代大統領オルシェグン・オバサンジョ
詳細は「:en:Fourth Nigerian Republic」を参照
かつてのクーデター軍人オルシェグン・オバサンジョが、初の民主的選挙で、大統領に当選した。2003年の選挙でも再選した。しかし彼は民主派の希望でもあった司法長官ボラ・イゲ(英語版)が2001年に暗殺された件に関わったといわれるほか、ナイジェリアの汚職と腐敗が彼の時代になって最悪になったといわれ、国民の感情は好悪半ばしている。オバサンジョは腐敗政治家を次々逮捕しているが依然政府の腐敗は深刻で、多くの頭脳流出を招いている。
2006年、オバサンジョ大統領の3選を可能にする憲法改正が否決され、2007年2月、アブバカル副大統領が大統領選挙の候補者名から除外され、4月、アブバカルの立候補を最高裁が容認した。2007年4月23日、選挙管理委員会は大統領選挙で、国民民主党のウマル・ヤラドゥアが当選したと発表したが、国際選挙監視団は不正投票があったとして有効性を疑問視した。2007年8月14日、ナイジェリア中央銀行(英語版)のen:Charles Chukwuma Soludo総裁は2008年の8月から100ナイラを1ナイラとするデノミネーションを実施することを発表した。2009年6月3日、ナイジェリア中央銀行の新総裁にサヌシ・ラミド・サヌシ(英語版)が就任。2009年7月26日、ボコ・ハラムのボコ・ハラム蜂起(英語版)が勃発(en:Timeline of Boko Haram attacks in Nigeria)。2010年5月5日、ヤラドゥアが病死し、副大統領のグッドラック・ジョナサンが大統領に就任した。
グッドラック・ジョナサンの就任期間は、ヤラドゥアの任期の残り1年を受けてのものであったため、2011年再び大統領選挙が実施。グッドラック・ジョナサンは、イスラム教徒が多い北部出身のムハンマド・ブハリ元最高軍事評議会議長を下して再選を果たした。しかし、この選挙結果を受けてカドゥナ州など北部地域で暴動やキリスト教施設等への襲撃が発生。多数の死者や避難民が生じた[2]。
政治[編集]
第14代大統領グッドラック・ジョナサン
詳細は「ナイジェリアの政治」を参照
ナイジェリアの政治は独立以来混乱が続いているといっていい。独立時の北部・東部・西部の3州制以来、政治の実権は人口の多い北部のイスラム教徒が握っている。票数を是正するための人口調査は1962年に行われたものの、各民族の対立により失敗に終わり、以後人口調査は行われていない。この人口調査の失敗は各民族の対立をより先鋭化させ、ビアフラ戦争へとつながっていった[3]。3州の政治対立を緩和するため、政府は州を細分化していき、州の数は1967年には12州、1976年には19州、1996年には36州となっていた。この州の細分化により、旧各州の中心であったハウサ人・ヨルバ人・イボ人の3民族の求心力は衰え、新設された州で最大規模となった中小規模の民族の発言権が増大した。いっぽうで各民族ごとに投票行動を行う傾向は変わらず、いまだに正確な人口調査を行うことができない状況である[4]。
1967年に起こったクーデターでヤクブ・ゴウォンが政権を握って以降、軍の政治的発言権は増大した。ナイジェリアでは軍事政権が民主化の意向を示さないことは少なく、政権を奪取すると数年後の民政移管を公約するのが常であったが、この公約が守られることは少なく、イブラヒム・ババンギダ時代には大統領選の再選挙や無効、サニ・アバチャ時代には対立候補のいない大統領選などが行われ、軍は長期にわたってナイジェリア政治を支配してきた。
1999年に民主化が行われると、これまで政権を握ってきた北部が中央への反発などから急進化し、州法へのシャリーアの導入を北部各州が相次いで可決。これに反対する中央政府との対立が暴動に発展し、北部各地で暴動が頻発する状況となった。南部のニジェール・デルタでは、石油生産に伴う環境汚染などから不満を持った地域住民が急進化し(en:Conflict in the Niger Delta、大宇建設社員拉致事件)、ニジェール・デルタ解放運動やデルタ人民志願軍などいくつもの反政府組織やテロ組織(ボコ・ハラム)が武装闘争を行うようになり、治安が悪化している。
潤沢な石油収入があるものの、政府の統治能力の未熟さと腐敗により、国民の生活には還元されていない。石油収入150億ドルのうち100億ドルが使途不明のまま消えていく[5]。2009年の腐敗認識指数は2.5で、2003年の1.4よりやや改善したものの、それでも世界130位と下位にあることに違いはない。
元首[編集]
大統領を国家元首とする連邦共和制国家である。
行政[編集]
大統領は行政府の長として実権を有する。大統領は民選で任期4年。三選禁止。
立法[編集]
議会は、二院制。上院は、全109議席。各州3議席、連邦首都地域から1議席。代表議院(下院)は、346議席。任期はいずれも4年で、両院同日選挙。
司法[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。
軍事[編集]
サハラ砂漠以南のブラックアフリカでは南アフリカ共和国に並ぶ軍事大国であり、現在では平和維持軍等に期待が寄せられている。
[icon] この節の加筆が望まれています。
地方行政区分[編集]
詳細は「ナイジェリアの州」を参照
ナイジェリアの州
ナイジェリアは連邦制を採用しており、36の州 (state) と連邦首都地区(Federal Capital Territory) によって構成される。州はさらに774の地方行政区域に分割されている。独立時は北部州、東部州、西部州の3州体制であったが、民族対立の先鋭化を招いたため、徐々に細分化されていった。
1.アビア州 (Abia)
2.アダマワ州 (Adamawa)
3.アクワ・イボム州(Akwa Ibom)
4.アナンブラ州(Anambra)
5.バウチ州 (Bauchi)
6.バイエルサ州 (Bayelsa)
7.ベヌエ州 (Benue)
8.ボルノ州(Borno)
9.クロスリバー州 (Cross River)
10.デルタ州 (Delta)
11.エボニ州(Ebonyi)
12.エド州(Edo)
13.エキティ州 (Ekiti)
14.エヌグ州 (Enugu)
15.ゴンベ州 (Gombe)
16.イモ州(Imo)
17.ジガワ州 (Jigawa)
18.カドゥナ州 (Kaduna)
19.カノ州 (Kano)
20.カツィナ州 (Katsina)
21.ケビ州 (Kebbi)
22.コギ州 (Kogi)
23.クワラ州(Kwara)
24.ラゴス州 (Lagos)
25.ナサラワ州 (Nassarawa)
26.ナイジャ州 (Niger)
27.オグン州 (Ogun)
28.オンド州 (Ondo)
29.オシュン州 (Osun)
