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♪〜
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Happy Wesak Day B.E.2563
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ウェーサーカ祭記念ビデオ タイトル「五蘊の観察」〜慧の修習〜
0:27
五蘊とは我々の命を構成している 「身体と心」のことです
0:40
「生きてる、命がある」という場合「色」 即ち物質のエネルギーシステムが観えてきます
0:50
その身体の中で「受想行識」という四種類の 心のエネルギーシステムが働いています
0:57
命あるものに五種類の エネルギーシステムの働きがあるのです
1:13
しかしそれらは何かを目指して流れるわけではなく
1:19
複雑に組合わさった相互作用の働きです
1:26
それらの現象は長持ちしません シャボン玉のようにすぐに壊れてしまいます
1:35
シャボン玉はとても綺麗ですが
1:40
ちょっとしたことで直ぐに壊れてしまいます
1:57
それ故に現象は執着に値しない という意味にもなります
2:07
これらがノンストップで絶えず起こり続けることが 「生きている」ということなのです
2:24
タイトル 五蘊の観察 プロローグ 第1章/五蘊の観察 @色蘊の観察A受蘊の観察 B想蘊の観察C行蘊の観察D識蘊の観察
2:33
第2章/五蘊に無我を観る 第3章/五蘊観察の勧め
2:40
プロローグ 身体と心
2:57
一般的に心と言っているのは 受想行識という四つの機能のことです 受想行識は一体に働きます 分離不可能です
3:10
@色蘊 色とは物質、Rūpa のことで 色蘊は 色 Rūpa の集まり(蘊・システム)です
3:23
A受蘊 受とは「感覚」「感じること」で 受蘊は 受 Vedanā の集まり(蘊・システム)です
3:32
眼耳鼻舌身意にデータ(色声香味触法)が触れて 常に何かを感じて生きています
3:40
感覚というエネルギーが働いているのです 物質の世界ではなく 心の世界のことです
3:51
B想蘊 想とは「知識・概念」のことで
3:57
想蘊は想 Saññā の集まり(蘊・システム)です
4:06
C行蘊 行とは心の衝動、感情のエネルギーのことで 行蘊は52種類の心所から[受・想]を除いた
4:15
50種類の心所の集まり(蘊・システム)です
4:29
D識蘊 識とは認識する機能のことで ただ知る(識)という機能 識の集まり(蘊・システム)です
4:48
第1章 五蘊の観察
5:00
眼に何か触れた(Phassa)としましょう
5:07
それを感じます 受 Vedanā 感覚です
5:12
「感じた」とは触れたことを知ったのです
5:20
知ったことは識蘊です
5:25
何が触れたのかをはっきりさせる働きは想蘊です
5:38
同時にそれに対してどうするのかという エネルギーも生まれます 行蘊です
5:53
受蘊・想蘊・行蘊は発見しやすいので先に観察します
6:01
バラを見て視覚として何かを感じることが感覚で
6:08
「きれいなバラだ」と認識するのは眼識です
6:23
その「きれいだ、バラだ」という区別判断をするための情報や価値基準が想です
6:37
想を使って眼識が識別します
6:43
このプロセスが恐ろしい速さで起こります
6:55
受想行識はずうっと終わることなく 生まれては消えてゆきます
7:12
五蘊は因果法則によって現れる現象の流れです
7:24
それは因縁によって一時的に成り立つ 常に変わる現象です 従って無常です
7:43
「怒った」という場合 それは現象であり 何か原因や条件が無かったら怒ることはありません
7:52
「楽しい」という場合も原因や条件がなかったら 楽しくはないのです
7:59
ですから怒ることも楽しいということも現象です
8:05
考えることも現象です 何もなかったら考えませんし 何かがあって初めて一時的な現象が現れます
8:21
このように心も身体も現象です
8:39
五蘊を構成する色Rūpa 心Cittaや心所Cetasikaは
8:53
それぞれ固有の特性によって厳密に作用しあって 現象を作り出しています
9:05
心を清らかにして執着を捨てて 解脱に達したいと思うならば
9:14
「いったい現象とは何か」と 明確に理解する必要があります
