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尖閣問題(中国名、釣魚島デャオユダオ)もなんのその


 前回更新からほぼ一年ぶりの更新となってしまいましたが、私ダイキチは今日も中国・杭州の濱江にて彼女、その姉、姉の夫、夫の母、姉夫婦の子供(ヤヤ、上の写真の子です)と一緒に生活をしております。

 本日10月10日の中国・杭州は、雲ひとつない見事な晴天だった。
 僕は午前中の仕事を終えて、自分の部屋に戻ると彼女から頼まれていた米の買出しに行くため服を着替えた。姉夫婦は仕事に出ているだが、彼らの部屋のドアが閉まっていた(通常、我々の部屋のドアは欧米のトイレと同じで誰もいないときには開け放っているのだ)。どうやらおばさん(夫のお母さん)とヤヤ(姉夫婦の子供)が昼寝をしているようだ。できるだけ大きな音を立てないようドアを閉め、階段をリズミカルに降りる。
 通りを渡ったところに小さな商店があり、入り口のガラスには「転譲」という紙が貼ってあった。どうやらこの店(テナント)を売りに出すようだ。店に入ってすぐの場所にあるはずの米袋が見つけられなかったので、「まあ、あの貼紙があるから品数が減ってるかもしれないな」と早合点。レジのおばさんに米の在り処を訊ねると、「ほら、ここだよ」とすぐ目の前から引っ張り出した。失礼な誤解に勝手に恐縮しながら、僕は自分の近視がますます悪くなるのを感じた。
「いくら?」
「46元だよ」
 財布から50元札を取り出し差し出す。すると、
「1元持ってないの?」
 僕はぼんやり財布の中身を調べ、「あ、あった」とコインを渡す。するとおばさんは当然のように5元札の釣りを渡した。
「あれ?」
 ぼけっとしていた僕は、そのお釣りの意味を理解できずおばさんに自分の差し出した金額を確かめた。
「50元渡したじゃないの。だからお釣りの5元でしょうが!」と多少呆れ気味でおばさんは答え、僕は再び恐縮して米を担いで帰った。

 部屋に戻り、手洗いうがいついでに足を洗っている最中に、物音が聞こえた。どうやらおばさんとヤヤが起きたようだ。
「ヤヤがお腹が空いたって起きてね」とおばさん。去年から一回り大きくなり、今では僕のことも「トゥトゥ(叔叔shushu)」とおじさんという意味の中国語をまだ未熟な発音だが言えるようにもなった。
 彼(ヤヤ)は僕のことが日本人であるということはもちろん知らないし、もしかしたら男か女かってこともまだ認識がないのかもしれない。いまこうして雑文を書いている途中も、ヤヤの楽しく遊ぶ笑い声が隣室から聞こえてくる。数分前には、おばさんに匙で食べ物を口に運んでもらいながらも、僕とひとしきり拳銃ごっこで楽しんだ(幼児お馴染みの永遠に続くかと思えるような反復遊び。もちろん僕が敵役でヤラレ役だ)。その遊びが実に楽しく、僕は本当に参ってしまうのだ。

 しかし今僕らはこうして楽しく遊んでいるのに、数年後ヤヤがあるとき冗談でも「小日本」とか「日本鬼子」とかの蔑称で僕のことを呼ぶんじゃないかと考えてしまうことがある。そしてその想像はいつも僕は不安にさせ、とても悲しい気持ちにさせる。『ライ麦畑で捕まえて』のホールデン少年ではないが、この姉夫婦の子供と遊んだり、一緒に暮らしていると、「お金なんかクソっくらえだ」よろしく、僕も「尖閣問題なんかクソっくらえだ」と吐き捨てたくなってしまう。まったく、嫌になってしまう。

 こんなふうに(どんなふうだ?)反日デモからすでに半月が過ぎ、杭州はひとまず「日本尖閣購入」以前のような一応の落ち着きを取り戻している。彼女と外へ買い物に出ると、店内の客の会話で洒落として「蒼井そらは世界のもの、釣魚島は中国のもの…」という言葉を耳にしたり、また別の場所では「釣魚島は中国のもの」と書かれた赤い横断幕を目にすることもあるが、僕としては、立派に正しく愛情を持った中国人の家族たちとともに、無事に生活しているのです。

ばあちゃんちを訪れるも

 久しぶりにばあちゃんと一緒にお酒を飲もうと、僕は仕事から帰ると荷物を部屋に放り投げ、財布を持って113番のバスに乗った。このばあちゃんはなにも僕と血縁関係にあるばあちゃんではなく、ひょんなことから知り合いになった、中国人のおばあちゃんなのだ。