30.オヨ州 (Oyo)
31.プラトー州 (Plateau)
32.リヴァーズ州 (Rivers)
33・ソコト州 (Sokoto)
34.タラバ州 (Taraba)
35.ヨベ州 (Yobe)
36.ザムファラ州 (Zamfara)
37.連邦首都地区 (Federal Capital Territory)
地理[編集]
ナイジェリアの地図
詳細は「ナイジェリアの地理」を参照
ナイジェリアはアフリカのほぼ中央に位置し、南部は大西洋のギニア湾に面する。西をベナン、北をニジェール、北東をチャド、東をカメルーンに囲まれる。同国の二大河川であるニジェール川とベヌエ川は中部のコギ州ロコジャ付近で合流し、南流して世界最大のデルタであるニジェールデルタを形成し、大西洋に臨む。最高地点は南東部のマンビラ高原のチャパル・ワッディ山の2,419mである。国土は多様で、南部は年間約2,000mmの降雨がある熱帯雨林で、広大なマングローブが分布している。カメルーンにかけて中型のサルであるドリルの唯一の生息域であり、世界でも顕著な多種の蝶が見られるなど生物多様性の場所である。北部はサヘルと呼ばれる半砂漠で湖水面積縮小の著しいチャド湖がある。北の国境、南の沿岸沿いを除いた地域には年間降水量500 - 1,500mmのサバナが広がっている。
経済[編集]
詳細は「ナイジェリアの経済」を参照
ラゴスはナイジェリア最大の経済都市であり、世界有数のメガシティである。
IMFの統計によると、2010年のナイジェリアのGDPは2066億ドルであり[6]、日本の福岡県とほぼ同じ経済規模である[7]。 ブラックアフリカで最初にOPECに加盟を果たし、アフリカ大陸ではエジプトと共にNEXT11にも数えられており、経済規模は南アフリカ、エジプトに次ぎアフリカ第3位と経済規模も大きい。
色と面積で示したナイジェリアの輸出品目
石油生産量世界12位、輸出量世界8位の世界有数の産油国であり、肥沃な土壌ではトロピカルフルーツや野菜の生産が盛んだった。南部では輸出用作物としてカカオやアブラヤシ、サトウキビ、自給用としてキャッサバ、ヤムイモが栽培され、北部では輸出用作物として落花生、自給用としてトウジンビエ、トウモロコシがおもに栽培されており、それぞれ世界有数の生産国であった。しかし政府歳入の80%、GDPの40%を石油に頼る過度の石油依存により、カカオを除く在来の輸出農業は衰退。さらに政治の腐敗、放漫財政とオイルブーム後の巨額の累積債務のため、経済は低迷を続けている[8]。
国内の市場そのものは大きいのだが、国民の大多数が貧困に苦しんでいるため、購買力が低く市場を生かしきれない。それでも国内市場向けの産業は少しずつ成長してきている。2008年には、食品工業やセメント製造を中核とするナイジェリア国内最大の企業グループの一つであるダンゴート・グループ総帥アリコ・ダンゴートが、ブラックアフリカで初めてフォーブス (雑誌)の長者番付にランクインした[9]。
最大都市ラゴスはアフリカ最大級の大都市だが、集まる人口に既存の都市機能が追いつかず、渋滞によりバス・タクシーなど交通機能は麻痺寸前になっている。地方との交通網は、1980年代以前は、かつての宗主国であるイギリスが敷設した鉄道網が機能していたが、インフラの維持に手が回らず荒廃、多くは自動車やトラック輸送に転換されている。こうした傾向は、ラゴスを始めとした都市の渋滞に拍車をかけることから、政府は鉄道の近代化プロジェクトに着手。中国からの借款により資金を融通。中国企業との協力で、ラゴス州レッキー半島にレッキー自由貿易区を設置、現在建設を行っている。2006年からは、ラゴスやポートハーコートから各都市への鉄道網の再整備に乗り出している。
ナイジェリアの学校教育の水準は比較的高く、また電子機器やプログラミングなどに関する教育も盛んであるが、高度な教育を受けた学卒者たちの多く(4分の1以上)は失業状態にある。そのため、いくつかの若者が不法移民輸送や麻薬密輸ほか、インターネットカフェから世界中にスパムを配信するインターネット詐欺(いわゆる「ナイジェリアの手紙」詐欺)など犯罪にかかわる状態があるという。その他、暴力犯罪でもヨハネスブルグ、ナイロビ等とならび評判が悪い。オバサンジョ政権は、詐欺・経済犯罪や暴力組織の壊滅にむけ、世界各国の捜査機関と協力しながら努力している。
国民[編集]
詳細は「ナイジェリアの国民」および「:en:Demographics of Nigeria」を参照
ナイジェリア、カメルーン、ベナンの民族分布
ナイジェリアはアフリカ最大の人口を擁する国家であり、アフリカの総人口の1/5〜1/4がナイジェリアに居住する。250以上の民族/部族が居住する。北部のハウサ人およびフラニ人が全人口の29%、南西部のヨルバ人が21%、南東部のイボ人が18%。以下、イジョ人 10%、カヌリ人(英語版) 4%、イビビオ人(英語版) 3.5%、ティブ人 2.5%、他にEdo、Ebira、Nupe、Gwari、イツェキリ(英語版)、Jukun、Urhobo、イガラ人、Idoma、Kofyar、オゴニ、アンガス人らがいる。民族紛争が相次いできたため現在では州が細分化されている。これにより中規模民族の発言権が増大したが、これにより3大民族によって抑えられてきた各州の主導権争いが本格化し、民族紛争は減少しないままで、少数民族には苦難が続いている。
言語[編集]
ナイジェリアでは方言を含め521の言語が確認されているが、現存するのは510であると考えられている。議会や官庁で主に使用される事実上の公用語は旧支配者の言語である英語であり、議会では多数派であるハウサ語、ヨルバ語、イボ語の使用のみが認められている。初等教育では母語によって授業が行われるが、高等教育においては英語のみを使用。言語の面でも少数民族の権利が侵される事態となっている。[10][11]
宗教[編集]
主に北部ではイスラーム教が、南部ではキリスト教が信仰され、その他土着のアニミズム宗教も勢力を保っており、内訳はイスラーム教が5割、キリスト教が4割、土地固有の伝統信仰が1割となっている[12]。北部はムスリム地区である。スンナ派ムスリムが主流で、シーア派ムスリムはほとんど居なかったが、イランがナイジェリアで支持団体を通じてシーア派とイスラーム革命思想の布教を行い、現在は200万人のシーア派ムスリムが存在する[13]。
独立後、キリスト教とイスラーム教が対立する宗教間紛争が多く起こった。1982年にはカノでモスクの近くに大聖堂を建てる計画に反対して暴動が、1986年にはババンギダ軍事政権がイスラム諸国会議機構の正式メンバーになることを秘密に決定していたことが発覚し、教会やモスクの破壊が続いた。さらに、1987年のカドナ州の暴動では19人の死者、数千人の負傷者が出た。また1990年にはクーデター未遂が起こり、1991年にはカツィーナ、バウチで暴動、1992年カドナ州ザンゴン・カタフで暴動が起こった。2002年は25%以上がキリスト教であるカドナ州でシャリーアを導入するか否かで抗争が起きた[14]。
