アフィリエイト広告を利用しています

2022年09月02日

和田合戦

建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見、その折に和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が捕縛される。
義盛は三浦を含む一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請したが、胤長は首謀者格と同等のため許されず流罪になる。
一連の御家人の乱では北条氏に味方し、比企能員の変では将軍だった頼家から北条氏討伐の密命を受けながらも、思慮の上でこの密書を時政に献じている。
3月8日(3月31日)、鎌倉へ戻った義盛は将軍に一族の赦免を嘆願、義盛の多年の勲功に免じて子の義直・義重は赦免され、まずは義盛の面目は立った。
罪人となった胤長の鎌倉の屋敷は没収されることになり、25日(17日)、義盛は罪人の屋敷は一族の者に下げ渡されるのが慣例であると将軍に乞い、これは許され、義盛は久野谷彌次郎を代官として屋敷に置いた。
27日(19日)、事態を憂慮した実朝は宮内兵衛尉公氏を義盛の屋敷へ送り、真意を問いたださせた。
北条義時は山内荘、美作守護を手に入れ、大江広元は武蔵国横山荘を与えられた。
義時は義盛に代わり侍所別当を兼任し、それまで兼任していた政所別当と併せて幕府の実権を掌握し、執権体制の確立に努める。

https://ja.wikipedia.org/wiki/和田合戦






この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/11571118
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
ファン
検索
<< 2024年10月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール