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2014年02月06日

エジプト

エジプト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく)、通称エジプトは、中東・アフリカの共和国。首都はカイロ。

西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルと隣接し、北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。


国号[編集]

正式名称はアラビア語で جمهورية مصر العربية (ラテン翻字: Ǧumhūrīyah Miṣr al-ʿarabīyah)。通称は مصر (標準語: Miṣr ミスル、エジプト方言: [mɑsˤɾ] マスル) 。

アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形のミスライム (מצרים, ミツライム) となる。

公式の英語表記は Arab Republic of Egypt 。通称 Egypt。形容詞はEgyptian。

日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。通称エジプト。漢字では、埃及と表記し、埃と略す。この漢字表記は、漢文がそのまま日本語や中国語などに輸入されたものである。

歴史[編集]

詳細は「エジプトの歴史」を参照

古代エジプト[編集]





ギザの三大ピラミッド。




ヒエログリフ。
詳細は「古代エジプト」を参照

「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタに支えられて世界四大文明の一つである古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。

アケメネス朝ペルシア[編集]

3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前525年にアケメネス朝ペルシアに支配された。

ヘレニズム文化[編集]

紀元前332年にはアレクサンドロス大王に征服された。その後ギリシア系のプトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心のひとつとして栄えた。

ローマ帝国[編集]

プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国の属州となりアエギュプトゥスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。

イスラム王朝[編集]

7世紀にイスラム化。639年にイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝・イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝、マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。とくに250年間続いたマムルーク朝のもとで中央アジアやカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立した。

オスマン帝国[編集]

1517年にマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国のもとでもマムルーク支配は温存された(エジプト・エヤレト(英語版))。

ムハンマド・アリー朝[編集]





ムハンマド・アリー。
1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけにエジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人、ムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済・軍事の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。

イギリスの進出[編集]

1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、イギリスの進出を招いた。1882年にアフマド・オラービーが中心となって起きた反英運動(ウラービー革命)もイギリスによって武力鎮圧され、エジプトはイギリスの保護国となる。1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。さらにサアド・ザグルールの逮捕・国外追放によって反英独立運動たる1919年エジプト革命が勃発し、英国より主政の国として独立した。

独立・エジプト王国[編集]

大戦後の1922年2月28日にエジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。

エジプト王国は立憲君主制を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指すが、第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。

エジプト共和国[編集]

この状況を受けて1952年、軍内部の秘密組織自由将校団がクーデターを起こし、国王ファールーク1世を亡命に追い込みムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命(英語版)[2])、生後わずか半年のフアード2世を即位させ、自由将校団団長のムハンマド・ナギーブが首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年、国王を廃位し共和政へと移行、ナギーブが首相を兼務したまま初代大統領となり、エジプト共和国が成立した。

ナーセル政権[編集]





ガマール・アブドゥル=ナーセル。第二次中東戦争に勝利し、スエズ運河を国有化した。ナーセルの下でエジプトは汎アラブ主義の中心となった。
1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルのもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界・アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。しかし1961年にはシリアが連合から脱退し、国家連合としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年の第三次中東戦争は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。

サーダート政権[編集]

1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダートは、社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。1971年には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨ててエジプト・アラブ共和国に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切る上で、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。しかし、サーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、1981年にイスラム過激派のジハード団によって暗殺された。

ムバーラク政権[編集]





アラブの春で失脚するまで30年以上に渡り長期政権を維持したホスニー・ムバーラク
代わって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、イスラム主義運動を厳しく弾圧して国内外の安定化をはかるなど、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持した。ムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法は、ムバーラクが追放されるまで30年以上に渡って継続された[3]。

90年代には、イスラム集団などが、外国人観光客などを狙ったテロを起こした。1997年にはイスラム集団によるルクソール事件が発生している。1999年にイスラム集団は武装闘争放棄を宣言し、近年、観光客を狙った事件は起こっていない。

エジプト革命[編集]