 僕は以前「農民房」に住んでいて、その大家の母親がこのばあちゃんだ。しかしばあちゃんの住む部屋は大家のそれとは大きく異なり、階段を登ったすぐそこの、窓もなく風通しの悪い小さな一室なのだった。大体6畳近くの広さに、ベッド、テレビ、衣類ダンスが置かれ、シャワートイレが付いている。普通、大家の母親なら仕事の必要もなく、のんびりと隠居生活を送ると僕は思うのだけれど、このばあちゃんはまだ現役で仕事をしているのだ。その仕事はゴミ拾いだ。

 ゴミ拾い。ペットボトルやダンボールや紙や本や雑誌、テレビ、扇風機、電化製品、指輪、ゴミ箱などなど、ばあちゃんは朝早く起きて住まいの近くをゴミを拾いに歩いて回る。そして夕方にも同じように歩いて回る。この回収したゴミを、業者に量り売りして小遣い稼ぎをしているのだ。

 前回ばあちゃんの部屋を訪れてからすでに半年が経とうとしている。そろそろ一緒にばあちゃんとお酒を飲みたいなと彼女に言うと、ぜひ行って来いという。彼女も一緒に行かないかと誘うと「行ってもいいけど、たくさんご飯を食べさせられるから、先に行ってて。頃合いを見て遅れて行くから」と、引越し前に訪れた時、これでもかこれでもかとたらふく食事をさせられたことをしっかり覚えているようだった。

 そして当日。彼女は急な残業でばあちゃんのところへは行けなくなった。実のところ、僕はばあちゃんと二人で飲みたかったので、気が楽になった。ばあちゃんと彼女とお互いに気を使い合っている様子をみると、逆に僕が気疲れしてしまうのだ。

 彩虹城というバス停で降りる。近くの聯華スーパーは改装中。天寓マンションの藍江スーパーもその日は改装中だった。珍しいことだ。僕は江南大道近くにある小さな店で白酒を2ケース、紹興酒を1本、お菓子を3つ買って、僕が以前住んでいた「農民房」へ歩いた。

 1階の入り口には鍵がかかっている。「貸し部屋あり 大家連絡先」という入り口の張り紙を見て電話をするも、「おかけになった電話は、現在電源が入っておりません…」。なかなかものごとはスムーズには進まないようだ。

誰か住人が帰ってくるのを待っていると、幼児が二人、ドアの前で仲良く遊び始めた。1歳過ぎだろうか、幼児の一人が玄関マットで。横たわり、顔の下に紙切れを敷いて僕を見ている。それを見たもう一人の幼児、2歳ぐらいだろうか、その子も紙切れを敷いて横になってしまった。不衛生なんだけどな、と僕は思いながらも幼い子供たちをじっと見つめる。すると一方が笑い出し、もう一方もつられて笑い出した。そして僕も一緒になって笑った。2歳ぐらいの幼児がまた笑うと、今度はもう一方が再び笑い出した。なんなんだこの二人は、と僕もまた笑う。そうこうしていると、彼らの母親が来て、大きい方の幼児が連れて行かれ、「あんなところで寝ちゃダメでしょっ!」と尻を叩かれ説教をされ始めた。紙切れもあっさり捨てられ、お約束通り、その幼児は泣いてしまった。母親と目が合ったのだが、それが僕を責めるようなものでいささか気まずくなっていると、建物のドアが内側から開いた。住人の女性が出てきたのだ。そこで僕もその場から逃げるように「農民房」へと入ることができた。

階段を登り、ばあちゃんの部屋のドアをノックする。返事がない。再びノックをする。同じく返事はない。もしかして、まだ外でゴミ拾いに出ているのだろうか? まあそれならこのお土産は大家に預けて帰ればいいだけのことだ。僕は同じフロアにある大家の部屋をノックする。「誰?」と返事があり、ドアが開く。僕の挨拶に大家の表情がほころぶ。

「ばあちゃんがまだ帰ってないみたいだから、これ渡してもらって良いですか?」
「ばあさんは今ここに住んでないよ。近くの弟のところに住んでてね」

「え〜〜っ!!」と日本語で驚き、申し訳ないねえと遠慮する大家に、この白酒をばあちゃんへ渡してくれるようお願いしをして、僕はこの「農民房」を外に出た。

 帰り際、ばあちゃんに会うことは出来なかったが、僕の心はそれはそれで晴れ晴れとしていた。彼女に電話をかけ、「ばあちゃんは今大家の弟のところに住んでるって」と言うと、彼女は電話越しでおかしそうに笑い出した。僕もまたそれを聞き、おかしくなって自然に笑いが出た。