9:28
その五種類のエネルギーシステムが
9:35
どのように生まれて どのように消えていくのか
9:44
色受想行識のそれぞれの機能を 区別して観察します
10:07
五蘊の観察 @色蘊の観察
10:16
赤ちゃんは僅かな細胞の集まりです
10:25
お胎の中の一個の細胞が どんどん分裂して増えて大人になります
10:32
Nāma は心の働きであり Rūpa は物質の働きです
10:48
この二つの働きの組み合わせで 生きるということが成り立っています
11:05
細胞の分裂には「相続」の特色が強く働きます
11:15
分裂した二つの細胞は
11:22
前の細胞によく似ています ほとんど同じです
11:33
だから私たちは「同じ生命である」と誤解するのです
11:43
そこに「魂があるとか、永遠不滅の何かがある」と 誤解してしまいます
11:58
実際には波・エネルギーが絶え間なく働いて 変化しているだけです
12:08
相続が分からないから
12:16
「変わらない我」「永遠の魂」だと勘違いします
12:22
しかし相続する度に老化もしています
12:38
人間に無常が分からないのは 全ての現象には
12:46
無常性(Rūpassa Aniccatā )の他にも 積集性( Rūpassa Upasaya )
12:52
相続性( Rūpassa Santati ) 老性( Rūpassa Jaratā )
12:58
という三つの在り方を含んでいるからです
13:08
ヴィパッサナー瞑想の経験のない人にとっては
13:18
身体というのは固体であって我が身であって 大事なものに見えます
13:30
しかし「これは身体だ、これは私だ」と 観察しても正しい実践にはなりません
13:46
Rūpa も集まり(蘊)で観ると
13:53
身体が変化していることは、よく解ります
13:59
「我が身」という気持ちは無いのです
14:09
心 Citta の所縁は世俗諦ではなく 勝義諦のものでなければ真理にはなりません
14:16
条件の変化によって本質が 変わらない物を対象にします
14:22
そうすると生まれては消える
14:28
決して止まらないエネルギーの 流れとして観えてきます
14:48
つまり身体ではなくて 色 Rūpa として観るのです
14:54
「色 Rūpa がどのように生まれるのか」
15:00
「どのように変わって行くのか」を観るのです
15:06
痛みがどこかで生まれたら
15:14
身体全体に広がってしまって 「もう終わりだ」と思ってしまうものです
15:22
しかしそれは普通の人の反応であって ヴィパッサナー実践では感覚の発生源を探します
15:46
「ここから痛みが生まれてくる」と 痛みのスポットを確認することで 痛みの感覚が無制限に広がることを妨ぎます
15:52
ただ痛みを淡々と客観的に確認して
15:58
沸き上がってくる主観的な感情は放っておきます
16:08
そうすると「痛みはあるけれど 別に大丈夫だ」ということで 心は落ち着くのです
16:32
五蘊の観察 A受蘊の観察 命とは何か
16:44
命とは「感じること」です
16:53
宇宙空間には無限の物質の世界がありますが
16:59
それと別に「感じる」という 何か機能があるのです
17:09
物質とは関係ない「感じる」機能 それが命です
17:29
宇宙の中で物質とは別な ただ感じるだけの プログラムが働いています
17:34
この「感じる」という機能があったことで
17:41
膨大な生命の世界が現れました
17:58
私たちの肉体は元々は地球の土です
18:04
地球の土が太陽から受けたエネルギーで働いています
18:10
感じることが成り立つためには「触・触れる」 ということが必要です
18:15
眼に何か触れると感覚が生じて 「見える」ということが起こります
18:30
生きるとは「触れてPhassa・感じるVedanā 触れて・感じる」の繰り返しです
18:35
だから感覚が命という幻覚を作ります
18:51
感覚を研究すれば真理が観えてきます
18:57
「感じると、また感じたい」という意欲が出てきます
19:04
だから終わりにならないのです
19:15
「感じる」ということから膨大な世界が生まれます
19:25
「感じるとはどういうことか?」と 調べることから解脱への道が始まるのです
19:43
五蘊の観察 A受蘊の観察 何故ありのままに 知ることができないのでしょうか?
