2019年04月11日
同級生としての雑談の中で。
長い事、都心を拠点にお仕事を続けてきた同級生夫妻が、数年前から拠点を、故郷の私の居住地域に移して活動されている。
同級生であった時間よりも離れて暮らした時間の方がはるかに長い。
けれど、離れていた間もお互いに結婚した時とか、子供が生まれて落ちついた頃とか、行き来したりして没交渉であったわけではない。
会えば、学生だった当時の「○○ちゃん」と呼び合う同士で、すんなりと時間を越えて話ができる仲のままだ。親友というのだろうか。
私の家庭は極々普通の家庭だと思うが、彼女の家庭は親世代が高学歴の教育熱心な家庭だ。
教育熱心、というとギュウギュウに教育されたように取られるかもしれないが、子供の将来をきちんと見据えた教育のレールを敷くことを考えられたことはあっても、無理やりそこに当てはめるのではなくて、きちとしたチャンスを与えることのできた家庭環境だったのだと思う。
だから、私とはたまたま入学した学校での出逢いが始まりだったけど、何と家庭環境の違う子供がいるんだろう、と驚いていた。
私は野放し状態の伸び伸び近所の子供達と遊びまくって、その中で様々な事を学んだ。
彼女は、お嬢様で、私が遊んでいた頃は音楽の英才教育を受けていた。
そんな二人なのに、何故か違和感なく過ごしていた。
他にも生徒がいる中で、近しい仲になっていた。
彼女のお母さまが茶道教授をされていたこともあって、茶室なるものなどには縁のなかった当時、家にお茶室なるものがあって、お庭があって、雰囲気が静謐という言葉がぴったりだったことに、驚きと憧れが入り混じった思いでいた事を覚えている。
家にお邪魔すると、当時アップライトピアノがあるだけでも普通ではない頃、家の真ん中にグランドピアノがド〜ンと置かれていた。
私の家とはかけ離れていたことは確かだった。
だからといって我が家が云々などではなく、我が家の周りには親戚が多くいて、いろんなタイプの大人がワイワイしてたので、毎日ちょっと背伸びして楽しかった。
後年、やはり縁があったのだろう、彼女のお母さまにしばらくの期間茶道を教えて頂いた。
彼女は既に音楽の道を目指して上京していた。
そんな極々普通生活の私に、いろんな機会をもたらしてくれることになっているのが彼女なのだ。
普通の情報とは違う、その業界ならではの演奏会などを知らせてくれて、誘ってくれる。
私の方は音楽業界には白紙状態の何でも素直に受け入れるタイプ。
私にとって興味があることならば、喜んで「行く、行く」と応える。
生活スタイルの全く違う二人なのに、彼女には強引さや教えたい、とかそんな素振りは全くない。
それよりも、彼女の周りの演奏会などを一人でも多くの人に聴いてもらいたいという気持ちで、自分達の世界を知って欲しいという気持ちだと解釈している。
それが、私にとっては新鮮で、次々と同行する機会を得ることになっている。
ただ、興味がなかったり、都合がつかなければ行けない、と正直に伝える。
私は恵まれていると、喜びとして捉えている。
彼女夫妻の独特な生活スタイルから、いろんなお話が聞ける。
私の触れることのない世界が広がる。
一方は演奏家同士の夫婦、私は楽器などに殆ど縁なく過ごしてきた。
時々は思うこともある。
英才教育を受けた人というのは人生のギフトを受けるべくして育った人で、その間の時間を濃密に有効に使えたんだと。
その点に関しては私の両親は無知だったのだろう、と言うかそこまで特別な教育は考えていなかったのだろう。
だからそういった特別なギフトは受けられなかったから、自分が気づいても今更演奏家にはなれない。
羨ましくない、と言えば嘘になる。
生涯身に付いたものは財産であって、高齢になっても演奏を楽しめるなんて、ギフトそのものなのだから。
しかし、学校の授業と並行して彼女がレッスンに費やした時間と努力が私にできたかと言えば、それだって無理だったかもしれない。
機会だけではない、彼女の努力と音楽家になるという目標を実現させるだけの意志を貫けた人だったということだと思う。
一方で、私は海に近かった生まれ育った地域で、幼少期を元気に伸び伸びと、いろんな遊びをして、その中で得たことの多い時間を与えられたことに感謝しているのだ。