僕の中国のばあちゃん

 僕には中国のばあちゃんがいる。僕はばあちゃんの名前を知らないし、ばあちゃんのほうでも僕の名前を知らない。ばあちゃんの訛りのある発音と僕の聴解力のせいで、ばあちゃんが何を言っているのかわからないことはよくある。ばあちゃんのほうでも「この男は一体何を言っているんだ?」と困った表情を浮かべていることはよくある。けれど、僕はときどきばあちゃんの部屋を訪れ、狭い小さな部屋で一緒にテレビを見ながら白酒や紹興酒を飲むことがあるのだ。

 引越しをする以前に、僕は濱江にある「農民房」という出稼ぎ労働者や大学生などの住む安アパートに住んでいた。僕はそこで月500元の家賃を払って暮らしていたのだが、ある晩友人とバー(酒吧)に行った帰り、僕はほろ酔い気分で一人大通りから「農民房」の並ぶ通りへと入った。時刻は深夜2時をまわっている。路地は薄暗く、「こんな時間に出歩くヤツが悪いんだ!」とでも言うように電灯がぽつりぽつりと、砂や土をならしただけの道の上を照らしていた。

 ふらりふらりと歩いていると、薄っすらとした視界の先に人の気配を感じた。目をすぼめてよく見ると、誰かが何かを背負って歩いているのがわかった。その歩く速度からどうやら僕と同じ方向へ進んでいるようだ。肩に竹のようなものを掛けて、その両側に何やら大きな荷物のようなものを提げている。僕は酔っ払ってはいるものの、意外と冷静に「こんな時間に仕事だなんて大変だなあ…」とその労働者に同情した。僕は「農民房」に住んではいるが、日本へ帰ろうと思えばいつでも帰ることができる。しかしこの「農民房」に住む人たちは、自分の生活レベルは自分で変えることしかできないのだ。地元の人間でもない限り仕事を選んでいる余裕などない。そんなことを考えながら歩いていると、背後の足音に気づいたのか、労働者は道の端に寄って僕に道を譲った。僕はすっと身体を動かし彼を追い越し、道先にあった僕の住む「農民房」の扉へ鍵を差し込んだ。

「開けててくれ」

 扉を閉めようとすると何かが後ろから聞こえた。声のほうへ振り返ると、労働者が荷物の先を閉じようとした扉に近づけていた。同じ「農民房」の住人だったのかと扉を大きく開ける。すると扉の明かりで、労働者が階下に住む老婆であることがわかった。

「何で!? 何やってんの!!」

 僕は思わず大きな声で言った。僕はそのときすでに老婆と面識があったのだ。老婆は近所に住んでいて、ときどき近くを暇そうに散歩しながら捨ててあるペットボトルを集めていたのだ。僕もたまに出会ったときは、「ちょっと待ってて」と部屋へ戻ってペットボトルを袋に入れて、日本のお菓子なども入れて渡したものだ。そんなときはいつも「あぁ、ありがとう。アンタは本当に良い人だ!」と僕に何度も礼を言ってくれた。「僕が日本人だって知ったらもっと驚くかもしれないな」などと考えたりして楽しんだりもした。その老婆が、なんでこんな時間に、こんな仕事をしてるんだ!?

 或いはお酒がまわっていたからかもしれない。小柄な老婆は皺だらけの顔を真っ赤にし、肩に掛けた荷物は捨てられていたダンボールで今日は大収穫なんだと僕にうれしそうに説明する。その様子に僕は怒りのような悲しみのようなものが込み上げてきた。そして自分がこんな時間に酒を飲んで帰ってきたことが申し訳なく、恥ずかしくもあった。「早く部屋に戻って休みなよ」と言うと僕は我慢できずすぐに部屋に入った。ただやるせない気持ちになるだけだった。なんであんな年になって、こんな時間に仕事をしなくちゃいけないんだ? なんだってこんなにも苦労しなくっちゃいけないんだ? ばあちゃんが何したっていうんだ?

 それから僕は老婆の住む部屋を訪れるようになった。一人暮らしのばあちゃんの部屋に白酒や紹興酒を提げて訪れたり、日本から送られてきたホッカイロや時には米を手土産に訪れたりした。すると「晩御飯はもう食べたのか?」「腹は減ってないか?」とばあちゃんは僕を夕食に招待してくれるのだ。僕はそれを有り難く受ける。そんな時はそれこそ「このまま死ぬんじゃないか」と言うほど夕飯を食べさせられ、白酒を飲まされることになる。ばあちゃんは顔を赤くし、実に美味しそうに白酒を飲むのだ。今の彼女と付き合うようになり、ばあちゃんと一緒に酒を呑む機会が少しずつ減っていくと、「お前の女房は悪い人じゃないか?」「騙されてるんじゃないか?」「お金をよこせって言わないか?」と、思わず吹き出してしまいそうになるぐらい僕のことを心配してくれるのだ。78才になるばあちゃんは、僕のことを実の子供のように大切に気遣ってくれる。