詳細は「エジプト革命 (2011年)」および「2012年エジプト大統領選挙」を参照

チュニジアのジャスミン革命に端を発した近隣諸国の民主化運動がエジプトにおいても波及、2011年1月、30年以上に渡って独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱をまねいた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会に委譲された。同年12月7日にはカマール・ガンズーリ(英語版)を暫定首相とする政権が発足した。その後2011年12月から2012年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施されムハンマド・ムルシーが当選し、同年6月30日の大統領に就任したが、人民議会は大統領選挙決選投票直前に、選挙法が違憲との理由で裁判所から解散命令を出されており、立法権は軍最高評議会が有することとなった。

ムルシー政権[編集]

2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発した(2012年-13年エジプト抗議運動(英語版))。ムルシー政権は、政権への不満が大規模な暴動に発展するにつれて、当初の警察改革を進める代わりに既存の組織を温存する方向に転換。ムハンマド・イブラヒーム(アラビア語版)が内相に就任した2013年1月以降、治安部隊による政治家やデモ隊への攻撃が激化。1月末には当局との衝突でデモ参加者など40人以上が死亡したが、治安部隊への調査や処罰は行われていない[4]。なお、イブラヒーム内相は、国民が望むならば辞任する用意がある、と2月に述べている[5]。ムルシー政権は発足後約1年後の2013年7月3日、軍部によるクーデターによって終焉を迎えた[6]。なお、イブラヒームは、クーデター後に成立したベブラーウィー暫定内閣でも続投している。

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アラビア半島

アラビア半島(アラビアはんとう、アラビア語: شبه الجزيرة العربية‎)は、アジアとアフリカを繋ぐ場所に位置する西アジア南西の巨大な半島である。半島としては世界最大である。

紅海、アカバ湾、アラビア海、アデン湾、ペルシア湾、オマーン湾等に囲まれており、北の付け根はイラクとヨルダンにあたる。半島の南東方面にはルブアルハリ砂漠が広がっている。

政治的には、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、カタール、オマーン王国、イエメン共和国に分かれており、カタールとサウジアラビアの沖にバーレーンがある。

アラブ地域ではجزيرة(ジャズィーラ。「島」の意)に定冠詞を付けたالجزيرة(アル・ジャズィーラ)と言えば一般にアラビア半島のことをさし、「アラブ地域」の代名詞として慣習的に用いられる。


歴史[編集]
5世紀頃 商業発展し、マッカとヤスリブ(マディーナの旧称)を中心に栄える。
570年頃 マッカにイスラム教の開祖ムハンマド誕生。
622年 初期イスラム教団がマッカを離れ、本拠地をヤスリブに移す。ヤスリブは「預言者の町」を意味するマディーナ・アン=ナビー(略称:マディーナ)に改名。これをヒジュラ(聖遷)と称する。この年をイスラムの暦であるヒジュラ暦(1年を354日とする太陰暦)の元年とする。
630年 ムハンマドのマッカ入城。ムハンマド率いるイスラム軍がアラビア半島統一。
632年 ムハンマド死去。初代正統カリフとしてアブー=バクルが選出される。首都はマッカ。
661年 ウマイヤ朝成立。帝国の首都はマッカからウマイヤ家の本拠地ダマスカスに遷都。
10世紀後半 マッカを含む半島西部のヒジャーズ地方は、ファーティマ朝の保護下となる。
12世紀後半 アイユーブ朝建国。ヒジャーズ地方はアイユーブ朝の領土となる。





サウジアラビア紅海とホルムズ海峡過去インドへBassoraのペルシャの海、グジャラート、コモリン岬の海岸は'世界デジタル図書館からアラビアPennisulaを示す1707年からマップです1250年 マムルーク朝建国。ヒジャーズ地方はマムルーク朝の領土となる。
1517年 オスマン帝国のセリム1世、マッカ・マディーナの保護権獲得。
1802年 ワッハーブ王国がヒジャーズ地方に進出。
1818年 エジプト総督ムハンマド・アリーがワッハーブ王国を滅ぼす。
1824年 第二次サウード王国が建国。
1891年 第二次サウード王国が滅亡。オマーンがイギリスの保護国になる。
1902年 サウード家がリヤド奪還。サウード王国復興。
1915年 イギリスは来るべきアラブ反乱(アラブのトルコからの独立戦争)の支持を確約(フサイン=マクマホン協定)。
1916年 アラブ反乱勃発。ヒジャーズ王国成立。
1918年 イエメン王国独立。
1920年 オスマン帝国はセーヴル条約により、ヒジャーズ王国の独立を承認。
1924年 トルコ共和国でカリフ制度が廃止されると、ヒジャーズ国王フサインがカリフを自称。しかし支持を得られず孤立。ヒジャーズ王は長男のアリー・イブン・フサインに王位を譲り隠遁する。
1925年 サウード家のイブン=サウードがヒジャーズに侵攻。ヒジャーズ王国滅亡。
1931年 イブン=サウードがヒジャーズ=ネジト王国の建国を宣言。
1932年 ヒジャーズ=ネジト王国がサウジアラビア王国に改称される。
1951年 ガワール油田が生産開始。サウジアラビア王国に莫大な富をもたらす。
1971年 バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーンがイギリスから独立。
1991年 湾岸戦争勃発。
1996年 アルジャジーラ開局。
2010年 ブルジュ・ハリーファ竣工。