親の顔色を見て遊ぶなんてことはなく、徹底的に遊びに没頭し、勉強もさっさとした。
あの時間は私の基礎を作ったと胸を張って言える。
楽器のレッスンはしなかったし、特別な子供でもなかったけれど、まだ上級生が一緒に遊んでくれていた時代だった。
地域の大人の生活にも密着していた。
私自身も好奇心旺盛で、活発な子供の類だったので、とに角毎日に満足していた。
だから、彼女の味わえなかった子供時代を私は味わい尽くしたと自負している。
人は二つの道は歩けないのだから。
家族の中だけでない、豊富な人間関係の中で沢山の愛情をもらっていた。
幼稚園時代には、何故かお向かいの家の主が送って行ってくれて、よくそのお宅にもお邪魔して、そこの主、おじさんの膝の上が好きで可愛がってもらったことも覚えている。
彼女と私には、対極的と言える位の違いがあって、そこを彼女は私の中に見ていたのかもしれない。
私はどちらかというと、フットワークが軽い。
「どう?」と声掛けされれば「OK!」と動く。
そんな関係なのだ。
そんなところも軽やかな関係を続けてこれた理由かもしれない。
自己判断にあまり悩まない、自分を信じることができる。
これらのことも子供の頃の遊びの中で得た事だと思っている。
グズグズしてたら子供は集まらないし、遊びもどんどん決めていくから楽しい。
誰とどのようにして遊ぶかを考えることは人間観察していたのだろうし、子供ながらにその日のスケデュールを立ててこなしていたのだろう。
多分、身体も動かしていた。
毎日「遊ぼ〜!」と誘いに来る友達とうまく付き合う方法を体得していたのだろう。
そんな彼女が事あるごとに連絡をくれる度に、ご自宅に伺うことも結構あり、いろんな話をする機会が増えた。
その雑談の中に、私は引き込まれることがある。
彼女は普通に話してるだけだろうが、私が食いつくと、彼女は話を深めていくので、お互いに大人になった今、
「そんな性格(時間に正確の部分)だったなんて学校にいただけでは分からなかったよね」
などという、新しい発見をしているのだ。
長文のため、後日に「続く」。
同級生であった時間よりも離れて暮らした時間の方がはるかに長い。
けれど、離れていた間もお互いに結婚した時とか、子供が生まれて落ちついた頃とか、行き来したりして没交渉であったわけではない。
会えば、学生だった当時の「○○ちゃん」と呼び合う同士で、すんなりと時間を越えて話ができる仲のままだ。親友というのだろうか。
私の家庭は極々普通の家庭だと思うが、彼女の家庭は親世代が高学歴の教育熱心な家庭だ。
教育熱心、というとギュウギュウに教育されたように取られるかもしれないが、子供の将来をきちんと見据えた教育のレールを敷くことを考えられたことはあっても、無理やりそこに当てはめるのではなくて、きちとしたチャンスを与えることのできた家庭環境だったのだと思う。
だから、私とはたまたま入学した学校での出逢いが始まりだったけど、何と家庭環境の違う子供がいるんだろう、と驚いていた。
私は野放し状態の伸び伸び近所の子供達と遊びまくって、その中で様々な事を学んだ。
彼女は、お嬢様で、私が遊んでいた頃は音楽の英才教育を受けていた。
そんな二人なのに、何故か違和感なく過ごしていた。
他にも生徒がいる中で、近しい仲になっていた。
彼女のお母さまが茶道教授をされていたこともあって、茶室なるものなどには縁のなかった当時、家にお茶室なるものがあって、お庭があって、雰囲気が静謐という言葉がぴったりだったことに、驚きと憧れが入り混じった思いでいた事を覚えている。
家にお邪魔すると、当時アップライトピアノがあるだけでも普通ではない頃、家の真ん中にグランドピアノがド〜ンと置かれていた。
私の家とはかけ離れていたことは確かだった。
だからといって我が家が云々などではなく、我が家の周りには親戚が多くいて、いろんなタイプの大人がワイワイしてたので、毎日ちょっと背伸びして楽しかった。
後年、やはり縁があったのだろう、彼女のお母さまにしばらくの期間茶道を教えて頂いた。
彼女は既に音楽の道を目指して上京していた。
そんな極々普通生活の私に、いろんな機会をもたらしてくれることになっているのが彼女なのだ。