 11月も中旬にさしかかり、寒気がじわじわと足元をさすり出した。今週か来週にでも白酒をぶら下げて、久しぶりにばあちゃんのところへ行ってみようと思う。「お前の女房は悪い人じゃないか?」「騙されてるんじゃないか?」「お金をよこせって言わないか?」と、僕の事をまた大げさに心配し、暖かく迎えてくれるかもしれない。

宿題、スカーフ、制服、IQ測定



 11月2日の「東方夜新聞」というニュース番組で、最近中国で起きている教育に関する興味深い放送があった。それは、「誰が子供を差別化しているのか?」というものだった。以下にその大体の内容を記します。


 現在生徒の成績の良し悪しによって、宿題を赤、黄、緑と3種類に分けている学校があることがわかった。記者の調べでは、学校側はこれはただグループ分けしたものだとしている。



 山東省のある中学校では、成績の良し悪しによって、宿題を赤、黄、緑と3つの色に分けて配布していることがわかった。色分けされた科目は、数学、物理、化学、英語がある。宿題の表紙にはアルファベットが記載され、緑色にはA、黄色にはB、赤色にはCとなっている。生徒の説明によると、成績が上から30位以内の生徒には緑色と黄色の宿題、成績が下から30位以内の生徒には黄色と赤色の宿題が配られる。以前はすべての生徒に同じようにアルファベットのない黄色の宿題が配られていたが、3週間前からクラスで3つの色分けされた宿題が配られるようになった。学校教育主任によると、Aは難度が高く、Bは全ての生徒に提出を要求するもので、Cは成績の思わしくない生徒を激励するためのものだという。生徒は自分の成績状況などによって自分で宿題を選ぶことができる。ある保護者は「学校のこうした政策は、成績の思わしくない生徒の自尊心をたやすく傷つけることになってしまう」と述べている。

 東方夜新聞の新しく得た情報によると、宿題を色分けしていた学校側は、全ての宿題を回収し、アルファベット無記載の宿題に改めたことがわかった。しかし最近はこうした問題が多く、宿題の色分けにとどまらず、赤スカーフ、緑スカーフで優秀な生徒を分けるものや、制服の色で成績の優秀な生徒とそうでない生徒を分けるもの、他にも子供にIQ測定をさせることまであることがわかった。





 今年の9月、陜西省のある小学校では、生活態度と成績の悪い生徒には緑色のスカーフ着用を義務付けた。1学年60名の生徒の中で、一部の生徒たちはこの緑のスカーフを着用している。学校側の政策について、保護者は「緑のスカーフを付けた生徒にとっては落伍者のレッテルを貼られたも同じだ。生徒にとってこれは大きなストレスになるはずだ」と述べている。学校全体補導員は「緑色はもともと希望、健康、喜び、成長を含んだシンボルです。初志はそうなんです」。この他にも、内モンゴルのある中学校では、「翔鋭房地産(不動産)」と書かれた赤色の体育服が、中学2年、3年時に成績が優秀な50名と成績が上がった生徒に配られていることがわかった。



 また、無錫では生徒にIQ測定を促す学校があることがわかった。その原因として、生徒の成績が教師の指導実績やクラス成績に影響を与えるからだそうだ。もしクラスの中でIQの低い生徒がいた場合、学校にその記録を提出すれば、このIQの低い生徒の成績はクラス成績に記載をする必要はなくなる。一部の教師たちはクラス成績と自身の指導実績をより高くするため、保護者に成績の思わしくない生徒を連れてIQ測定へ行くよう要求しているという。(http://v.qq.com/cover/p/pewudf0k1z82a4v.html)节目片段:〈5/5〉「锐观察:谁将孩子分为三六九等」


 上記のニュースの結びに女性アナウンサーは、「現代社会、大人でも耐えることの厳しいストレスに幼い子供たちが果たして耐えられるのか、生徒を助けるべき教師がIQ測定という方法で自身の職責を放棄しているのではないか、学校側と教師はどれほど怠惰なものとなったのか、試験優先教育(応試教育)の点数によって教師や生徒を評価していることが問題ではないのか、こうした試験優先教育でどうして健康で明るい子供が育てられるだろうか」と、多くの問題提起をして終えていた。

 個人的にこどもの教育に関心を持つものとして、こうした問題提起がいろいろな方面へ、それこそいろいろな方面へ展開して、子供の過ごしやすい環境が出来ればいいのに、と思う僕であった。