エジプト・シリア戦役

エジプト・シリア戦役(エジプト・シリアせんえき, 仏: Campagne d'Égypte et de Syrie )は、1798年から1801年までフランス軍がエジプト・シリアへ遠征した戦役である。単にエジプト遠征(仏: Expédition d'Égypte)ともいい、軍の名前から東方遠征[1]ともいう。

ナポレオン・ボナパルト率いる5万人のフランス軍は、マルタ島を経由して、エジプトはアレクサンドリア近郊に上陸した。途中ナポレオンの帰還後も、延べ約3年間に渡ってマムルーク軍や地元の諸勢力、イギリス軍、そして後に宣戦してきたエジプト・シリアを間接支配するオスマン帝国の正規軍とも戦った。

背景[編集]

ナポレオンがエジプトへと遠征したのは、大陸の制覇を進めるフランスにとって、海の向こう側にあって手を出すことができず、いわば目の上のこぶであったイギリスを牽制するためであった。インドに重要な植民地をもつイギリスは、植民地と本国とに連絡を取るに当たりエジプトを経由していた。そのため、エジプトを奪うことはイギリス本国とインド植民地、さらにインドと地中海の結びつきをなくすことができ、あわよくばインドの植民地を奪取することにもつながるため、戦略上重要と考えられた。

一方エジプトの側は、300年来オスマン帝国の統治下にあったが、長い統治の間にイスタンブルの帝国政府が及ぼす支配力は衰えを見せており、エジプトは24に分かれた県を知事として支配するマムルークの有力者(パシャ)によって実質上牛耳られていた。カフカスのチェルケス人などの非アラブ系の白人奴隷からなるマムルークたちは、奴隷戦士としてエジプトに連れてこられた外来の傭兵であったが、土着してエジプトの地元民を支配して勢力を持つようになった。フランスはこのマムルークの支配からエジプトの民衆を解放するとし、友好国[2]のオスマン帝国の正統な支配を助けるという名目を盾にエジプトに侵攻することとなった。

富国強兵

富国強兵(ふこくきょうへい)とは、国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策をいう。


中国[編集]

中国では、春秋戦国時代に諸侯の国が行った政策を「富国強兵」といい、『戦国策』秦策に用例が見える。この時代には各国が諸子百家と呼ばれる思想家たちから人材を登用し、騎馬戦術や戦車などの新兵器を導入して軍事改革を行った。また、『呉書』陸遜伝にも同様の記述がみられる。


日本[編集]

日本で明治政府の国策の基本を指すが、その使用の歴史は古く、江戸時代中期に太宰春台がその著作『経済録』で富国強兵を「覇者の説」と批判する儒学者を批判して、国家を維持・発展させていくためには富国強兵は欠かせないことを説いた。更に幕末期に入ると鎖国が原因で欧米列強に国力で大きな差をつけられ、これが安政の不平等条約を押しつけられて多くの苦難を味わうとともに、富国強兵が説かれることになる。ここで、重要なのは幕末期の段階で開国派・攘夷派を問わず、富国強兵の必要性については共通の認識が確立していたことである。攘夷論の理論的支柱となった水戸藩の水戸学においては、既に19世紀初期の藤田幽谷によって富国強兵によって外国と対抗する必要が唱えられていた。公家の岩倉具視も1867年に著した『済時策』で富国強兵を皇威宣揚のために必要な政策として説いている。開国派の間ででも1856年に出された海防掛岩瀬忠震の意見書において、海外貿易を振興して富国強兵を推進する必要が説かれ、老中阿部正弘も岩瀬の考えを採用する方針を立てた。また、1860年に横井小楠が著した『国是三論』も「富国論」「強兵論」「士道」の三論から構成されている。従って、明治政府の成立後に富国強兵が採用されたのは当然の流れであると考えられる。

