2020年09月13日
転居葉書と”プラチナの輝き”。
親戚からの転居の知らせの葉書を見て憤った。
宛名の文字に!
いい大人だ、還暦もとうに過ぎた大人だ。
文字を書き慣れていない字。
文字を観て、じっくり観て、美しいかどうか観察してこなかった字。
美しく書けなかったら工夫しようと思わなかった字。
腹立たしかった。
文字に関してでも、運動に関してでも、生活全般に関してでも、人には得て不得手がある。
生まれながらに持っている才能と言うものもある。
才能を伸ばす機会に出会えなかったということもある。
私など、できないことの方が断然多い。
だから、人其々得意なことを伸ばし、不得手なことは外注するなんてこともできる時代だから
他人に迷惑さえ掛けなければそれでいいと思う。
その送り主に対して、どうこう言うつもりも無い。
でも、年賀状にしても、こういうお知らせの葉書にしても宛名に書かれた文字の稚拙さにがっかりするのだ。
いろんな人の文字を見る機会もあるだろう。
綺麗な、美しい文字を見て感動することもあるだろう。(無いのか?)
そんな時、自分の文字は?
と、何か感じないだろうか?
今はPCを使えば、いろんなタイプの好みの字体で宛名を印刷することもできる。
送り主はまだまだ学ぶことのできる年齢だ。
綺麗でなくてもいい、書く機会、回数を増やせば、その人なりの文字というものはできていく。
しかし、送り主の彼女はPCも書き慣れるということもしてこなかったようだ。
小学生が初めて習った時のようなぎこちない書体。
貰う度に、何故文字を書く練習をしないのだろうか?と思う。
彼女の姉も同様だ。
彼女達の母親は教師をしていて、何かというと手紙や葉書を書く人だった。
素晴らしく上手いというわけではなかったが(本人は自慢だった)書き慣れていて、家庭内の書く分野は自分の仕事と思っていた人だった。
なのに、娘たちはいつまで経っても上達しない文字を書いているのだ。
絵でも文字でも芸術でも、美醜というのは客観的に見ても判別できるものだと思う。
私が自分の文字に自信が持てなかったら、PCを駆使して印刷するだろう。
厳しい言い方かもしれないが、手にして嬉しい文字ではない。
葉書やメッセージなど貰う度に、がっかりするのだ。
文字を書く、こういうことって、楽器を習うとか特別の技術を習得するのとは違って、生活に密着していて、
いろんな機会に使うツールなのだ。
コミュニケーションを取る道具なのだ。
義務教育の範囲内で普通に練習することなのだ。
美しい文字で書かれたメッセージなど貰っても、多分それを
「奇麗な文字で書かれていて素敵ね!」
などという感動とかがないなのだろう。
だから、貰った人の気持ちを想像できないのだろう。
そんな中、最近”プラチナの輝き”というブログに出会ってリブログさせて頂いた。
https://ameblo.jp/kinnokoi/entry-12619184216.html
その中にあった高齢でも尚、書道に励む方々の作品を拝見した。
大きな作品に、美しく立派な書体が収まっていて感動した。
何度も何度もお稽古に励み、あのような作品を書くまでになられたのだろう。
誰にも、向上の機会はあるのだと思う。
では、こんな批判的なことを思う自分はどうなのですか?と言われるだろう。
書道家の方から見れば決して上手いと言われる程ではないと思う。
が、家庭内で必要な対外的な祝儀、不祝儀などの表書きなどは依頼されて毛筆で書いている程度だ。
せめて、自分の文字がどんな程度のものなのか判断する位の思いはないものかと、文字を見る度に残念に思う。
本人は無意識かもしれないが、本人の価値を考える時、そのことが大分評価を下げている部分であると思ってしまう。
残念な人だ(人達だ)。
宛名の文字に!
いい大人だ、還暦もとうに過ぎた大人だ。
文字を書き慣れていない字。
文字を観て、じっくり観て、美しいかどうか観察してこなかった字。
美しく書けなかったら工夫しようと思わなかった字。
腹立たしかった。
文字に関してでも、運動に関してでも、生活全般に関してでも、人には得て不得手がある。
生まれながらに持っている才能と言うものもある。
才能を伸ばす機会に出会えなかったということもある。
私など、できないことの方が断然多い。
だから、人其々得意なことを伸ばし、不得手なことは外注するなんてこともできる時代だから
他人に迷惑さえ掛けなければそれでいいと思う。
その送り主に対して、どうこう言うつもりも無い。
でも、年賀状にしても、こういうお知らせの葉書にしても宛名に書かれた文字の稚拙さにがっかりするのだ。
いろんな人の文字を見る機会もあるだろう。
綺麗な、美しい文字を見て感動することもあるだろう。(無いのか?)
そんな時、自分の文字は?
と、何か感じないだろうか?
今はPCを使えば、いろんなタイプの好みの字体で宛名を印刷することもできる。
送り主はまだまだ学ぶことのできる年齢だ。
綺麗でなくてもいい、書く機会、回数を増やせば、その人なりの文字というものはできていく。
しかし、送り主の彼女はPCも書き慣れるということもしてこなかったようだ。
小学生が初めて習った時のようなぎこちない書体。
貰う度に、何故文字を書く練習をしないのだろうか?と思う。
彼女の姉も同様だ。
彼女達の母親は教師をしていて、何かというと手紙や葉書を書く人だった。
素晴らしく上手いというわけではなかったが(本人は自慢だった)書き慣れていて、家庭内の書く分野は自分の仕事と思っていた人だった。
なのに、娘たちはいつまで経っても上達しない文字を書いているのだ。
絵でも文字でも芸術でも、美醜というのは客観的に見ても判別できるものだと思う。
私が自分の文字に自信が持てなかったら、PCを駆使して印刷するだろう。
厳しい言い方かもしれないが、手にして嬉しい文字ではない。
葉書やメッセージなど貰う度に、がっかりするのだ。
文字を書く、こういうことって、楽器を習うとか特別の技術を習得するのとは違って、生活に密着していて、
いろんな機会に使うツールなのだ。
コミュニケーションを取る道具なのだ。
義務教育の範囲内で普通に練習することなのだ。
美しい文字で書かれたメッセージなど貰っても、多分それを
「奇麗な文字で書かれていて素敵ね!」
などという感動とかがないなのだろう。
だから、貰った人の気持ちを想像できないのだろう。
そんな中、最近”プラチナの輝き”というブログに出会ってリブログさせて頂いた。
https://ameblo.jp/kinnokoi/entry-12619184216.html
その中にあった高齢でも尚、書道に励む方々の作品を拝見した。
大きな作品に、美しく立派な書体が収まっていて感動した。
何度も何度もお稽古に励み、あのような作品を書くまでになられたのだろう。
誰にも、向上の機会はあるのだと思う。
では、こんな批判的なことを思う自分はどうなのですか?と言われるだろう。
書道家の方から見れば決して上手いと言われる程ではないと思う。
が、家庭内で必要な対外的な祝儀、不祝儀などの表書きなどは依頼されて毛筆で書いている程度だ。
せめて、自分の文字がどんな程度のものなのか判断する位の思いはないものかと、文字を見る度に残念に思う。
本人は無意識かもしれないが、本人の価値を考える時、そのことが大分評価を下げている部分であると思ってしまう。
残念な人だ(人達だ)。
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