2010年3月にはベロムでイスラーム教徒がキリスト教徒を襲撃する事件が発生し、500人以上が殺害された。2010年7月にかけての数ヶ月間に同様の事件が複数起きており、地元の人権団体によるとジョス周辺だけで1500人が殺害されているとされる。教会の建物もその際に破壊されるケースがある[15]。
教育[編集]
学制は初等教育6年、初期中等教育3年、後期中等教育3年、高等教育4年の6-3-3-4制である。義務教育は初等教育の6年間のみ。教育言語は英語である。就学率は初等教育で60から70%と低い。
2003年の15歳以上の人口の識字率は約68%(男性:75.7%、女性:60.6%)であると見積もられている[16]。
主な高等教育機関としてはナイジェリア大学(1955年)、イバダン大学(1948年)、ラゴス大学(1962年)などが挙げられる。
文化[編集]
詳細は「ナイジェリアの文化」および「:en:Culture of Nigeria」を参照
文学[編集]
ノーベル文学賞作家、ウォーレ・ショインカ
詳細は「ナイジェリア文学」を参照
「アフリカ文学」も参照
ナイジェリアは南アフリカ共和国と同様、自国内に出版産業の生産、流通システムが確立し、文学市場が成立しているブラックアフリカでは数少ない国家である[17]。
文字による文学は、最初期のものとして、奴隷となったヨルバ人オラウダ・イクイアーノ(英語版)が英語で書いた『アフリカ人オラウダ・イクイアーノ、別名グスターヴァス・ヴァッサ自著の生涯の興味ある物語(英語版)』(1789)が挙げられ、イクイアーノは現在もアフリカ文学に大きな影響を与えている[18]。『死と王の先導者』で知られるヨルバ人のウォーレ・ショインカは、アフリカ初のノーベル文学賞(1986年受賞)受賞作家となった。ヨルバ人のエイモス・チュツオーラは、『やし酒飲み(英語版)』で知られる。
現代の代表的な作家としては、40カ国語以上に翻訳された『崩れゆく絆(英語版)』(1958)[18]のイボ人のチヌア・アチェベ、ビアフラ戦争をテーマとした『半分のぼった黄色い太陽(英語版)』のイボ人のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが知られている。
その他、ケン・サロ=ウィワ、フェスタス・イヤイ(英語版)などの名が挙げられる。
音楽[編集]
キング・サニー・アデ
詳細は「ナイジェリアの音楽」および「:en:Music of Nigeria」を参照
クラシック音楽においては、植民地時代から独立後にかけて活躍したフェラ・ソワンデの名が特筆される。
19世紀に西アフリカよりラゴスに伝わった「パームワイン音楽(英語版)」は、1920年代に入るとヨルバ色を強めて土着化。1930年代には西洋楽器や讃美歌のハーモニーを取り入れた「ジュジュ(英語版)」が成立、音楽は発展をつづけ、1980年代にキング・サニー・アデにより隆盛期を迎えた。
また、イスラム文化の影響を受けたヨルバ人のサカラドラム(英語版)により、20世紀初めごろに「サカラ(英語版)」が成立、1940年代に流行。対抗するようにトーキングドラム(ドゥンドゥン)のアンサンブルによる「アパラ(英語版)」も発生した。ラマダーンの時期に目覚ましとして使われていた音楽は「ウェレ(英語版)(アジサーリ(英語版))」へと発展し、1960年代にはシキル・アインデ・バリスター(ヨルバ語版、スペイン語版)により「フジ(英語版)」が生まれた(フジの名称は日本の富士山に由来している)。
1950年代にガーナより伝わった「ハイライフ」や、アメリカ合衆国のジェームス・ブラウンらのファンクなどの影響を受けた「アフロ・ビート」は、1960年代後半にフェラ・クティらにより生まれた。アフロビートはフェラの死後も、フェミ・クティやシェウン・クティらに引き継がれている。
映画[編集]
詳細は「ナイジェリアの映画」および「:en:Cinema of Nigeria」を参照
「アフリカ映画」も参照
年間に製作される映画の本数は約800本と、インドに続き世界二位である。人口10億人以上のインドとほぼ同数の作品が製作されているわけなので、人口比あたりの映画制作数では間違いなく世界一位である。製作される映画は英語の物と現地語の物がほぼ半分ずつだと言われている。
世界遺産[編集]
詳細は「ナイジェリアの世界遺産」を参照
ナイジェリア連邦共和国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。
スクルの文化的景観 - (1999年、文化遺産)
オシュン=オショグボの聖なる木立 - (2005年、文化遺産)
祝祭日[編集]
ナイジェリア出身の人物[編集]
詳細は「ナイジェリア人の一覧」および「:en:List of Nigerians」を参照
イブラヒム・アッボーラ・ガンバリ(国際連合事務次長、国際連合事務総長特別顧問)
アキーム・オラジュワン(バスケットボール選手)
オーガスティン・オコチャ(サッカー選手)
ホーガン・バッセイ(ボクサー。元世界フェザー級チャンピオン)
サミュエル・ピーター(ボクサー。世界ヘビー級チャンピオン)
ボビー・オロゴン(タレント、格闘家。現在は日本国籍)
アンディ・オロゴン(タレント、格闘家。ボビー・オロゴンの弟)
キザイア・ジョーンズ(ミュージシャン&ギターリスト。ブルースとファンクを融合させた『ブルーファンク』なるジャンルを提唱。アコースティックギターを超絶テクニックでスラップするそのファンキーなテクニカルプレー・音楽性はヴィジュアル系アーティスト雅や元祖渋谷系シアターブルックの佐藤タイジなどに多大な影響を与えた)
フェラ・クティ(ミュージシャン。アフロビートの創始者で「Black President(黒い大統領)」と呼ばれる)
シャーデー・アデュ(イギリスのバンド・シャーデーのボーカル、モデル。父はヨルバ人でイバダンの出身)
脚註[編集]
[ヘルプ]
1.^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
2.^ ナイジェリア大統領選めぐる暴動、死者500人超か(AFP.BB.NEWS)2011年04月25日13:53
3.^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p501
4.^ 「アフリカ 苦悩する大陸」ロバート・ゲスト著 伊藤真訳 2008年5月15日 東洋経済新報社 p136
5.^ 松本仁一『カラシニコフI』朝日新聞出版、2008年7月30日 p.177
6.^ IMF
7.^ 国民経済計算