明治政府は尊王攘夷派主導で確立された政権であったが、成立後は開国和親政策に転換するとともに万国並立・万国対峙を掲げて列強に国力・軍事両面で追い付くことによって条約の改正と国家の保全を目指した。そのため、西洋文明の積極的導入(「文明開化」)を推進し、地租改正や殖産興業で経済力をつけ(=富国)、徴兵制や軍制改革により軍備を増強(=強兵)することで国家の自立維持を図った。陸軍はフランス後にドイツを模範とし、同様に海軍はイギリスを模範とした。

やがて、日本の国力が一定水準に達すると、条約改正とともに列強と同様の植民帝国建設を目指すようになり、中国・朝鮮・南方への経済的・軍事的進出を模索するようになった。条約改正の達成と日清戦争・日露戦争の勝利が、これまで国家指導者や知識人の理論・目標に過ぎなかった「富国強兵」を一般の日本国民にも現実として認識させ、明治初期以来の「富国強兵」「文明開化」史観を定着させることになる。

北キプロス・トルコ共和国

北キプロス・トルコ共和国(きたキプロス・トルコきょうわこく、トルコ語: Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyeti; KKTC)、通称北キプロスは、キプロス島の北部の国である。1983年に軍事的な後ろ盾となっている隣国トルコの影響下で、キプロス共和国からの独立を宣言した。トルコ以外からの国家承認は受けていないが、キプロス共和国の実効支配は及んでいない。



1974年7月15日のキプロス共和国のギリシャ併合賛成派によるクーデターに際し、トルコ系住民の保護を目的に派兵したトルコ共和国がキプロス島北部を占領。キプロス全島からこの地域にトルコ系住民が移住し、ギリシャ系住民が南に逃れた結果、トルコ系住民が圧倒的多数派を占める北キプロスの版図が確立された。

トルコ系住民は、トルコの庇護のもと翌1975年にキプロス連邦トルコ人共和国を結成し、キプロス共和国の連邦国家としての再編成を要求した。これに対して、1970年代以来、国際連合の仲介により断続的に統合交渉がもたれているが、南キプロスがクーデター以前の体制の復活、北キプロスが南北キプロスによる対等な連邦国家樹立を要求しているため、決裂を繰り返している。進まない再統合を受けて、北キプロスは1983年11月15日に独立を宣言した。このため再統合は一層難航している状態にある。

2004年には国連が連邦制による再統合案を示して交渉を仲介し、南北同時住民投票を行ったが南側の反対多数により否決された。するとヨーロッパ連合 (EU) が北キプロスの経済支援を開始し、直接通商の解禁を表明して、北キプロスの実質上の国際社会復帰に向けた動きが起こった。

教皇

教皇(きょうこう、ラテン語: Pāpa[1]、ギリシア語: Πάπας Pápas[2]、英語: Pope)は、キリスト教の高位聖職者の称号[3]。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。

日本語では「ローマ法王」と表記されることもあるが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。

本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。



古代教会では「papa/πάπας[7]」というのは一般的な司教に対する敬称であったが、徐々にローマ司教とアレクサンドリア主教に限定される称号になっていった。今日も、ローマ教皇以外で公式に Papa/Πάπας という称号で呼ばれるのは、正教会(東方正教会)の(ギリシア・)アレクサンドリア総主教と、コプト正教会の首長である(コプト・)アレクサンドリア総主教だけである(両者は別組織であり、それぞれ別人を立てる)。

エウセビウス『教会史』によればアレクサンドリア主教に3世紀ごろから Papa/Πάπας の称号が用いられ、のち他の都市にも主教の称号として波及したが、やがてアレクサンドリア主教とローマ司教の二者にのみ用いられるようになった。これは当時の東方教会(東ローマ帝国領)と西方教会(西ローマ帝国領)のそれぞれ中心地であった。現在でも、正教会やコプト正教会ではこの習慣を守り、ローマ司教と自派のアレクサンドリア総主教の双方を Papa/Πάπας 称号の保持者とみなしている。