19:55
感覚に価値判断を入れると
20:00
苦・楽・不苦不楽に分かれます 価値判断を入れるのは生命が行っています
20:16
物事を「好き・嫌い・面白くない」と 三つに分ける判断が煩悩を引き起こします
20:29
心は知る機能です 知る機能である心の働きが碌なものでないので
20:41
すべての生命は「知ったつもり」でいますが 「ありのままに知る」ことは全くないのです
20:52
見たもの 聞いたもの 嗅いだもの 味わったもの 身体で感じたもの 考えたものについて 好きか嫌いか判断します
21:03
感覚に執着があるから貪瞋痴で対応します
21:11
そうすると楽(快楽)な感覚を期待するし 探し求めます
21:25
私たちはいつでも「いい感覚はないか」と探します もし、好きだと執着し、欲を抱き
21:35
嫌いだと怒りや憎しみの感情を抱きます
21:43
そして私たちは欲や怒りなどの 煩悩をつくって悩み、苦しみのです
21:49
その結果 満足できないので 生き続けたいと思うのです
22:00
生に対して強い渇愛が生じます
22:07
その原因は感覚を放っておけなかったからです
22:28
五蘊の観察 A受蘊の観察 感覚から渇愛が生まれる
22:44
眼で何かを見てこれはキレイだと感じても 長く見ていると飽きてしまいます
22:53
もし飽きなかったら渇愛が 意門に、妄想に入っているのです
23:04
感じたものが苦だと受け入れたくない 嫌だという渇愛が生まれます
23:14
感じたものが楽だと もっと欲しいという 渇愛が生まれます
23:23
それがわかると「感覚に依って渇愛」が起こり
23:30
「渇愛に依って苦楽」が生まれるのだという 智慧が生じます
23:46
修行する人は さまざまな感覚を観察してみます
23:58
眼耳鼻舌身意に 色声香味触法が触れると感じます
24:08
感覚は 苦・楽・不苦不楽という三つに分けます
24:18
執着しても得るのは「苦」だけです
24:29
苦しみが生まれたら 「あ、何か期待があったのだ」と気づきましょう 期待があったということは執着があったのです
24:40
しかし期待通りには行かなかったということです
24:53
悩み苦しみが起きるたびに 「執着はどこにある?」と自問してください
25:00
悩み苦しみをなくす必要はありません
25:07
生きること自体が苦ですから それは放っておけばいい話です
25:26
感覚を研究するべきです 感覚を研究すれば真理が観えてきます
25:34
感覚はその都度 勝手に生まれるだけ
25:41
自分に管理できないのだと そういう事だと… だから期待するのはおかしいと…
25:49
色声香味触法の情報に触れても 愛着を抱くことも 対立することも止めて そのまま「放っておくこと」を訓練します
26:03
過去の無明や業はもうどうしようもない
26:08
ですから 放っておくしかないのです
26:16
今 できることは業を作らないことだと…
26:37
人からひどいことを言われても それを受け取らなければ怒りは生まれません
26:46
心が それを、放っておくことができれば 悩みは消えてしまいます
26:53
好みが生まれてきても そこで執着が生まれないようにする
27:00
感じた感覚は苦であれ 楽であれ 不苦不楽であれ 自然な流れだと思って 放っておけばよいのです
27:12
要は「感覚のところで止める」ということ
27:17
感じるだけ感じて 放っておく
27:31
「感じたものに対して欲が起こらないように
27:39
感じたくないものに対して怒りが生じないように」と 六根を制御するのです
27:51
生じた感覚を受け入れるか 拒否するか どちらにも存在欲が割り込んでいます
28:03
ですから 生老病死が勝手に流れるようにして
28:14
それに対しては期待・希望・願望・執着を 抱かないように訓練することです
28:20
六根に絶えずデータが触れるので