8.^ 「ビジュアル データ・アトラス」同朋舎出版 p354 1995年4月26日初版第1刷発行
9.^ 「アフリカ 動き出す9億人市場」ヴィジャイ・マハジャン著 松本裕訳 英治出版 p108-110 2009年7月20日発行
10.^ E・カリ「多言語状況データベース ナイジェリア」、〈アジア・アフリカの多言語状況データベース〉東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
11.^ 中村博一「第13回「世界の教科書展」特集「ナイジェリアの教育と教科書」」文教大学教育研究所
12.^ 外務省
13.^ NHK-BS1「きょうの世界」2月10日放送回より
14.^ 戸田真紀子『アフリカと政治』、第5章「ナイジェリアの宗教紛争」
15.^ イスラム教徒らがキリスト教徒の村を襲撃、8人死亡 ナイジェリア 2010年07月18日 10:44 AFPBB
16.^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ni.html 2009年10月18日閲覧
17.^ 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12
18.^ a b 小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12
参考文献[編集]
岡倉登志:編『ハンドブック現代アフリカ』明石書店 2002/12
戸田真紀子『アフリカと政治 紛争と貧困とジェンダー』御茶の水書房、2008
牧英夫『世界地名ルーツ辞典』1989/12
アフリカ最大の人口を擁する国であり、乾燥地帯でキャラバン貿易を通じてイスラム教を受容した北部と、熱帯雨林地帯でアニミズムを信仰し後にヨーロッパの影響を受けキリスト教が広がった南部との間に大きな違いがある。また、南部のニジェール川デルタでは豊富に石油を産出するが、この石油を巡って内戦や内紛が繰り返されるなど、国内対立の原因ともなっている。
目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 植民地時代
2.2 自治領
2.3 独立・第一共和政
2.4 第一次軍政
2.5 第二共和政
2.6 第二次軍政
2.7 第三共和政
2.8 第三次軍政
2.9 第四共和政
3 政治 3.1 元首
3.2 行政
3.3 立法
3.4 司法
4 軍事
5 地方行政区分
6 地理
7 経済
8 国民 8.1 言語
8.2 宗教
8.3 教育
9 文化 9.1 文学
9.2 音楽
9.3 映画
9.4 世界遺産
9.5 祝祭日
10 ナイジェリア出身の人物
11 脚註
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
国名[編集]
正式名称は英語: Federal Republic of Nigeria (- nījĭr'ēə)。通称 Nigeria。
日本語による表記は、ナイジェリア連邦共和国。通称、ナイジェリア。
国名の由来は、国内を流れるニジェール川より。ニジェール川の語源は、遊牧民トゥアレグ族により、この川がニエジーレン (n'egiren) 「川」、またはエジーレン (egiren) 「川」と呼ばれていたことによる。これがフランス人に伝えられ、ラテン語で「黒」を意味するニジェール (niger) と転訛した。
ニジェール (Niger) とナイジェリア (Nigeria) は本来は同じ地域を指しているが、旧宗主国を異にする両地域が別々に独立した際に、現在のように別の国を指すこととなった。
歴史[編集]
詳細は「ナイジェリアの歴史」および「:en:History of Nigeria」を参照
16世紀のベニン王国の象牙のマスク
紀元前5世紀から2世紀にかけて、国土の中央部のジョス高原において土偶で知られる初期鉄器文化であるノク文化が繁栄した。
9世紀頃、国土の南東部、ニジェール川の三角州の付け根付近にあたるイボ=ウクゥ(英語版)において青銅器製品を多量に伴うすばらしい王墓が造られた(en:Archaeology of Igbo-Ukwu、イボ文化(英語版))。この地方では、イボ族その他イビビオ族(英語版)のように指導者のない集団による人口の多い村々のネットワークが、アフリカ固有の平等主義と民主主義の概念によって管理されていた。10世紀 - 15世紀頃に、国土の南西部には、青銅製などのすばらしい彫刻で知られるイフェ王国と、ソープストーン(英語版)の塑像で知られるヨルバ人の文化がエシエ(英語版)で栄えた。これらの大胆なフォルムの彫刻は後に19世紀ヨーロッパに紹介され、20世紀美術に多大な影響を与えた。14世紀から18世紀にわたって南部にベニン王国が繁栄した。彼らは15世紀末に来航したポルトガル人から銃を取り入れ軍事力と王権を強化した。
密林によって外部の文化から阻まれた南部と異なり、北部ではキャラバン交易(サハラ交易)を通じ北アフリカから物資や文化の伝播があり、イスラム教を受容した。チャド湖周辺には12世紀から13世紀ごろアフリカのキャラバン交易路の利益と軍事力でカネム・ボルヌ帝国が全盛を迎えた。この王家は19世紀まで続いた。また同じくチャド湖の西方にハウサ諸王国・都市国家群が繁栄し、なかでも19世紀にはフラニ族のイスラム神学者ウスマン・ダン・フォディオが都市国家ゴビール(英語版)で改革運動を開始したが、国から追い出されると遊牧生活のフラニ族たちと協力してジハードを起こし(フラニ戦争(英語版), 1804年 – 1808年)、ソコトの街を首都に、北部一帯にソコト帝国(ソコト・カリフ国, フラニ帝国)を建国した。
植民地時代[編集]
1897年のベニンシティ
詳細は「:en:Colonial Nigeria」を参照
ナイジェリアの植民地化は、1472年にポルトガル人がラゴスを建設し、奴隷貿易の拠点とした時から始まった。17世紀から19世紀を通じて、ポルトガル人、イギリス人を主体とするヨーロッパの貿易商人たちが、南北アメリカ大陸へ送る奴隷の増加に伴い海岸に多くの港を建設し、彼らはナイジェリアの海岸部を「奴隷海岸」と呼んだ。19世紀にはイギリス軍が奴隷売買を禁止し、商品貿易に取ってかわられた。1884年、オイルリバーズ保護国(英語版)(英語: Oil Rivers Protectorate)。1886年にイギリス政府はジョージ・トーブマン・ゴールディ卿らによる貿易会社を「王立ニジェール会社(英語版)」とし諸特権を与え、ナイジェリア一帯の支配を開始した。19世紀末にベニン王国は周囲のフラニ人のソコト帝国、ヨルバ人のオヨ王国もろともイギリスに滅ぼされて、ナイジェリアは植民地化された(ニジェール海岸保護国(英語版))。en:Anglo-Aro War(1901年 - 1902年)。1903年にはソコト帝国も滅亡し、イギリスとフランスに分割された。1901年王立ニジェール会社は北部ナイジェリア保護領(英語版)と南部ナイジェリア保護領(英語版)の二つの保護領に再編成され、1914年一つの保護領en:Colony and Protectorate of Nigeria(1914年 - 1954年)に統合された。