一方、中世以降のカトリック教会において、教皇は「ローマ司教」にしか使用せず、単に「教皇(Papa)」と呼べばそれはローマ教皇を意味する。なおカトリックでは「聖下」はかつてローマ教皇のみの敬称であったが、第2バチカン公会議以降、上記のアレクサンドリア教皇を含む東方教会の総主教などの高位聖職者にも用いている。

カトリック教会の公式な認定と関係なく教皇位を宣言する者を、対立教皇という。通常、対立教皇が生まれる背景には、カトリック教会内の論争や特定の教皇の正統性をめぐって紛糾する事態が存在する(教会大分裂)。対立教皇が多発した中世において、正統な教皇以外に教皇を名乗る人物が現れるのは、宗教だけでなく政治をもまきこむ大問題であった。

カトリック教会内で大きな影響力を持つイエズス会の総長は、かつて「黒い教皇」と呼ばれることがあった。これはイエズス会士が質素な黒いスータンを着ていたことと、教皇は常に白い服を着ることに由来している。

教皇庁の一機関である福音宣教省の長官(枢機卿)は「赤い教皇」と呼ばれることがある。この職にあるものはアジアとアフリカ全域の教会の責任者であるため、教皇に匹敵するほどの地位だという意味である。なお、「赤」は枢機卿の衣の色である。


ウィキペディアより転載

ムハンマド・アリー朝

ムハンマド・アリー朝は、19世紀初頭からおよそ150年間にわたってエジプトを支配した王朝(1805年 - 1953年)。駐エジプト・アルバニア人非正規軍の隊長ムハンマド・アリーがオスマン帝国主権下で総督(ワーリー)の地位を獲得したのに始まり、イギリスによる占領、オスマン帝国の形式的な主権からの離脱を経て、エジプト革命によって王制が打倒されるまで続いた。


ムハンマド・アリーの時代[編集]





緑と薄緑がムハンマド・アリー朝の版図、黄緑、斜線部分が一時的な占領地
ムハンマド・アリー朝を創始したムハンマド・アリーは現ギリシャ領北東部、マケドニア地方の港町カヴァラで生まれた商人だったが、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がエジプト侵攻を行ったのに対抗するためにオスマン帝国が徴募、派遣したアルバニア人非正規軍の将校のひとりとして参加し、侵攻にともなう戦乱状態を制して1805年にエジプトの住民によってエジプト総督に推挙された。エジプト州(英語版)は、オスマン帝国支配下の州でありながら長らくマムルークら在地の有力者による実効支配を受け半独立的状態にあったが、オスマン帝国の承諾を受けて正式に総督に就任したムハンマド・アリーはマムルークを撃滅してエジプトの支配権を全面的に掌握し、総督の強力な指導力に基づく政権を樹立して、ムハンマド・アリー朝を実質的に成立させた。

ムハンマド・アリーは軍隊の近代化、土地の国有化による輸出向け農業の振興、ヨーロッパの技術を導入した工業化など、イスラム社会における近代化政策をオスマン帝国本国に先んじて推進した。彼のもとでエジプトの国力は急速に増強され、軍事的な衰退著しい宗主国オスマン帝国にかわって1818年にはワッハーブ派がアラビア半島に興した第一次サウード王国を滅ぼした。1820年からは南のスーダンに侵攻し、スーダン北部をエジプト領に併合する。

1821年にはギリシャ独立戦争が本格化するが、オスマン帝国はこれを独力で鎮圧することができずエジプト軍の来援を求めた。独立阻止の目的は失敗に終わったこの戦争でエジプト軍はナヴァリノの海戦で大敗を喫するなど大きな犠牲を払ったが、ムハンマド・アリーは出兵の代償としてオスマン帝国にシリア地方の行政権を要求、これが果たされないと1831年、1839年と二度に渡ってエジプト・トルコ戦争(エジプト事件)を起こしてオスマン帝国に反旗を翻した。エジプト軍はシリアからアナトリアまで侵攻して武力でオスマン帝国にシリアの支配権を認めさせたが、エジプトの強大化を警戒するヨーロッパ列強の介入を受け、1840年のロンドン条約によってムハンマド・アリーの子孫によるエジプト総督の世襲権を認める代償としてシリアを放棄させられた。