国慶節篇後半ダイジェスト記事、そして近況について

 なんやかんやと忙しく記事も書けず投稿もできないうちに、気づけば日付は11月。書くといっておいたことを放置し続けるのも良心の呵責と言うよりは性格上許せない性質なので、ここはサクっとダイジェスト版という形で記事及び写真を掲載します。

 10月2日午後7時過ぎ、彼女と二人で姉のご主人の故郷、公安に到着。姉のパンチの効いた出迎えを受けて自宅へ案内される。久しぶりに姉のご主人の母親(以後「おばさん」)の作った料理を食べて、僕は舌鼓を打つ。姉のご主人の父親(以後「おじさん」)にはちょっと高価な白酒もご馳走になった。出されたものは断れない性質なので、これもしっかりコップ一杯傾ける。これら並べられた食事の写真を撮るのを忘れたため、その晩は姉の息子の入浴写真を撮ることに。きっと10数年後、あるいは20数年後に「僕の膝の上であやされながらウンコしたこと覚えてる?」なんて訊いても絶対に、「そんなことしてないよっ!」とか言われるはずだ。これも実にいい思い出だ。





 10月3日、午前5時。他所様の家に泊まると緊張のせいかどうも平時より早く目が覚めてしまう。僕は居間のソファで目を覚まし、カーテンを開けて小説を読む。午前7時におばさんが目を覚まし、姉と彼女の寝る部屋へ。早朝のもろもろの身支度を終え、僕らは三峡ダムを訪れるため車で出発。途中大衆食堂へ寄り、皆で一斉に麺類やら焼きギョーザにも似た焼餅を食べる。これも実に美味しい。食事を終えると早々に僕らは出発するのだが、公安から目的地までは3時間近く車で走るため、後部座席に座った僕と彼女と姉は、車を運転するおじさんと助手席で赤ん坊をあやすおばさんにも構わず、それぞれ眠りだした。僕も少し遠慮しながらまぶたを閉じるのだが、気づけば頭が揺れていた。そしていつの間にか三峡ダムを見るための白馬石像前に到着。

 三峡ダムで先ず訪れたのはロープウェイ。これは安全性が恐ろしく低い単純な作りのものだった。ベルトも何もなく、ただ鉄のパイプが身体を抑えるだけだ。しかしこれもある意味スリルがあって、好きな人は好きかもしれない。



 昼食を取り、猿のショーを見終えると、再びロープウェイへ。場所を移動し、今度は三峡ダム沿いにある洞窟内を舟で見て周り、今度は歩いて鍾乳洞を見学。この周りは以前ナントカ部族が住んでいた地域のようだが、その居住地跡や部族風飾り付けがちょっと現代的な仕上がりになっていた。あるいは、こういうのも好きな人は好きかもしれない。

 中型船に乗り、三峡ダムを20分ほど遊覧する。その後はダム近辺の傾斜のある岩場やら、珍しい石の販売店などを訪れ、最後は橋の近くにあるバンジージャンプを見学。橋の手すりには、ジャンプするの客を見るためにたくさんの観光客が並んでいた。午後4時になると車を出し、三峡ダム近辺市内でホテルを探す。ホテルを決めると、外に出てみんなで食事を取った。



 10月4日、ホテルで朝食をとると、三峡ダムの残った観光名所を見て周り、それから公安へ戻る。公安につくとすぐに昼食。次に僕と彼女と姉はなぜか買い物へ。僕は帰りのバスチケット購入のことがずっと気がかりだったのだが、姉は「大丈夫大丈夫」と余裕の表情。これには僕も再び嫌な予感がした。買い物後に長距離バスのチケット売り場へ行くと、武昌発杭州行きの列車にちょうど合うチケットは既に無いのだという。姉はおじさんに電話をし、「明日妹たちを武昌まで送ってもらえないか?」と訊くのだが、息子の嫁の頼みとはいえ、さすがにおじさんも「時間がない」と断った。明朝がダメなら、いっそ今からバスで武昌に行けばいいのではと僕は思っていたのだけれど、「他にもチケット売り場がある」との姉の一言で、僕らはタクシーに乗り場所を移動することに。長距離バス出発所のチケット売り場につくと、不思議なものでそこではなぜかまだチケットが販売されていた。「ほらね」と得意げな姉。僕も何とも言えず、とりあえず終わり良ければと納得する。