自治領[編集]
留学生たちを中心に第二次世界大戦前から独立への動きはあったが、第二次大戦後ナショナリズムが高まり、自治領(1954年 - 1960年)となった。1956年、シェルはオゴニ(ポートハーコートを中心とするニジェール・デルタにある)で原油採掘を開始。
独立・第一共和政[編集]
詳細は「:en:First Nigerian Republic」および「:en:Nigerian Sharia conflict」を参照
1960年、第一次大戦後旧ドイツ帝国植民地でイギリスの信託統治領となっていた西カメルーンの北部を編入して、それぞれが広範な自治権を有する北部州・西部州・東部州の3地域の連邦制国家として、完全独立を果たす。独立時は、イギリス女王を国家元首として頂く英連邦王国であったが、1963年に連邦共和国憲法を制定し、大統領制に移行した。それと同時に、西部州から中西部州を分割し、全4地域になる。しかし、議会では3地域の代表が激しく対立しあい、人口の多い北部優位は動かず、それが東部との対立を深め、内政は混迷を深めていった。
第一次軍政[編集]
ビアフラ共和国の領域。ビアフラ戦争では100万人以上の死傷者が出た。
詳細は「ビアフラ戦争」を参照
この混乱の結果、1966年1月15日、イボ族のジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍によるクーデターが勃発し、イロンシが大統領に就任した。1966年7月28日、イロンシ大統領が暗殺されて、ヤクブ・ゴウォン軍事政権が樹立された。ゴウォン政権は連邦政府への中央集権化を図るため、地方を12州に再編したが、これに反発した東部州は1967年、東部州の有力民族であるイボ族を中心にビアフラ共和国を建国し独立を宣言した。これによって内戦(ビアフラ戦争)になるが、1970年、イボ族の敗北で終結した。
1975年、軍の民政移行派(オルシェグン・オバサンジョ、ムハンマド将軍らを含む)によるクーデターが成功し、ムハンマドが大統領に就任した。1976年ムハンマド大統領は暗殺され、1977年、オバサンジョは最高軍事評議会議長に就任、新憲法を制定。
第二共和政[編集]
詳細は「:en:Second Nigerian Republic」を参照
1979年、大統領選挙でシェフ・シャガリが当選し、文民大統領が誕生した。しかし、多くの国民は民政化後かえって汚職や経済が悪化したと感じた。
第二次軍政[編集]
1983年の次回選挙でオバフェミ・アウォロウォが勝ったにもかかわらず、ムハンマド・ブハリ将軍ら軍政派によるクーデターで再び軍政に戻る。彼は経済再生を約束したが、強圧的な体制を敷いたため、経済はかえって悪化した。1985年再度クーデターが起きイブラヒム・ババンギダ将軍が実権を掌握。彼は最初人権を重視すると約束したが、次第に圧制に移行した。また、為替自由化などの経済改革はナイジェリアの通貨暴落を招き、何度もクーデター未遂を引き起こした。
第三共和政[編集]
詳細は「:en:Third Nigerian Republic」を参照
1990年の新憲法で1992年の大統領選挙が約束され、疑問視されつつも実現したが、ババンギダは不正があったと主張し、やり直させた。1993年6月の再選挙で実業家モシュード・アビオラ(英語版)が勝利し、ババンギダはまたも不正を主張したが、8月に引退し、文民出身の側近アーネスト・ショネカン(英語版)にいったん政権を任せた。
第三次軍政[編集]
その3か月後の1993年11月、1980年代の2回のクーデターにも関わったとみられるサニ・アバチャ将軍が実権を掌握した。サニ・アバチャは1998年の民政移管を約束したが、その一方で政党や集会・出版を弾圧し、多くの政治家や民主運動家や政敵を牢獄に送り、ナイジェリアに圧政を敷き、新憲法制定を延ばし続けた。彼はアフリカ随一の地域大国らしく振舞うべく、リベリアの長い内戦を終わらせ民政移管するプロセスに参加し、軍によるクーデターが起こった際はただちにリベリアに軍を派遣し、文民政権を守った。これによって、アバチャにナイジェリアの民政移管を期待したものもいたが、1998年やっと約束どおり告示された大統領選挙では、候補者はアバチャ一人だけであった。しかし、選挙直前の6月8日にアバチャが心臓麻痺で死去し、7月7日にモシュード・アビオラ(英語版)が死去した。後を継いだアブドゥルサラミ・アブバカールの政権のもと、1999年に新憲法が制定され、民政へ移行した。
第四共和政[編集]
第5代・12代大統領オルシェグン・オバサンジョ
詳細は「:en:Fourth Nigerian Republic」を参照
かつてのクーデター軍人オルシェグン・オバサンジョが、初の民主的選挙で、大統領に当選した。2003年の選挙でも再選した。しかし彼は民主派の希望でもあった司法長官ボラ・イゲ(英語版)が2001年に暗殺された件に関わったといわれるほか、ナイジェリアの汚職と腐敗が彼の時代になって最悪になったといわれ、国民の感情は好悪半ばしている。オバサンジョは腐敗政治家を次々逮捕しているが依然政府の腐敗は深刻で、多くの頭脳流出を招いている。
2006年、オバサンジョ大統領の3選を可能にする憲法改正が否決され、2007年2月、アブバカル副大統領が大統領選挙の候補者名から除外され、4月、アブバカルの立候補を最高裁が容認した。2007年4月23日、選挙管理委員会は大統領選挙で、国民民主党のウマル・ヤラドゥアが当選したと発表したが、国際選挙監視団は不正投票があったとして有効性を疑問視した。2007年8月14日、ナイジェリア中央銀行(英語版)のen:Charles Chukwuma Soludo総裁は2008年の8月から100ナイラを1ナイラとするデノミネーションを実施することを発表した。2009年6月3日、ナイジェリア中央銀行の新総裁にサヌシ・ラミド・サヌシ(英語版)が就任。2009年7月26日、ボコ・ハラムのボコ・ハラム蜂起(英語版)が勃発(en:Timeline of Boko Haram attacks in Nigeria)。2010年5月5日、ヤラドゥアが病死し、副大統領のグッドラック・ジョナサンが大統領に就任した。
グッドラック・ジョナサンの就任期間は、ヤラドゥアの任期の残り1年を受けてのものであったため、2011年再び大統領選挙が実施。グッドラック・ジョナサンは、イスラム教徒が多い北部出身のムハンマド・ブハリ元最高軍事評議会議長を下して再選を果たした。しかし、この選挙結果を受けてカドゥナ州など北部地域で暴動やキリスト教施設等への襲撃が発生。多数の死者や避難民が生じた[2]。