28:27
解脱に達するまで気づき sati を 休んではいけないのです
28:37
比丘たちよ たとえば、秋の時節にどしゃ降りの雨が降り 水面に水泡が生じ また消えるとします
28:45
そこで眼をそなえた人がそれを見 静観し正しく観察します
28:51
それを見 静観し正しく観察する彼には
28:59
それがただ空虚のものに見えます
29:05
ただ空無のものに見えます
29:10
ただ実体のないものに見えます
29:17
比丘たちよ どうして水泡に実体があるのでしょうか
29:25
比丘たちよ どうして五蘊に実体があるのでしょうか
29:46
五蘊の観察 A受蘊の観察 捨てることの完成
30:00
気づきを実践する人は
30:07
眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れて 認識作用が起こる過程を そのまま確認します
30:18
触れたら「放っておく」という訓練をすると
30:23
無執着の能力がつきます
30:28
それが出来るようになると
30:34
貪瞋痴をかき回す意味がなくなるので
30:41
ありのままに現象を認識できます
30:57
瞬間、瞬間気づきの sati を実践して 現象の流れを「放っておける」ようになったら
31:02
もう存在欲は絶たれています
31:20
生老病死という恐ろしい危険な現象が四つあって
31:27
それが生きることです
31:38
しかしそれは新たな現象が生まれるだけの 本来の苦です
31:46
でもこの苦は本当は大した事ではありません
32:04
だから余計な悩み・苦しみの原因となる 執着さえ捨てれば激流は渡れます
32:14
苦・楽・不苦不楽を更に観察してみると
32:22
それは曖昧で主観的であると発見します
32:34
或る時は「苦」と判断したものが 「不苦不楽」になったり
32:41
又「楽」と判断したものが「苦」となったり様々です
32:51
集中して気づきの実践をすると
32:57
このような判断自体が曖昧だと分かります
33:15
更に詳しく観察して「感覚」という二言にします
33:23
ミクロ的にあるのは「感じる」という 一つの働きだけです
33:28
それを発見した人がさらにミクロ的に観察します
33:41
そうすると感覚が絶えず瞬間、瞬間 生じて滅するという流れを発見します
33:46
瞬間しか存在しない感覚は
33:54
判断にも、執着にも値しないと発見します
34:02
ということは 感覚自体も虚しいものです
34:11
不安・不満をつかさどる瞬間の出来事です
34:24
その人は最終的に感覚を「苦」として観るのです
34:32
それは、最早「苦しい」と言う意味の苦ではなく
34:38
四聖諦で説かれる「苦という真理」です ミクロ的に観察する人は最終的に感覚を
34:53
「無常」だと発見したり「苦」だと発見したり 「無我」だと発見するのです
35:08
無常・苦・無我のいづれか一つになります
35:14
その人は「解脱の門」を開こうとしています
35:35
「放っておく」ということは 真理が分っていない人には出来ません
35:41
分るべき真理とは内の世界も 外の世界も幻覚であって
35:48
その瞬間、瞬間に生まれては消えていくものであって
35:54
実体はないということです
36:00
その真理を経験していないと受けた情報を 放って流すことができないのです
36:14
どうしても受け入れるか、 拒否するかという反応をしてしまいます 感覚の観察は欠かせない訓練です
36:39
五蘊の観察 B想蘊の観察
36:50
「私」という想への執着
36:58
マインドコントロールや偏った価値観も 解脱への障害となります 真理を発見する心の自由がないのです
37:13
ブッダの教えを理解するためには
37:19
信仰も先入観もいりませんが
37:24
バイアスのかかっている「偏見」や
37:35
