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2020年02月18日

家畜化されて胆力はない

「真正面から誠実に・・福島と沖縄」で、
江戸時代の例を出し、「胆力をつけなければならない」と
言っていますが、
今の日本人には宗教心がなく家畜化されているので、
胆力はなく、また胆力をつけることは出来ないです。

教育は、受験、スポーツで勝つことだけを教えています。
負けることを教えないから、「福島と沖縄」になります。
負けることが分かったら、他人に思いやることが分かります。

ひろさちやさんの「究極の人生論」というのがありました。

勇気のない人間は「奴隷」という。

「お母ちゃんはあんなお客さんに頭を下げているのと違うねんで、お金に頭を下げているねんで」

どちらでもいいことは、どちらでもいいんだよ。
ところがそういう時人間は、論理で決めようとする。どちらでもいいことは、論理では決められないのにな。
相談するのもダメ。うまく行かなくなったときに、その人を恨んでしまうからだ。

経済的には日本はもう滅んでいる。政治的にはとっくに滅んでいる。そして社会的にも滅んでいる。教育現場は混乱し、犯罪も自殺者も増えている。

言葉を換えれば、これは資本主義の崩壊だ。突出した資本主義国家は、日本とシンガポールぐらいしかない。米国にしても、フランスやイギリスにしても立派な農業国だからだ。

このところ、中国の食料自給率が落ちている。米国から食料を買っているから、中国は米国と戦争できない。食料自給率が低い資本主義国家は、日本とシンガポールくらいなのだ。それで国がもつわけがない。もう日本は、もっと家族を大事にする農業国家に生まれ変わるしか道はない。

宗教のない人間は、私は家畜だと思っている。私が思う宗教とは、「人間としての生き方を教えるもの」、ときには「人間としての生き方を強制的に押し付けるもの」だ。

今の日本人は、ときに「無宗教です」とか、「無心論者です」とか言う。それは、「私は人間としての生き方をしてません」ということを表明していることになる。では、そういう人は何かといえば、エコノミック・アニマルなんだ。持っている物差しはお金、それで畜生的な生き方をしている人たちだ。

葬式というものには三つの役割がある。
一つは死体の処理、もう一つは死んだ人間の魂の処理、最後が遺族の心の処理。
死体の処理は、宗教とは全く関係がない。

キリスト教徒とイスラム教徒は、ちっとも対立などしていない。対立をしているのは、似非キリスト教徒と似非イスラム教徒だ。戦争をしたがるのは、いつだって利権に目がくらんだ金持ちと政治家だ。

多くの日本人には自分のことを語る能力に欠けている。私たちは、どうもそれを磨いてこなかった。私自身も反省を込めて言うことだけど、「自分の気持ちは誰にも分かってもらえない」「女房にわかるはずがない」などと、人はよく言うね。でも違う。自分の気持ちが一番分からないのは、自分自身だ。

友達とはどういう存在か。たとえて言えば、その人間の借金を全部肩代わりしてやれる人間だ。その人間が困っているときは、自分の全財産を投げ打っても救ってあげる人間だ。しかも、相手も同じ気持ちでなければ友達とは言えない。極端に言えば、命だって投げ出すことができる関係が親友関係だ。
そんな友達はそうはいない。だから人間は皆、孤独なんだ。メル友は、友達ではないんだ。日本人はそのところを凄く誤解している。

ジェントルマンシップにおいては、ギャンブルも嗜みなんだそうだ。ただ彼らは負けることを承知で、「オレはこんな負けには動じないぞ」という胆力を養うためにギャンブルをやるという。
誰が言っていたが、「ゆっくり負けるのを楽しみながらギャンブルをやる」んだ。そういう人生は素晴らしい。

『負けを承知で共に戦うのが、あるべき家族の姿』

人の生き方を変えたければ、まず自分が変われ。

いじめは競争社会につきものだということがわかる。だとすれば、競争社会を止めさせない限り、いじめはなくならない。
少なくとも、義務教育の段階では競争をやらせるなと言いたい。だから、何につけ一切点数をつけない。評価しない。
ただし、高校以上は好んで進学するのだから、徹底的に点数をつけて、点数が足りなければ落第させる。温情主義はご法度である。
いずれにせよ、競争社会はいじめを伴うのだから、いじめはあるのだと思って欲しい。