政治[編集]
第14代大統領グッドラック・ジョナサン
詳細は「ナイジェリアの政治」を参照
ナイジェリアの政治は独立以来混乱が続いているといっていい。独立時の北部・東部・西部の3州制以来、政治の実権は人口の多い北部のイスラム教徒が握っている。票数を是正するための人口調査は1962年に行われたものの、各民族の対立により失敗に終わり、以後人口調査は行われていない。この人口調査の失敗は各民族の対立をより先鋭化させ、ビアフラ戦争へとつながっていった[3]。3州の政治対立を緩和するため、政府は州を細分化していき、州の数は1967年には12州、1976年には19州、1996年には36州となっていた。この州の細分化により、旧各州の中心であったハウサ人・ヨルバ人・イボ人の3民族の求心力は衰え、新設された州で最大規模となった中小規模の民族の発言権が増大した。いっぽうで各民族ごとに投票行動を行う傾向は変わらず、いまだに正確な人口調査を行うことができない状況である[4]。
1967年に起こったクーデターでヤクブ・ゴウォンが政権を握って以降、軍の政治的発言権は増大した。ナイジェリアでは軍事政権が民主化の意向を示さないことは少なく、政権を奪取すると数年後の民政移管を公約するのが常であったが、この公約が守られることは少なく、イブラヒム・ババンギダ時代には大統領選の再選挙や無効、サニ・アバチャ時代には対立候補のいない大統領選などが行われ、軍は長期にわたってナイジェリア政治を支配してきた。
1999年に民主化が行われると、これまで政権を握ってきた北部が中央への反発などから急進化し、州法へのシャリーアの導入を北部各州が相次いで可決。これに反対する中央政府との対立が暴動に発展し、北部各地で暴動が頻発する状況となった。南部のニジェール・デルタでは、石油生産に伴う環境汚染などから不満を持った地域住民が急進化し(en:Conflict in the Niger Delta、大宇建設社員拉致事件)、ニジェール・デルタ解放運動やデルタ人民志願軍などいくつもの反政府組織やテロ組織(ボコ・ハラム)が武装闘争を行うようになり、治安が悪化している。
潤沢な石油収入があるものの、政府の統治能力の未熟さと腐敗により、国民の生活には還元されていない。石油収入150億ドルのうち100億ドルが使途不明のまま消えていく[5]。2009年の腐敗認識指数は2.5で、2003年の1.4よりやや改善したものの、それでも世界130位と下位にあることに違いはない。
元首[編集]
大統領を国家元首とする連邦共和制国家である。
行政[編集]
大統領は行政府の長として実権を有する。大統領は民選で任期4年。三選禁止。
立法[編集]
議会は、二院制。上院は、全109議席。各州3議席、連邦首都地域から1議席。代表議院(下院)は、346議席。任期はいずれも4年で、両院同日選挙。
司法[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。
軍事[編集]
サハラ砂漠以南のブラックアフリカでは南アフリカ共和国に並ぶ軍事大国であり、現在では平和維持軍等に期待が寄せられている。
[icon] この節の加筆が望まれています。
地方行政区分[編集]
詳細は「ナイジェリアの州」を参照
ナイジェリアの州
ナイジェリアは連邦制を採用しており、36の州 (state) と連邦首都地区(Federal Capital Territory) によって構成される。州はさらに774の地方行政区域に分割されている。独立時は北部州、東部州、西部州の3州体制であったが、民族対立の先鋭化を招いたため、徐々に細分化されていった。
1.アビア州 (Abia)
2.アダマワ州 (Adamawa)
3.アクワ・イボム州(Akwa Ibom)
4.アナンブラ州(Anambra)
5.バウチ州 (Bauchi)
6.バイエルサ州 (Bayelsa)
7.ベヌエ州 (Benue)
8.ボルノ州(Borno)
9.クロスリバー州 (Cross River)
10.デルタ州 (Delta)
11.エボニ州(Ebonyi)
12.エド州(Edo)
13.エキティ州 (Ekiti)
14.エヌグ州 (Enugu)
15.ゴンベ州 (Gombe)
16.イモ州(Imo)
17.ジガワ州 (Jigawa)
18.カドゥナ州 (Kaduna)
19.カノ州 (Kano)
20.カツィナ州 (Katsina)
21.ケビ州 (Kebbi)
22.コギ州 (Kogi)
23.クワラ州(Kwara)
24.ラゴス州 (Lagos)
25.ナサラワ州 (Nassarawa)
26.ナイジャ州 (Niger)
27.オグン州 (Ogun)
28.オンド州 (Ondo)
29.オシュン州 (Osun)
30.オヨ州 (Oyo)
31.プラトー州 (Plateau)
32.リヴァーズ州 (Rivers)
33・ソコト州 (Sokoto)
34.タラバ州 (Taraba)
35.ヨベ州 (Yobe)
36.ザムファラ州 (Zamfara)
37.連邦首都地区 (Federal Capital Territory)
地理[編集]
ナイジェリアの地図
詳細は「ナイジェリアの地理」を参照
ナイジェリアはアフリカのほぼ中央に位置し、南部は大西洋のギニア湾に面する。西をベナン、北をニジェール、北東をチャド、東をカメルーンに囲まれる。同国の二大河川であるニジェール川とベヌエ川は中部のコギ州ロコジャ付近で合流し、南流して世界最大のデルタであるニジェールデルタを形成し、大西洋に臨む。最高地点は南東部のマンビラ高原のチャパル・ワッディ山の2,419mである。国土は多様で、南部は年間約2,000mmの降雨がある熱帯雨林で、広大なマングローブが分布している。カメルーンにかけて中型のサルであるドリルの唯一の生息域であり、世界でも顕著な多種の蝶が見られるなど生物多様性の場所である。北部はサヘルと呼ばれる半砂漠で湖水面積縮小の著しいチャド湖がある。北の国境、南の沿岸沿いを除いた地域には年間降水量500 - 1,500mmのサバナが広がっている。
経済[編集]
詳細は「ナイジェリアの経済」を参照
ラゴスはナイジェリア最大の経済都市であり、世界有数のメガシティである。
IMFの統計によると、2010年のナイジェリアのGDPは2066億ドルであり[6]、日本の福岡県とほぼ同じ経済規模である[7]。 ブラックアフリカで最初にOPECに加盟を果たし、アフリカ大陸ではエジプトと共にNEXT11にも数えられており、経済規模は南アフリカ、エジプトに次ぎアフリカ第3位と経済規模も大きい。
色と面積で示したナイジェリアの輸出品目
石油生産量世界12位、輸出量世界8位の世界有数の産油国であり、肥沃な土壌ではトロピカルフルーツや野菜の生産が盛んだった。南部では輸出用作物としてカカオやアブラヤシ、サトウキビ、自給用としてキャッサバ、ヤムイモが栽培され、北部では輸出用作物として落花生、自給用としてトウジンビエ、トウモロコシがおもに栽培されており、それぞれ世界有数の生産国であった。しかし政府歳入の80%、GDPの40%を石油に頼る過度の石油依存により、カカオを除く在来の輸出農業は衰退。さらに政治の腐敗、放漫財政とオイルブーム後の巨額の累積債務のため、経済は低迷を続けている[8]。
国内の市場そのものは大きいのだが、国民の大多数が貧困に苦しんでいるため、購買力が低く市場を生かしきれない。それでも国内市場向けの産業は少しずつ成長してきている。2008年には、食品工業やセメント製造を中核とするナイジェリア国内最大の企業グループの一つであるダンゴート・グループ総帥アリコ・ダンゴートが、ブラックアフリカで初めてフォーブス (雑誌)の長者番付にランクインした[9]。
最大都市ラゴスはアフリカ最大級の大都市だが、集まる人口に既存の都市機能が追いつかず、渋滞によりバス・タクシーなど交通機能は麻痺寸前になっている。地方との交通網は、1980年代以前は、かつての宗主国であるイギリスが敷設した鉄道網が機能していたが、インフラの維持に手が回らず荒廃、多くは自動車やトラック輸送に転換されている。こうした傾向は、ラゴスを始めとした都市の渋滞に拍車をかけることから、政府は鉄道の近代化プロジェクトに着手。中国からの借款により資金を融通。中国企業との協力で、ラゴス州レッキー半島にレッキー自由貿易区を設置、現在建設を行っている。2006年からは、ラゴスやポートハーコートから各都市への鉄道網の再整備に乗り出している。
ナイジェリアの学校教育の水準は比較的高く、また電子機器やプログラミングなどに関する教育も盛んであるが、高度な教育を受けた学卒者たちの多く(4分の1以上)は失業状態にある。そのため、いくつかの若者が不法移民輸送や麻薬密輸ほか、インターネットカフェから世界中にスパムを配信するインターネット詐欺(いわゆる「ナイジェリアの手紙」詐欺)など犯罪にかかわる状態があるという。その他、暴力犯罪でもヨハネスブルグ、ナイロビ等とならび評判が悪い。オバサンジョ政権は、詐欺・経済犯罪や暴力組織の壊滅にむけ、世界各国の捜査機関と協力しながら努力している。
国民[編集]
詳細は「ナイジェリアの国民」および「:en:Demographics of Nigeria」を参照
ナイジェリア、カメルーン、ベナンの民族分布
ナイジェリアはアフリカ最大の人口を擁する国家であり、アフリカの総人口の1/5〜1/4がナイジェリアに居住する。250以上の民族/部族が居住する。北部のハウサ人およびフラニ人が全人口の29%、南西部のヨルバ人が21%、南東部のイボ人が18%。以下、イジョ人 10%、カヌリ人(英語版) 4%、イビビオ人(英語版) 3.5%、ティブ人 2.5%、他にEdo、Ebira、Nupe、Gwari、イツェキリ(英語版)、Jukun、Urhobo、イガラ人、Idoma、Kofyar、オゴニ、アンガス人らがいる。民族紛争が相次いできたため現在では州が細分化されている。これにより中規模民族の発言権が増大したが、これにより3大民族によって抑えられてきた各州の主導権争いが本格化し、民族紛争は減少しないままで、少数民族には苦難が続いている。
言語[編集]
ナイジェリアでは方言を含め521の言語が確認されているが、現存するのは510であると考えられている。議会や官庁で主に使用される事実上の公用語は旧支配者の言語である英語であり、議会では多数派であるハウサ語、ヨルバ語、イボ語の使用のみが認められている。初等教育では母語によって授業が行われるが、高等教育においては英語のみを使用。言語の面でも少数民族の権利が侵される事態となっている。[10][11]
宗教[編集]
主に北部ではイスラーム教が、南部ではキリスト教が信仰され、その他土着のアニミズム宗教も勢力を保っており、内訳はイスラーム教が5割、キリスト教が4割、土地固有の伝統信仰が1割となっている[12]。北部はムスリム地区である。スンナ派ムスリムが主流で、シーア派ムスリムはほとんど居なかったが、イランがナイジェリアで支持団体を通じてシーア派とイスラーム革命思想の布教を行い、現在は200万人のシーア派ムスリムが存在する[13]。
独立後、キリスト教とイスラーム教が対立する宗教間紛争が多く起こった。1982年にはカノでモスクの近くに大聖堂を建てる計画に反対して暴動が、1986年にはババンギダ軍事政権がイスラム諸国会議機構の正式メンバーになることを秘密に決定していたことが発覚し、教会やモスクの破壊が続いた。さらに、1987年のカドナ州の暴動では19人の死者、数千人の負傷者が出た。また1990年にはクーデター未遂が起こり、1991年にはカツィーナ、バウチで暴動、1992年カドナ州ザンゴン・カタフで暴動が起こった。2002年は25%以上がキリスト教であるカドナ州でシャリーアを導入するか否かで抗争が起きた[14]。
2010年3月にはベロムでイスラーム教徒がキリスト教徒を襲撃する事件が発生し、500人以上が殺害された。2010年7月にかけての数ヶ月間に同様の事件が複数起きており、地元の人権団体によるとジョス周辺だけで1500人が殺害されているとされる。教会の建物もその際に破壊されるケースがある[15]。
教育[編集]
学制は初等教育6年、初期中等教育3年、後期中等教育3年、高等教育4年の6-3-3-4制である。義務教育は初等教育の6年間のみ。教育言語は英語である。就学率は初等教育で60から70%と低い。
2003年の15歳以上の人口の識字率は約68%(男性:75.7%、女性:60.6%)であると見積もられている[16]。
主な高等教育機関としてはナイジェリア大学(1955年)、イバダン大学(1948年)、ラゴス大学(1962年)などが挙げられる。
文化[編集]
詳細は「ナイジェリアの文化」および「:en:Culture of Nigeria」を参照
文学[編集]
ノーベル文学賞作家、ウォーレ・ショインカ
詳細は「ナイジェリア文学」を参照
「アフリカ文学」も参照
ナイジェリアは南アフリカ共和国と同様、自国内に出版産業の生産、流通システムが確立し、文学市場が成立しているブラックアフリカでは数少ない国家である[17]。
文字による文学は、最初期のものとして、奴隷となったヨルバ人オラウダ・イクイアーノ(英語版)が英語で書いた『アフリカ人オラウダ・イクイアーノ、別名グスターヴァス・ヴァッサ自著の生涯の興味ある物語(英語版)』(1789)が挙げられ、イクイアーノは現在もアフリカ文学に大きな影響を与えている[18]。『死と王の先導者』で知られるヨルバ人のウォーレ・ショインカは、アフリカ初のノーベル文学賞(1986年受賞)受賞作家となった。ヨルバ人のエイモス・チュツオーラは、『やし酒飲み(英語版)』で知られる。