社会的、文化的な「マインドコントロール」 は障害になると理解します
37:47
自己観察を始めて発見する自分は
37:53
どうしようもない だらしない優柔不断の自分です
38:00
汚れた思考で支配されている自分です
38:09
ですから自己観察は勇気がいる作業です
38:20
汚れた自分を発見するたびに「これを無くすように 気をつけなくては」という気持ちが働きます
38:35
私たちは思考の自由を大事にするならば
38:44
やるべきことはバイアスのかかった 心の基準を捨てることです
38:53
ただ ありのままに起きている現象を観察します 如理作意が仏教の基準です
39:07
「自ら確かめる」ことは仏教を 理解し実践する上での核心です
39:20
俗世間で意欲をつくるのは簡単です 欲か怒りを刺激するだけです
39:30
しかし、それだと感情に任すことになるので 良い結果にはなりません
39:39
「皆が信じているのなら真理になる」 というのは成り立たない話です
39:48
バイアスをなくして初めて 「理性」のある人間になります
40:06
人間に生まれたならば 人間にしかできない能力に挑戦すべきです
40:18
心を執着とマインドコントロールから 解放するように励みます
40:26
人間の思考とは貪瞋痴の汚物を かき回しているだけです
40:35
思考を止めて「生きるとは何か?」と 五蘊を観察しましょう 思考を止める訓練をするのです
40:49
捏造を止め ありのままのデータを 受け取れるようにします
40:57
同時に思いやりや慈しみの心を育てます これも人間の特権です
41:16
身体・心に何かがふれると感覚が生じます
41:24
感覚が生じた瞬間に想が生じます
41:33
要するに今触れたのは 「何の感覚だろうか」と認識します
41:41
感覚がある限り想も同時に起きてしまうのです
41:56
想蘊が与える苦しみはあまりにも大きいのです
42:07
人々は自分の考え 自分の意見 自分の主義 自分の信仰などに執着します
42:16
世の中にある対立というものは すべて概念の対立です
42:25
怒りは自分の基準から生まれるので 想の問題です
42:32
しかも それと「私」を同一視して執着します
42:38
昔の失敗 受けた被害などを思い出して
42:47
過去の苦しみが再現されて自分を苦しめ 生きる力もなくなります
42:57
心の勝手な回転をストップさせることは難しいので この苦しみから逃れられません
43:13
想も滝のように どんどん変化する流れで
43:22
そこに「私たるもの」 「私という実体」は見つかりません
43:29
概念の回転も自然法則なので 放っておけばよいのです
43:47
五蘊の観察 C行蘊の観察 何が生命を生かしているのか?
44:04
行 saṅkhāra というのは行動的に 「やりたい、やりたい」と 出てくるエネルギーのことです
44:09
私たちは いつも何かを考えています
44:15
何かを考えずに おられないのです
44:27
心の中に考えるという衝動を引き起こす 嫌なエネルギーが溜まると
44:33
そこから抜け生出すことはできません
44:40
何かをやることが 生きることなのです
44:47
ですから やらずにおられない衝動が生まれます
44:55
呼吸を観察すると 行蘊の働きが簡単に分かります
45:04
一回吸ってしまったら どうしても吐きたくなるのです
45:20
どんな生命を観察しても 皆 必死になって何かをやっています
45:25
そうでなければ 生きていられないのです
45:30
何かをすると同時に「次はこれ、次はこれ」と
45:38
際限なく「何かしたい」という衝動が現れます
45:48
「何もやりたくない」という 落ち込む気持ちさえも 「何かをやりたい」という マイナスのエネルギーなのです
45:56
その場合は落ち込みたいのです
46:08
●何が生命を生かしているのですか?