我々の本質は、老いであり、死なのだ。老いつつあるのが人間なのだ。そうだとすれば、より老いた年寄りの義務は、若い者に老いの惨めさをできるだけ示してやることだ。

嘘をついて、本質を見誤らせてはいけない。嘘の情報に翻弄されてしまえば、そのときなって慌てる。

世の中の人や、政府は、年寄りは皆、はつらつ老人でいてほしいと期待を寄せている。そのほうが国は手間がかからないし、お金もかからない。マスコミも、こぞって「はつらつ老人」を特集する。
そんなことに騙されるな。
もっともっと、老いの惨めさを、赤裸々に示さなければいけない。それが年寄りの慈悲というものだ。
老人には、しょぼくれて生きる権利がある。しょぼくれて、ケチョンケチョンになって生きる権利がある。


武田邦彦先生の本


徳島県 鳴門市

鳴門市といえば「鳴門海峡の渦潮」!!
 イタリアのメッシーナ海峡、カナダのセイモア海峡とならんで、世界三大潮流のひとつと言われています。潮流の速さは大潮時には時速20km以上にもなり、日本一の速さと言われています。さらに渦の大きさは世界最大級と評されています。
 轟音をたて逆巻く渦に吸い込まれそうなスリルを体感したいなら「観潮船」で、渦潮を真上から眺めるなら「渦の道」でお楽しみいただけます。
 鳴門海峡の速い潮流にもまれた「鳴門鯛」は、こりこりした歯ごたえの引き締まった身と適度な脂のりが特徴の一級品です。春は、「桜鯛」、秋は「紅葉鯛」と呼ばれ一層おいしくなります。
 また、鮮やかな緑色が特徴の「鳴門わかめ」も渦潮を生み出す激しい潮流により育まれたものです。最近は「鳴門わかめのしゃぶしゃぶ」が人気で、舌の上で踊るような瑞々しい新わかめの食感は「シャッキリぽん」という感じで爽やかです。
鳴門市は、1918年6月1日。徳島県鳴門市にある板東俘虜(ふりょ)収容所でドイツ兵捕虜によって、ベートーヴェン「第九」交響曲がアジアで初めて全曲演奏されました場所です。
 初演の背景には、収容所所長である松江豊寿をはじめとする、職員の捕虜に対する人道的な処遇や、捕虜と地元民との国境を越えた心温まる交流など、まさに「第九」が持つ人類愛の精神を体現した史実がありました。
 その精神は現在でも市民を中心に受け継がれ、毎年6月第一日曜日に開催している「第九」演奏会をはじめ、ドイツ・リューネブルク市との姉妹都市交流、友好のコスモス交流など、多くの活動が行われています。
 「第九」アジア初演。またその背景にある戦争の最中、国境を越え育まれた友好の絆。そして今なお鳴門市民に引き継がれている「第九」やドイツ兵捕虜が残してくれた財産。これらが、「なると第九」の原点であり、他の「第九」にはない鳴門市固有の財産であるとともに、こうした背景を持つ「なると第九」は、鳴門市から世界に発信すべき誇りでもあります。
 写真は、鳴門市とドイツとの友好の絆を顕彰する「ドイツ館」の完成を祝し、初の野外演奏会を行った、第13回ベートーヴェン「第九」交響曲演奏会の様子です。
 こうした出来事を背景に、鳴門市では、2018年6月1日に迎える、「第九」アジア初演100周年記念を大きな契機ととらえ、戦略的に「なると第九」のブランディングに取り組むとともに、板東俘虜収容所に関する史実を継承し、友愛の精神とともに平和の尊さを広く発信していくため、ユネスコ「世界の記憶」登録を目指し、様々な施策を実施しています。

鳴門市 ふるさと納税

「徳島県 ふるさと納税」の検索結果

宿泊 徳島県
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