父の司馬談の遺言を受け、紀元前104年前後から編纂に着手し、中途で李陵の事件に連座して宮刑に処せられたが、その屈辱を克服して執筆を続け、前91年ごろにはいちおうの草稿を完成したものと考えられる。
それまで中国では、儒教の経典として重きをなした『尚書』『春秋』『詩』『易』『礼』のほか、春秋から戦国時代にかけての思想家の著作である諸子百家が存在し、いずれも専門の学者によって伝承され解釈されてきたが、全部を統一して古代から漢までの歴史を書いたものはなかった。
司馬遷はそれぞれの対立する学派の立場を離れて古来の典籍を自在に利用し、加えて、宮廷に残っていた豊富な史料と広い見聞に基づき、本紀、表、書、世家、列伝という独特の諸形式によって総合的に記述することに成功した。
とくに彼が創始した本紀、列伝などのように性質の異なった歴史記述の仕方を併存した総合史の形式は紀伝体とよばれ、班固の『漢書』に受け継がれて、以後の諸王朝の官撰の正史の標準となった。
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B2%E8%A8%98-72527
原文?
https://books.google.com/books/download/%E5%8F%B2%E8%A8%98.pdf?id=C02il4HdNSYC&output=pdf