46:13
「渇愛が生命を想像します 心が生命を生かしています
46:20
生き続ける生命は 苦しみから 逃れることができません」
46:27
渇愛とは「生き続けたい」という欲望のことです
46:36
生命を創造しているのは 神様や外部の権威者ではなく
46:43
他でもない 自分自身の渇愛なのです
46:52
渇愛がある限りは 苦しみから逃れることができません
46:57
それなりの訓練 理解能力 智慧があれば
47:07
簡単ではありませんが 渇愛は制御できるのです
47:27
五蘊の観察 D識蘊の観察 知っていることは 正しいか
47:41
知ることがなければ 何も起こりません
47:49
知る機能を発見することは 識 viññāṇa の観察です
47:56
修行者は最初は難しいと感じるかも知れませんが
48:02
やってみると それほど難しくはありません
48:08
発見できるようになります
48:16
識蘊の発見が難しいのは
48:21
受想行識が同時に生まれるからです
48:35
同時に生まれても受想行識の機能は互いに違います
48:44
この四つはいつでも複合体になって一緒に働きます
48:59
私たちの心は主観で覆われています
49:06
私たちが知っているのは その幻想のことです
49:18
自分が知っていることは正しいと思うことが 煩悩と苦しみの原因です
49:25
私たちは ありのままに見ないで
49:31
「意」のなかで解釈して幻想をつくっています
49:39
生命は知ったつもりでいますが
49:51
ありのままに知ることは全くありません
49:59
お釈迦さまは それを「無明 avijjā」と名付けられました
50:05
解釈、判断、幻想化することをしないで
50:10
直接 ものを知ることができる能力を 「明 vijjā」と名付けられました
50:34
五蘊の観察 D識蘊の観察 思考・妄想はストップ
50:52
思考・妄想を止める方法は 思考・妄想が現れたら直ちに気づくことです
51:04
それでその人は思考しても現在思考で 思考に愛着・執着を作りません
51:14
正しく思考できるのは そういう実況中継が できる境地に達した人だけです
51:22
大切なことは・欲に染まった思考 ・怒りに染まった思考はストップする ・認識対象に入り込まない・妄想しない
51:34
思考が何かに引っかかったら 放っておくのではなく 妄想にならないように潰す
51:44
これらが難しい場合は意図的に
51:53
慈しみに関わる思考 離欲に関わる思考 他の生命を思いやる思考などで 意根を埋めます
52:09
第2章 五蘊に無我を観る
52:27
肉体はずーっと変化しつつ流れる 色 Rūpa からなる 蘊・システムです それは NāmaRūpa が因縁によって
52:38
それぞれ独自の特性に従って 作用し合った結果 現れる現象に過ぎません
52:56
そこに変わらない「私たるもの」 「私という実体」は見いだせません
53:11
心も 瞬間、瞬間 変化生滅しながら ダイナミックな滝のように
53:19
流れて変化し続ける蘊であって
53:30
そこに変わらない「私たるもの」 「私という実体」は見いだせません
53:48
結局あるのはただの 色の流れ 受の流れ 想の流れ 行の流れ 識の流れ だと正しく理解します
54:04
これらは因縁法則に従って 「流れている」現象であって
54:11
自分も居ないし 他人も居ないし 何もないのです
54:23
結局 生命はただの「色受想行識」だと 解ってしまいます
54:31
眼耳鼻舌身意に色声香味触法の所縁が衝突して 六識が生起・生滅します
54:49
そして NāmaRūpa が生まれ そこから膨大な渇愛の6つの流れが生じます
54:56
それが「生きる」ということです
55:11
しかしそのミクロの現象の速さは 私たちが識別できないほど速い
55:25
「私がいる、魂がある」と誤解するのはこのプロセスをありのままに正念正知できないからです 「存在=無常」であり「ある=無常」なのです
55:38
●無我相経
55:43
比丘たちよ もし五蘊が我であれば
55:54
『私の五蘊はこのようになれ』 『私の五蘊はこのようになるな』と言い得ます
56:02
しかし比丘たちよ 五蘊は無我であるから
56:10
『私の五蘊はこのようになれ』 『私の五蘊はこのようになるな』と言い得ません 『五蘊は常であるか、無常であるか?』『無常です』
56:22
『それでは無常であるものは苦でしょうか それとも楽でしょうか』『苦です』
56:31
『それでは無常であり 苦であり 変化の法であるものを
56:48
これは私のものである これは私である これは私の我である と隋見することは ふさわしいでしょうか』 『ふさわしくありません』
57:07
第3章 五蘊観察の勧め
57:19
お釈迦さまは生きることに意義があるのか? 生きることはどういうことなのか?