 今は国慶節から既に一月が経ち、赤ん坊を公安に預けて来た姉が、杭州で再び僕と彼女と姉の夫と生活を始めることになった。姉が杭州に戻って、晩御飯はいつも4人みんなで揃ってとるようになった。彼女も姉のご主人も、姉に振り回されながらもいつも楽しそうだ。先日突然姉から携帯に電話があり、「買い物に出たんだけど、鍵を持つのを忘れちゃった。お兄ちゃん(ご主人のこと)と妹は帰りが7時頃でしょう? あんたいつ帰って来れる?」との内容。そそっかしく豪快な性格がときには憎めない魅力になるのだなと、僕はこの姉を見ながらつくづく思うのだった。

国慶節、杭州、武漢、公安へB

 10月2日、武昌から乗った長距離バスは4時間ほどで公安の街へとたどり着いた。

 もう15分ほどで終着点に着こうかというところで、僕は彼女の姉から届いた携帯のメールに気づいた。その内容を彼女に見せると、彼女は運転手や周りの乗客に、姉から指定された場所はここから近いかどうかを確認。運転手が親切な人で、「それならここで降りたほうが近いよ」と僕らを一般道路の脇で下ろしてくれた。

 外は結構な強さの雨が降っている。僕は傘を取り出し、彼女は姉に電話をする。姉の住む近所にあるスーパーの名前が告げられた。しかし電話なので漢字もわからずピンインも定かじゃない。相合傘をしながらタクシーを拾おうとするが、ここは車の通りが悪い。しかし運良く数分後にはタクシーに乗り込むことができた。

「どこまで?」
「えっと、この近くにあるシンフイ・スーパーまで」
「シンフイ?」
「そう。シンフイ」
「そんなスーパー知らないよ。シンレン・スーパーならあるけど」
「ええ? あるはずなんだけど」

 彼女と運転手の会話に、僕はちょっとイライラする。「お姉ちゃんに電話して、運転手に渡せばわかるよ」と言うと、彼女は携帯のボタンを押した。しかし彼女は携帯を運転手には渡さずそのまま姉と話をする。

「シンフイでいいの? でも知らないって言ってるよ、え? あるの?」と彼女は相変わらず身のない話を続ける。その会話に僕はまた、「近くに目印になるようなものは無いの?」とイライラしながら口を挟む。目印の美容院を言われて運転手は早速車を進める。すると今度は、「『その道を真っ直ぐ進んで』って。その先にお姉ちゃんが待ってるから」と彼女。その言葉に、僕はなんだか嫌な予感がしだした。それで僕は強引にタクシーを降りることを彼女に勧め、目印の美容院からゆっくりと荷物を抱えて歩くことにした。しかしいくら進んでも件のスーパーは見つからない。僕らはとうとう大通りにまでたどり着き、彼女は再びお姉さんに電話をする。「今目の前に大きなホテルがあるんだけど…」。すると方向がまったく逆だったことがわかったのだ。

「タクシーの進んでる進行方向も知らないのに、真っ直ぐってわかるわけないでしょ!?」と僕は多少の苛立ちを彼女にこぼす。確かに、と彼女は済まなそうに詫びる。

 もと来た道を歩いていると、向こうから彼女の姉が傘をさして歩いてくる。開口一番、「ホンット、あんたたちはバカなんだからあ〜」と彼女の姉は笑いながら彼女に言う。おいおい、と僕は思うが、彼女は僕の気持ちを代弁して電話での指示について不満を述べる。すると、「シンフイの前を真っ直ぐって言ったでしょ!」と通じない。そして、「ホンット、あんたたちは!」と繰り返す。

 シンレン・スーパーを過ぎてしばらく歩くと、うっすらと暗い道の脇にシンフイ・スーパーという看板があった。こんな地味な場所じゃ運転手もわからないよと思うも、無言で彼女たちの後ろを歩き、彼女の姉のご主人の実家へ到着。

「この子たちったら、道を全然逆に進んでるのよ!」と姉は義理の母と父に再び既成事実となってしまった僕らの犯したミスを告げる。

 久しぶりに会うのに相変わらずなんてパンチの利いたお姉さんなんだ、と思う出来事だった。


写真はお姉さんの義理の父と、お姉さんの子供です。

国慶節、杭州、武漢、公安へA

 10月2日、列車の中で国慶節二日目を迎える。寝台車の中段ベッドは予想通り、熟睡するには適当な環境ではなかった。僕は夜中何度か目を覚ましたが、上段ベッドから何やら腕のような黒い影が垂れているのを目にした。どうやら上段の旅客は寝相が大分悪いらしい。まさか落ちることはないだろうと、僕はそのまま目を閉じた。

