2011年07月07日
高鍋(財部)城=日向国児湯郡
高鍋(財部)城 ※延宝元(1673)年までは財部城と称した。
日向国児湯郡財部(のち高鍋)に所在した中世〜近世の城郭。
中世初期の築城。築城者は財部土持氏かその一族と思われる。
城主は土持氏→伊東氏→島津氏→秋月氏と変遷した。
高鍋城堀跡
高鍋城石垣
古代以来の日向の豪族・土持氏は、古代末〜中世には、土持七頭と称して、有力な7氏の土持支族があった。
鎌倉時代初期に、日向に下向した関東御家人・伊東氏は、平和的手段(婚姻等)や、武力行使によって、古代以来の日向の名族・土持氏の勢力圏を侵蝕し、次第ニ勢力圏を拡大していった。
長禄元(1457)年、伊東祐尭は、財部土持氏と、小浪川に戦い、勝利を収めた。土持景綱は、新名爪(宮崎市)六十町を与えられることを条件に、開城して、新名爪別符に移った。
伊東氏の領有に帰した財部城の守将は、落合氏であった。
元亀三(1572)年、伊東氏と島津氏は、日向支配をめぐって、真幸(まさき)盆地で衝突(木崎原の戦)し、伊東氏は大敗し、有力武将の多くを失い、ついに、昔日の勢力を回復することができず、天正五(1577)年、伊東義祐は、その一族とともに、大友氏を頼って豊後に去った。
島津氏の領有に帰した財部城の守将は、鎌田筑前守政心であった。
天正十四(1586)年、大友宗麟は、九州制覇を目前にした島津氏の圧迫に抗しきれず、豊臣秀吉に助けを乞うた。
天正十五年四月六日、豊臣秀吉軍(日向口の総大将は羽柴秀長)は、耳川を渡って、財部城を落し、さらに、高城を囲んだ。
同四月廿五日、島津義久は、戦力の相違を悟り、降伏した。
豊臣秀吉の九州仕置後、秋月種長が、日向櫛間院・新納院を宛行われ、初め、種長は櫛間院に入り、慶長九年、財部城に入った。
延宝元年、財部を高鍋と改めた。
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日向国児湯郡財部(のち高鍋)に所在した中世〜近世の城郭。
中世初期の築城。築城者は財部土持氏かその一族と思われる。
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鎌倉時代初期に、日向に下向した関東御家人・伊東氏は、平和的手段(婚姻等)や、武力行使によって、古代以来の日向の名族・土持氏の勢力圏を侵蝕し、次第ニ勢力圏を拡大していった。
長禄元(1457)年、伊東祐尭は、財部土持氏と、小浪川に戦い、勝利を収めた。土持景綱は、新名爪(宮崎市)六十町を与えられることを条件に、開城して、新名爪別符に移った。
伊東氏の領有に帰した財部城の守将は、落合氏であった。
元亀三(1572)年、伊東氏と島津氏は、日向支配をめぐって、真幸(まさき)盆地で衝突(木崎原の戦)し、伊東氏は大敗し、有力武将の多くを失い、ついに、昔日の勢力を回復することができず、天正五(1577)年、伊東義祐は、その一族とともに、大友氏を頼って豊後に去った。
島津氏の領有に帰した財部城の守将は、鎌田筑前守政心であった。
天正十四(1586)年、大友宗麟は、九州制覇を目前にした島津氏の圧迫に抗しきれず、豊臣秀吉に助けを乞うた。
天正十五年四月六日、豊臣秀吉軍(日向口の総大将は羽柴秀長)は、耳川を渡って、財部城を落し、さらに、高城を囲んだ。
同四月廿五日、島津義久は、戦力の相違を悟り、降伏した。
豊臣秀吉の九州仕置後、秋月種長が、日向櫛間院・新納院を宛行われ、初め、種長は櫛間院に入り、慶長九年、財部城に入った。
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