シリア出兵の挫折はエジプトの近代化・富国強兵の限界をあらわにし、また列強がムハンマド・アリーに迫ってオスマン帝国が各国と結ぶ不平等条約(カピチュレーション)に基づき治外法権の承認、関税自主権の放棄、国内市場の開放を実現させたために、エジプトは列強の経済的植民地化の道を歩むことになった。

植民地化の時代[編集]

国際貿易に市場が開放されても、エジプトは豊かな農業生産力によって莫大な産出を誇る綿花が経済を支え、エジプト政府主導による近代化改革路線は形を変えて続けられた。19世紀半ばには土地の国有廃止が行われて地主制が浸透し、エジプト経済は綿花農業の利益に支えられて繁栄を極めた。また同じ時期、親ヨーロッパ的な2人の総督、サイード・パシャ、イスマーイール・パシャのもとでスエズ運河が建設され、列強にとってのエジプトの経済的・軍事的な重要性がさらに高まった。

しかし極度の綿花輸出への依存は経済をモノカルチャー化させ、それにともなってエジプト経済は外国の景気変動に極度に影響を受けるようになって不安定化した。またスエズ運河の建設はエジプト財政に過大な負担を強いることになり、イスマーイールによる過度の欧化政策にともなう出費とあいまって巨額の対外債務となってエジプトに跳ね返った。

1870年代、南北戦争が終結してアメリカ合衆国産の綿花が国際市場に大規模に流入すると国際綿花価格の下落が引き起こされ、エジプト経済は大打撃を受けた。外債は瞬く間に膨張し、1875年にはスエズ運河会社株をイギリスに売却することを余儀なくされた。翌1876年、エジプト財政は破産し、財政部門は債権者である列強の管理下に置かれることになる。

しかしエジプト財政の破綻は1881年、近代化政策にともなう軍隊、学校、マスメディアなどの発達がもたらした新しい社会階層による、エジプト史上初の民族運動を呼び起こした。エジプト生まれのアラブ人将校、アフマド・アラービー大佐を指導者としアラービー運動と呼ばれたこの革命運動は「エジプト人のためのエジプト」をうたい、オスマン帝国やトルコ人などの外来者を中心とするムハンマド・アリー朝の高官による政治支配や、ヨーロッパ列強諸国による経済支配を打破し、外国支配を排除して立憲制と議会開設を要求し、将校のみならず宗教指導者(ウラマー)、農村や都市の有力者たちを広く巻き込んだ国民運動に発展した。しかし運動がアラービーの陸軍大臣就任、憲法の制定に及ぶと、エジプト財政を支配する列強の介入を招き、1882年にイギリス軍がエジプトに上陸、革命を打倒した。これと同時期に、スーダンにおいてマフディー戦争が勃発し、スーダンはエジプトからマフディーの支配へ移行した(英埃領スーダン)。

イギリスはアラービーをセイロン島に流し、エジプトを軍事占領下に置いた。スエズ運河を通じて繋がったインドを植民地とするイギリスは、大英帝国の生命線であるエジプトの掌握に細心の注意を払い、オスマン帝国の宗主権とムハンマド・アリー朝の政府を温存する一方で、イギリス領事やイギリス人顧問によって実質上のエジプト政府支配を実現した。

立憲君主制期[編集]

1914年、第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国がイギリスと敵対するドイツ・オーストリアら同盟国の側に参戦すると、イギリスはエジプトにおける権益を守るためにエジプトの保護国化を宣言、オスマン帝国の名目的主権からエジプトを離脱させた。

これによりエジプトは正式にイギリスの植民地となったが、大戦後の1919年には民族主義者による大規模な独立運動が起こった。独立は失敗に終わるが、保護国支配の限界を理解したイギリスは方針を転換し、1922年にエジプトの独立を認め、エジプト王国を成立させた。

しかしエジプトは独立を達成したとはいえ、イギリス人の保護や軍事、通信、運輸などの分野でイギリスの特別な権利が保留され、またエジプト経済のイギリスへの依存は依然として深く、独立はほとんど名目的なものに過ぎなかった。翌1923年に憲法が施行され、エジプトはムハンマド・アリー朝の国王を君主とする立憲君主制に移行する。これ以降のムハンマド・アリー朝は、ヨルダンやイラクのハーシム家と同じように、列強によってオスマン帝国に代わる中東の政治体制として成立させられたアラブ諸国体制において、イギリスの意向を受ける支配者側の体制として存続することとなった。