 携帯電話を見ると、時刻は午前5時過ぎ。自分を何度もだましだまし眠ろうとしたのだが、とうとう気力も失せてしまった。時刻は午前7時を回っていた。他の旅客たちも歯ブラシや朝の身支度をし始めていた。彼女も目を覚ましたようで、僕に話しかける。深夜、彼女が目を覚ました時、僕の上段の客が片足をベッドから出して今にも落ちそうになっていたというのだ。それで冷や冷やしてとても怖かったのだという。僕が見たあれは足だったのだ。寝相の良い人は別だが、そうじゃない人は何としても下段のベッドで旅行することをお勧めします。

 さて、僕らは午前11時半に武昌(武漢市内の区名)に到着。荷物を持って今度は長距離バスの駅までチケットを買いに行くのだが、次の目的地である公安までは4時間半かかるらしい。しかもバスの出発時刻は午後2時半。公安に着く頃には午後7時を回ってしまう。つまり僕らはわざわざ24時間もかけてとくに聞いたことのない土地(彼女の姉のご主人の故郷)まで行くことになっていたのだ。それというのも彼女の姉が今、赤ん坊と一緒に公安でご主人の両親としばらく暮らしているからなのだ。つまり今回の旅行では、移動で往復丸二日を失ってしまうわけだ。バスのチケット売り場でその事実を知ってしまった彼女は、自分の姉の提案した旅行(暇だから是非遊びに来いという理由)に不機嫌になってしまった。まさか僕も目的地までにこんなに時間がかかるとは思っていなかった。怒りのような疲れのようなため息が漏れる。何だか彼女にも彼女の姉にもいろいろなことを責め立てたくなるのだが、まあ仕方がない。今回は彼女の姉の赤ん坊に会えるのだ。赤ん坊に会うにはそれだけ時間をかける価値があるのだと自分に言い聞かせる。旅行かばんのなかには、赤ん坊のために彼女の準備したプレゼントが詰まっているのだ。そして僕は「わっはっは、旅行の移動に2日も時間をかけちゃったよ」と、バス売り場で今回の旅行を一種の笑い話に変えようとする。まあ、潔く諦め、次回は極力気をつければいいのだ。

 さて、いつまでも機嫌の治らない彼女を連れて、僕らはケンタッキーへ。店内でコーヒーを飲みながら、僕は小説(乙一著『暗いところで待ち合わせ』)を読む。彼女は周黒鴨という店で買った鴨の足をできるだけ目立たないように食べる。しかし時間は思うように過ぎず、彼女の機嫌もなかなか収まらない。

「ところで、駅前の公衆トイレにあった、〈生態厠所(トイレ)〉ってどういう意味なんだろう? なんで生態って字があるの?」

 本を置いて、僕は口を開く。その質問に彼女も少し首をかしげる。顔の表情から硬さが多少抜ける。僕はまたほかの質問をする。表情はぐっと柔らかくなる。そして彼女はなんとか機嫌を取り戻す。

 午後1時半。僕らは長距離バスの待合室へ向かい、2時過ぎには乗車をする。バスの出発直前、警察らしい男性が突然片手で車内をカメラに収める。指名手配の誰かを探しているのか知らないが、無断で写真を撮る失礼さにちょっとイラッとする。カメラでその警察の様子を収められなかったのが残念だが、まあとにかく、バスは次の目的地である公安へと出発した。


国慶節、杭州、武漢、公安へ@

 10月1日の中国国慶節の第一日目。手荷物3つ、リュック1つと彼女の作ったバナナ寿司を携え部屋を出発。濱江の「濱文中心站」というバス停からバスに乗り、「復興大橋換乗站」というバス停でバスを乗り換える。時刻は午後6時を回っており、空は灰色の雲におおわれていて辺りは薄暗い。彼女とバス停のベンチでバスを待っていると、二人の女性と一人の男性客がバスを降りてきた。男性客は酒に酔っているようで、バスを下車するさい足元の階段でよろけた。国慶節一日目とはいえ、まだ時間は早いのにもう出来上がったのかと感心した束の間、男は僕らの座るベンチのすぐ横へもたれかかる。中年女性の二人が熱心に介抱をするも、男の目は座っていて、左右の視点が定まらないようだ。嫌な予感がし、僕は彼女を連れて距離をおいて設置された空いたベンチへ腰掛ける。バケツの引きずられる音がし、そこへ何かが流れ落ちる音が聞こえる。ぺっ! と口内の不快粘液物を切るような豪快な音がし、うっかり風下に座った僕らのほうへ胃液の香りが流れてくる。「うっ!」と彼女が顔を歪め、「ケケケっ」と僕は口元ををひきつらせて笑う。