57:27
と智慧で観察されました
57:35
答えは「何も見つかりません
57:41
ただの空っぽ」ということが分かったのです バカバカしいと…
57:59
私たちは思考妄想で貪瞋痴で
58:06
つまり無明によって ものごとの 本当の姿が見えていません
58:23
モノは存在する モノに実体がある 私は存在する 私という実体がある 霊魂がある 魂がある などの誤解に陥ります それで自我という錯覚を作っているのです
58:38
存在欲というのは自分がいるという 錯覚があるから生まれるのです
58:48
自分がいるという錯覚と感覚への執着から 楽な感覚を追いかけています
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渇愛とは探し求めるエネルギーです
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渇愛のせいで施名は「探し求める」 という事に明け暮れてます
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皆すごいこと 尊いこと 大事なことを 探し求めていると思っていますが 探し求められる対象は
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すべて色声香味触法に限られます
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今の瞬間に満足していない 不満を感じているから 探し求めることになります
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そのように生きる人々には両極端にも 中間の極端も超えることは不可能です
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私たちの恐怖感というのは存在欲から出てきます これは避けられません
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すべて無常だから それ故に存在欲が出てきます
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死ぬのが怖いのではないのです
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生きることが怖いのです 生きること自体が苦なのです
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渇愛があるから いくら生きていても満足出来ない
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最後にみじめに死ぬしかありません
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大切なものは何も見つからないまま途中で ゲームオーバーになって死んでしまいます
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渇愛・煩悩・執着にやられて生きているからです
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だから「私は何者なのか」と発見しなくては いけないのは苦があるからなのです
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お釈迦さまは「生きること自体が矛盾(苦)であると 発見してはどうでしょう?」と提案されたのです
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それが発見できれば全ての生命にある
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不安 悩み 落ち着きのなさ 精神的な曖昧さが消えます
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自我の錯覚があるから 自分を守ることができなのです
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自分を管理できないのです すべて錯覚の所為なのです
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この誤解によって 執着が生まれ心が汚れます
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不安が心から消えるのは どのような場合でしょうか?
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答えは簡単です 自分が消えた時なのです
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執着がなければ情報に動揺されません
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諸々の動揺が消滅するならば もはや苦しみが生ずることもありません
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だから執着を捨ててみなさい ということになります
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恐怖感を感じるためには 「自分」という幻覚が必要です
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しかし元々「私」はいないのです
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私がいないなら存在欲は貪瞋痴は 成り立ちません
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私がいないなら情報が触れるだけで 動揺は起こりません
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人間は「なぜ生きるのか」ということを知りません
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「なぜ生きるべきか」を発見すれば
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曖昧に中途半端に疑問と不安だらけの生き方が たちまち消えて しっかりします
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まだ死んでいないから 生きている生き方と
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目的があって生きている生き方は 同じにはなりません
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ですから渇愛をなくして解脱することを 「生きる目的」にするべきです
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ブッダの教えに納得すれば 必死で努力すべき有意義な目的が現れます
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まとめ
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感覚は無常だから絶えず楽を探すことになります
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それで根源的に渇愛が生じる
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すべての生命は渇愛によって苦しみを味わっている
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だから誰ひとりも幸福な人がいない
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私たちの生も苦 無意義なものとなっている
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渇愛で生きるとは輪廻の悪循環に囚われていること
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渇愛を滅する=解脱=涅槃に達する =最高の幸福に達する=生きる意義がある ヴィパッサナー実践こそが唯一の道です
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以上、長老の法話から編集しました 監修 アルボムッレ・スマナサーラ長老
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編集 三幡正美 音楽 Imee Ooi 宇宙写真 NASA 日本テーラワーダ仏教協会
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お釈迦さまは 私たちが 誰にも束縛されることなく
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自分自身の力で 完全たる自由を 実現できる方法を 説かれました
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ウェーサーカ祭は お釈迦さまの 生誕・成道・般涅槃をお祝いする祭りです
1:08:24
人類に初めて智慧の眼があらわれた月です
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三宝のご加護がありますように