人生って本当に何があるか分からないですね。これから暫くこの数ヵ月
あった事を書いて行きたいと思います。
まわりくどいのも嫌なのでまずアメリカ式に結論から・・
実は、5月12日に13年間連れ添って来た奥さんと離婚しました。。
ゴールデンウィーク前(4月末)辺りに離婚の話が出てから離婚届け提出
まで僅か2週間程度で13年の幕を閉じました。
あっけないものですよね。たった1枚の紙切れで人生を大きく左右される
訳ですから。
家族構成ですが自分:34歳/元妻:33歳/長女:11歳/長男:9歳/次女:3歳
でした。
離婚後は元妻が子供を引き取り、両親と次男夫婦が同居している実家にて
生活をする事になりました。
転勤で東京(会社)に行ってたのですが、家族との思い出満載の千葉での
生活が苦痛に感じ、千葉のアパートを引き払い、実家のある大分へ戻して
貰う為、上司に相談。6月中旬に話も纏まり今は無事、大分の職場でせっせ
と働いてます。
なぜ離婚の話となったかですが、4月末に運命を左右する1本の電話があり、
この電話により大きなうねりが発生。
J(元奥さんの事を今後これで表現します)のお父さんが倒れて救急車で病院
に搬送されたとの連絡あり。元々お父さんは糖尿病や胆石でよく入退院を繰り
返しており、結構弱ってました。
自分は、高校の時に父親は癌で死亡。未だに忘れもしないのは、親父が息を
引き取る前、苦しそうに何度も悶え続け、モルヒネを打って少し落ち着いた時
、心拍数を伝える機械の冷たい音が静寂の部屋に鳴り響いていた。
徐々に弱まる心拍数。。。本当にこれが最後と思った瞬間に放った言葉が
「後は俺に任せておけ」でした。その後、親父はにっこりと笑い息を引き取り
ました。
この一言を伝えた事と親の死に目に会えた事が自分の中では非常に大きく、
だからこそ今、後悔が無いのだと思ってます。
Jにも絶対後悔させてはいけないし絶対死に目に合わせてあげたいという一身
でチケットを購入しその日のうちに福岡の実家に帰省させました。
その2日後、かみさんから1本の電話。お父さんは無事持ち直したらしく少し
元気になったと聞き安心しました。ただ、いつもと様子が違いその後、母親に
電話をかわって話をしていて違和感を感じ始めました。
今度、千葉に話し合いにいくという内容でした。何のこっちゃ??
何故か離婚する話をしに来る様な言い方だったので、Jとかわって貰い、再度
会話しました。数時間会話したんですが、既に気持ちが固まっている事でこの
ままでは埒があかないと思った自分は翌日、福岡のJの実家に行きました。
そこにはJの両親/長男夫婦/次男夫婦/自分/自分の母親/自分の妹2人という
豪華出席者を元に会話開始。ただ、既に臨戦態勢の向こうの家族に対し、
無防備な我が家。。
ただ行く前にある程度覚悟は出来てた。自分の経験上、女の人が離婚を決断
する迄には凄い我慢をしてたはず。
悩みぬいてだした結論だと思う。決めた時の女は凄く、さばさばしてて次に
走り出した時には振り返らない習性をもっているという事は、過去の恋愛での
経験から自分が考えている女性像であります。
男は逆に言われるまでは彼女がどういう事で苦しんでるか分からなくて言われて
初めて気付くからいつまでも引きずってしまう・・・これが自分の男という
滑稽な生き物に対しての思いです。
離婚のきっかけは実家に帰ってから母親に同居してた時の嫁姑の事や今までの
結婚生活での愚痴をぶちまけた時に
「もう離婚しなさい!」
と言われた一言だったにせよそういう思いになるまで理解してあげれなかった
自分を責めた。
Jには非は無い。今もこの気持ちは変わらない。
Jの気持ちに変わりはないと感じた瞬間に子供の事を第一に考える事に頭を切り
替え会話して行きました。
Jの母親はとにかく自分の言う事が一番正しいと考えてるスーパー理不尽な方
です。
自分の思った通りに動かないと嫌な人で自分の考えてる通りに動けば絶対に
間違い無いんだと考えられているお方です。
この13年間で少しは自分の気持ちも理解して欲しい、10回言われて1回でいい
から受け入れて欲しいという思いがありましたが、その考え方では駄目なんだ
と7年掛かって全てをJの母親に合わせる事にしました。
すべては子供やJの為でした。
そういう母親だという事を身をもって知ってるからこそ、逆らわず子供の事
だけを考え向こうの結婚してからの愚痴を延々、2時間近く自分の家族は殆ど、
はむかう事無く聞き続けました。
自分の子供への思いを察してくれたのか、うちの親も黙って愚痴を言われ
続けてくれました。本当に感謝してる。
この母親で良かったし、この母親の子供として産まれた事を誇りに思った。
この日、初めは子供と合わせないつもりだったらしく「会いたくない」と子供は
言ってるの一点張りでした。
しかし、長男の奥さんは子供の本当の気持ちを察してくれ、「本当にいいの」と
影で聞いたら子供達が号泣したという話を後から聞いて本当に胸が張り裂けそう
だった。
長男の奥さんのファインプレーもあり、なんとか無事、子供達に会う事ができ、
少しだけ胸の内を子供達に伝える事が出来た事でほっとした。
離婚する事が決まってからのJの母親の動きは素早かった。
子供やJの住所を千葉の市役所に直接電話してから抜き、転校の手続きも小学校
に電話してあっという間に完了させ(わずか2日程度)次にかみさんから電話が
掛かった5/3だったと思うが、母子手当の手続きをしたいから離婚届を送るから
書いて送付して欲しいという電話だった。
ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ
恐るべし、気持ちの切り替え。。
本当に未だに長女には申し訳無いと思うのは、ゴールデンウィーク明けが修学
旅行だったのだが転校してすぐ全く知らない子供達に混ざって行かせてしまった事。。
これがあったから転校や住所移動を焦っていたみたい。でもそこまでして修学
旅行に行かせる事が本当に良かったのか?は疑問であるし本当に心が痛い。
ただ自分も揉めるつもりもなく、あの母親が一度決めた事を覆す気力もなく、
又、Jの気持ちを一番に尊重したかった事やこじれると子供達にも合わせて貰え
なくなる可能性もあり、言われるがままの離婚劇でした。
ただ、後々揉めない為にも離婚届を書く前に決めておかないといけないと考え
離婚協議書なるものを作成しました。内容は、親権・子供との面会・財産分与
・その他借入金についての取り決めでした。
離婚が完了したら入院をする事を決めており、5/11にJと会い、ジョイフルで
離婚協議書・離婚届を書き、離婚届を提出する5/12には大分の丘の上病院と
いう心療内科に入院しました。
何故、心療内科なのか?そこはまた次回のブログ等で報告させて頂きます。
当面は、本来趣旨の食べ歩きと全く違うネタが書かれてると思いますが、
そこはお許しくだされ
次回食べ物ネタが記載された時が復活の時なのかもしれませんね
その日が早く来る事を祈りつつ・・〓