 午後10時半発杭州武昌(武漢市にある一つの区)行きの列車に乗るのだが、僕らは杭州駅に午後8時前に着いてしまった。駅付近の「大娘水餃」という餃子店により、杭州での最後の晩餐をとる。もちろん僕の頭ではおそらく列車内で食べることになるであろうバナナ寿司が不吉な影のようによぎっていた。水餃子二人前に、キクラゲスープ麺を注文。ラー油にニンニクを大量に加え、餃子を美味しく食べる。9時過ぎ、駅構内の待合室へ移動。運良く待合室内の座席を見つけ、僕は乙一著小説『暗いところで待ち合わせ』(幻冬舎)の文庫本を読み、彼女は僕の肩に持たれて一休みする。

 出発15分前にチケット検査が始まり、待合室にいた大勢の観光客や帰省者たちがどっとざわつき動き出す。なんだか映画で見る戦中の集団疎開のような慌ただしさだ。僕と彼女もその疎開風景に飲み込まれ、なんとかかんとか改札を抜け階段を降り指定の車両へ乗り込んだ。



 写真は寝台車両でのものだ。僕らの購入したチケットは、運悪くそれぞれ上・中・下3段ベッドの中段ベッドだった。2枚板に区切られた空間にそれぞれ向い合って3段ベッドが設置されている。下段は空間がもっとも広くとられ、足元も自由に投げ出すことができ、ベッド間に備えつけられた簡易台も有効的に利用ができる。上段はすぐ上部が天井だが、電気の明かりにも近く他人の視線をもっとも気にせずにすむ場所だ。しかし中段ベッドは上下を他の客に挟まれ、鬱屈した気分を提供することに重きを置いたかのような作りになっていた。

 僕らはそれぞれ薄暗い中段ベッドで何もすること無く時間を過ごし、暇を持て余してとうとう件のバナナ寿司を食べることになった。味は残念な結果になっていた。しかし味覚の規格が僕と違うのか、彼女はそれを満足そうに食べる。バナナ寿司とは別に、彼女が僕に秘密で作っていた桜えびとばら海苔で作った巻き寿司もあったので、僕はそちらを美味しく食べた。

 列車は特に出発の合図もなく動き出した。駅員がチケット確認と身分証提示を求めて回ってきた。彼女も僕も身分証を持っておらず、彼女は口頭で身分証の個人番号を述べる。僕は駅員に日本人であり、パスポート番号を言おうすると、駅員は身分確認を諦める。乗車チケットと引換に乗車カードを僕らに渡すと去っていった。どうやらこれはチケット盗難防止のためのようだ。



 時折訪れる大きな揺れと停車を繰り返しながら、消灯された列車は武漢まで延びるレールの上を順調に駆けて行った。国慶節一日目を僕らはこうして過ごした。

国慶節、旅行先から無事帰還

 10月1日夜、杭州から武漢へ向かう列車で12時間ほど揺られ、武昌から今度は長距離バスに乗って公安という場所へ。気づけば公安へ着くまでに24時間かけていた。そして彼女の姉の夫の実家に着いたのだが、そこで観光をして無事10月6日の午前に杭州へ戻ってきた。往復48時間を列車やバスやらに費やしたことになったが、まあ、こういう経験も悪く無いと思う。

 これから数日間は、旅行先での出来事を写真を添えて掲載したいと思います。

国慶節、朝食、彼女のおにぎり

 午前中寝ぼけていた僕は、今日は土曜日で彼女の姉のご主人(姐夫)は仕事だと思っていたため、6時半に起きてお弁当を作った。ここ最近は僕が彼女と彼女の姉のご主人(姐夫)のために朝食とお弁当を作っているのだ。

 冷蔵庫からさやえんどう(扁豆bian3dou4)と赤身の肉(痩肉shou4rou4)を取り出す。さやえんどうの筋を取って水で洗う。赤身の肉は豪快に大きめに切る。切った肉を醤油とにんにく(生姜の代理)で味付けをする。赤唐辛子を準備し、中華鍋で炒める。





 調理を終え、姐夫の弁当箱にご飯を持っているとき、彼女が来た。「何をしてるの?」「お弁当だけど?」彼女は突然腹を抱えて笑い出す。僕は意味が分からない。「今日は国慶節でしょ? 会社も休みだよ」。あ〜〜〜、と僕。しかし作ってしまったものはしょうがない。僕らは朝食としてできた料理を食べることに。







 午後、彼女は武漢へ向かう電車(汽車)の中で食べるおにぎりを作る。しかし僕の気づかぬうちに、なんと中にバナナを入れてしまった。バナナっ!!「絶対美味しくないでしょ、それっ!」というも彼女は美味しいはずだと譲らない。ああ、今晩武漢の電車の中で僕はとんでもないものを食べることになるのだ。今から心の準備をしなくては。
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