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うさぎさん
小さな貸農園で無農薬の野菜を栽培しています。 畑にいるときはいつも、ルンルンです。
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2017年08月14日
戦時中の記憶 食糧事情 そして戦後の食糧事情
戦時中は食糧不足が続いたけれど、三度の食事には事欠かなかった。

今のように、満足するまでとはいかなかったけれど、さつま芋の切干など一斗缶に

いっぱい保管されていた。

また、子供達だけで、食糧の豊富な田舎の遠い親戚に疎開させられた。

庭に植えられた果物の木、あれは柿の木だったと記憶しているけれど自由に

食べることができた。食事も白米を十分にいただけた。


けれど、戦後になると食糧事情は一変した。

配給が始まったけれど、そのなかには古くなって割ると糸を引くパン

アメリカから送られてくる豆かす(これはフライパンで炒ってたべると香ばしくて

なんとか、食べることができた)。

ふすま(麦のぬか)はぼそぼそしておいしくなかった。

芋粉(生のさつま芋を乾燥させて粉にしたもの)これは腐ったさつま芋を混入させてあり

苦くて食べられなかった。 

でも大人はそれでも我慢して生きるために食べた。

子供たちは、毎日お腹をすかしいつも何か食べたいと思っていた。

ガリガリにやせている子供たちが大勢いた。



買出しは違法ですが生きるためにやむを得ず行く人たちがいる一方で

商売のために行う人たちもいて、闇市ができた。

警察につかまり全部取り上げられる人たちがいる一方で上手に潜り抜け

大儲けする人たちもいた。

それで、ある家では食糧不足がなくなった。


終戦の翌年、小学校に入学した。一年生だけで6クラスもあった。

しかも、ひとクラス60人以上いた。


ある日,先生が教壇に新聞紙を広げ金平糖を数えはじめた。

そして、一人に一包み手渡してくれた。配給が学校で行われたのだ。

たしか、16銭だったと記憶している。うれしくて大事に大事に抱えて家に帰った。

学校での配給はそれ一回だけだった。

今は、飽食の時代で余った食事を簡単に捨ててしまう。

一方で世界のどこかで、いつも食糧不足に苦しんでいる人々がいる。

食糧を無駄にしないで、感謝の日々を送りたい。
















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