現代の代表的な作家としては、40カ国語以上に翻訳された『崩れゆく絆(英語版)』(1958)[18]のイボ人のチヌア・アチェベ、ビアフラ戦争をテーマとした『半分のぼった黄色い太陽(英語版)』のイボ人のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが知られている。
その他、ケン・サロ=ウィワ、フェスタス・イヤイ(英語版)などの名が挙げられる。
音楽[編集]
キング・サニー・アデ
詳細は「ナイジェリアの音楽」および「:en:Music of Nigeria」を参照
クラシック音楽においては、植民地時代から独立後にかけて活躍したフェラ・ソワンデの名が特筆される。
19世紀に西アフリカよりラゴスに伝わった「パームワイン音楽(英語版)」は、1920年代に入るとヨルバ色を強めて土着化。1930年代には西洋楽器や讃美歌のハーモニーを取り入れた「ジュジュ(英語版)」が成立、音楽は発展をつづけ、1980年代にキング・サニー・アデにより隆盛期を迎えた。
また、イスラム文化の影響を受けたヨルバ人のサカラドラム(英語版)により、20世紀初めごろに「サカラ(英語版)」が成立、1940年代に流行。対抗するようにトーキングドラム(ドゥンドゥン)のアンサンブルによる「アパラ(英語版)」も発生した。ラマダーンの時期に目覚ましとして使われていた音楽は「ウェレ(英語版)(アジサーリ(英語版))」へと発展し、1960年代にはシキル・アインデ・バリスター(ヨルバ語版、スペイン語版)により「フジ(英語版)」が生まれた(フジの名称は日本の富士山に由来している)。
1950年代にガーナより伝わった「ハイライフ」や、アメリカ合衆国のジェームス・ブラウンらのファンクなどの影響を受けた「アフロ・ビート」は、1960年代後半にフェラ・クティらにより生まれた。アフロビートはフェラの死後も、フェミ・クティやシェウン・クティらに引き継がれている。
映画[編集]
詳細は「ナイジェリアの映画」および「:en:Cinema of Nigeria」を参照
「アフリカ映画」も参照
年間に製作される映画の本数は約800本と、インドに続き世界二位である。人口10億人以上のインドとほぼ同数の作品が製作されているわけなので、人口比あたりの映画制作数では間違いなく世界一位である。製作される映画は英語の物と現地語の物がほぼ半分ずつだと言われている。
世界遺産[編集]
詳細は「ナイジェリアの世界遺産」を参照
ナイジェリア連邦共和国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。
スクルの文化的景観 - (1999年、文化遺産)
オシュン=オショグボの聖なる木立 - (2005年、文化遺産)
祝祭日[編集]
ナイジェリア出身の人物[編集]
詳細は「ナイジェリア人の一覧」および「:en:List of Nigerians」を参照
イブラヒム・アッボーラ・ガンバリ(国際連合事務次長、国際連合事務総長特別顧問)
アキーム・オラジュワン(バスケットボール選手)
オーガスティン・オコチャ(サッカー選手)
ホーガン・バッセイ(ボクサー。元世界フェザー級チャンピオン)
サミュエル・ピーター(ボクサー。世界ヘビー級チャンピオン)
ボビー・オロゴン(タレント、格闘家。現在は日本国籍)
アンディ・オロゴン(タレント、格闘家。ボビー・オロゴンの弟)
キザイア・ジョーンズ(ミュージシャン&ギターリスト。ブルースとファンクを融合させた『ブルーファンク』なるジャンルを提唱。アコースティックギターを超絶テクニックでスラップするそのファンキーなテクニカルプレー・音楽性はヴィジュアル系アーティスト雅や元祖渋谷系シアターブルックの佐藤タイジなどに多大な影響を与えた)
フェラ・クティ(ミュージシャン。アフロビートの創始者で「Black President(黒い大統領)」と呼ばれる)
シャーデー・アデュ(イギリスのバンド・シャーデーのボーカル、モデル。父はヨルバ人でイバダンの出身)
脚註[編集]
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1.^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
2.^ ナイジェリア大統領選めぐる暴動、死者500人超か(AFP.BB.NEWS)2011年04月25日13:53
3.^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p501
4.^ 「アフリカ 苦悩する大陸」ロバート・ゲスト著 伊藤真訳 2008年5月15日 東洋経済新報社 p136
5.^ 松本仁一『カラシニコフI』朝日新聞出版、2008年7月30日 p.177
6.^ IMF
7.^ 国民経済計算
8.^ 「ビジュアル データ・アトラス」同朋舎出版 p354 1995年4月26日初版第1刷発行
9.^ 「アフリカ 動き出す9億人市場」ヴィジャイ・マハジャン著 松本裕訳 英治出版 p108-110 2009年7月20日発行
10.^ E・カリ「多言語状況データベース ナイジェリア」、〈アジア・アフリカの多言語状況データベース〉東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
11.^ 中村博一「第13回「世界の教科書展」特集「ナイジェリアの教育と教科書」」文教大学教育研究所
12.^ 外務省
13.^ NHK-BS1「きょうの世界」2月10日放送回より
14.^ 戸田真紀子『アフリカと政治』、第5章「ナイジェリアの宗教紛争」
15.^ イスラム教徒らがキリスト教徒の村を襲撃、8人死亡 ナイジェリア 2010年07月18日 10:44 AFPBB
16.^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ni.html 2009年10月18日閲覧
17.^ 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12
18.^ a b 小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12
参考文献[編集]
岡倉登志:編『ハンドブック現代アフリカ』明石書店 2002/12
戸田真紀子『アフリカと政治 紛争と貧困とジェンダー』御茶の水書房、2008
牧英夫『世界地名ルーツ辞典』1989/12
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