立憲君主制期のエジプトでは、1919年の独立運動時に独立を求めた民族主義運動派がサアド・ザグルールらを中心にワフド党を結成し、これと王党派およびムハンマド・アリー朝王家との間の対立が政治を動かした。ワフド党はたびたび内閣を組閣して政権を担い、1936年には来るべき第二次世界大戦に備えてエジプトとの関係を改善したいイギリスとの間で同盟条約を結んでイギリス軍の駐留を縮小させることに成功した。しかしワフド党がこの条約でイギリスと妥協したことはイギリス支配の即時打破を目指す人々を失望させ、王制の打倒を含む革命をはかる急進勢力の誕生を促した。

ムハンマド・アリー朝の崩壊[編集]

大戦後の1948年に起こった第一次中東戦争での惨敗は、王制に対する支持を決定的に失わせるとともに、これまで改革派を主導してきたエジプト国民主義にかわってアラブ民族主義やイスラム主義に基づいて新しい国家体制を求める動きを活性化させた。

軍隊の内部でも、ガマール・アブドゥン=ナーセルを中心とする青年将校たちが戦争の敗因を王制に基づく政治の混乱と腐敗とみなし、体制転覆をねらう秘密結社自由将校団を結成した。

エジプト国内の急進的な動きは1952年には反外国人暴動に発展したが、王制はこれを収拾する能力を既に失っていた。この混乱の中で7月23日、自由将校団はクーデターを起こし、無血革命に成功した。翌1953年6月18日、革命政権はムハンマド・アリー朝の廃絶を宣言し、エジプトは共和制に移行した。

ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)

ヨハネ・パウロ2世(羅:Ioannes Paulus PP. II、英:John Paul II、伊:Giovanni Paolo II、波:Jan Paweł II、1920年5月18日 - 2005年4月2日)は、ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日)。ラテン語表記に基づきヨハネス・パウルス2世とも表記される。本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Józef Wojtyła)。

ハドリアヌス6世(オランダ出身、在位:1522年 - 1523年)以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラヴ系教皇。同時に20世紀中最年少で着座した教皇でもある。神学と哲学の2つの博士号を持っていた。

世界平和と戦争反対への呼びかけと、呼びかけだけにとどまらない数々の平和行動の実践し、母国ポーランドを初めとする民主化活動の精神的支柱としての役割も果たした。生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示を行い、また、宗教間の問題に温和な態度で臨み、他宗教や文化との対話を呼びかけたことは宗教の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、多くの信者・宗教関係者から尊敬されている。

ウィキペディアより転載

オスマン帝国の君主

オスマン帝国の君主は、オスマン家の成員によって世襲され、20世紀初頭まで広大な版図を誇ったオスマン帝国に君臨した。

君主は初代オスマン1世の父エルトゥールルの代から「ベイ」(君侯)の称号を帯びていたが、3代ムラト1世の代には「スルタン」を自称した。これ以降、オスマン帝国の君主は「スルタン」と呼ばれることが多い(日本語では「皇帝」、または「スルタン」と表記されることが多い)。また、公式には「ハン」、「シャー」、「地上における神の陰」、「両聖都(マッカとマディーナ)の守護者」、「パーディシャー(大王あるいは皇帝の意)」など、様々な称号が用いられていた。加えて一部の君主は、東ローマ帝国の継承者として「ルーム・カイセリ(ローマ皇帝)」の称号も用いていた。

19世紀には、「オスマン帝国の皇帝は、世俗の軍政の最高権力を持つスルタンの職権と信徒の長としてイスラム世界全体に精神的影響力を持つカリフの職務権を併せ持つ」とされ、「スルタン=カリフ制」の理論が形成された。しかし、元来はクライシュ族のみがつけるカリフ位にトルコ人のオスマン家がついたことには批判も見られた。



Wikipediaより転載

テュルク系民族

テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 英語: Turkic peoplesまたはTurks、 トルコ語: Türk、 ロシア語: Тюрки)は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。

ウィキペディアより転載
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