普通の情報とは違う、その業界ならではの演奏会などを知らせてくれて、誘ってくれる。
私の方は音楽業界には白紙状態の何でも素直に受け入れるタイプ。
私にとって興味があることならば、喜んで「行く、行く」と応える。
生活スタイルの全く違う二人なのに、彼女には強引さや教えたい、とかそんな素振りは全くない。
それよりも、彼女の周りの演奏会などを一人でも多くの人に聴いてもらいたいという気持ちで、自分達の世界を知って欲しいという気持ちだと解釈している。
それが、私にとっては新鮮で、次々と同行する機会を得ることになっている。
ただ、興味がなかったり、都合がつかなければ行けない、と正直に伝える。
私は恵まれていると、喜びとして捉えている。
彼女夫妻の独特な生活スタイルから、いろんなお話が聞ける。
私の触れることのない世界が広がる。
一方は演奏家同士の夫婦、私は楽器などに殆ど縁なく過ごしてきた。
時々は思うこともある。
英才教育を受けた人というのは人生のギフトを受けるべくして育った人で、その間の時間を濃密に有効に使えたんだと。
その点に関しては私の両親は無知だったのだろう、と言うかそこまで特別な教育は考えていなかったのだろう。
だからそういった特別なギフトは受けられなかったから、自分が気づいても今更演奏家にはなれない。
羨ましくない、と言えば嘘になる。
生涯身に付いたものは財産であって、高齢になっても演奏を楽しめるなんて、ギフトそのものなのだから。
しかし、学校の授業と並行して彼女がレッスンに費やした時間と努力が私にできたかと言えば、それだって無理だったかもしれない。
機会だけではない、彼女の努力と音楽家になるという目標を実現させるだけの意志を貫けた人だったということだと思う。
一方で、私は海に近かった生まれ育った地域で、幼少期を元気に伸び伸びと、いろんな遊びをして、その中で得たことの多い時間を与えられたことに感謝しているのだ。
親の顔色を見て遊ぶなんてことはなく、徹底的に遊びに没頭し、勉強もさっさとした。
あの時間は私の基礎を作ったと胸を張って言える。
楽器のレッスンはしなかったし、特別な子供でもなかったけれど、まだ上級生が一緒に遊んでくれていた時代だった。
地域の大人の生活にも密着していた。
私自身も好奇心旺盛で、活発な子供の類だったので、とに角毎日に満足していた。
だから、彼女の味わえなかった子供時代を私は味わい尽くしたと自負している。
人は二つの道は歩けないのだから。
家族の中だけでない、豊富な人間関係の中で沢山の愛情をもらっていた。
幼稚園時代には、何故かお向かいの家の主が送って行ってくれて、よくそのお宅にもお邪魔して、そこの主、おじさんの膝の上が好きで可愛がってもらったことも覚えている。
彼女と私には、対極的と言える位の違いがあって、そこを彼女は私の中に見ていたのかもしれない。
私はどちらかというと、フットワークが軽い。
「どう?」と声掛けされれば「OK!」と動く。
そんな関係なのだ。
そんなところも軽やかな関係を続けてこれた理由かもしれない。
自己判断にあまり悩まない、自分を信じることができる。
これらのことも子供の頃の遊びの中で得た事だと思っている。
グズグズしてたら子供は集まらないし、遊びもどんどん決めていくから楽しい。
誰とどのようにして遊ぶかを考えることは人間観察していたのだろうし、子供ながらにその日のスケデュールを立ててこなしていたのだろう。
多分、身体も動かしていた。
毎日「遊ぼ〜!」と誘いに来る友達とうまく付き合う方法を体得していたのだろう。
そんな彼女が事あるごとに連絡をくれる度に、ご自宅に伺うことも結構あり、いろんな話をする機会が増えた。
その雑談の中に、私は引き込まれることがある。
彼女は普通に話してるだけだろうが、私が食いつくと、彼女は話を深めていくので、お互いに大人になった今、
「そんな性格(時間に正確の部分)だったなんて学校にいただけでは分からなかったよね」
などという、新しい発見をしているのだ。
長文のため、後日に「続く」。
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