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2016年03月02日

江戸庶民の釣りは趣味と言うより生活の糧でした

かっての東京湾の一部が埋め立てられて残ったと言われる不忍池(しのばずのいけ)は、江戸時代には今現在のなんと4倍の広さがあったそうです。





コイやフナなどの宝庫で、庶民が釣糸を垂らしては楽しむ自然に恵まれた池だったようです。





今現在では上野動物園や美術館、花見の行楽地として親しまれていますが、当時はもっと生活に密着した存在だったようです。





ところが、寛永2年(1625年)に建てられた寛永寺の庭先に当たるために、殺生禁止の池に指定され、釣りそのものが禁止されてしまいました。





おまけに不忍池を琵琶湖に見立てて、竹生島(ちくぶしま)が作られ、弁天堂までもが建立され、聖地のおもむきまで漂わせる場所になってしまったのです。





釣りが禁じられたせいで、魚たちもすくすくと育ち、池さらいをした時には2メートル近いコイの骨が出てきたという。





だが、役人の目を盗んで釣りをする人もかなりいたようで、まさに入れ食い状態だったと言う。





夜中にコッソリと魚を釣り、魚屋に売ることで生活の足しにしていたと言う。





こうしてコッソリと不忍池で釣りをする長屋の住人が主人公の落語が数々生まれている。





ご存知の与太郎が登場するお笑いで、見回りの寺役人に見つかった時の言い訳を考えたり、予定どおりに出来ないやり取りのシーンが、落語家の見せ場にもなる。





しかしながら江戸時代の庶民の釣りはこれらの落語のように生活のためであり、趣味としての釣りを楽しんだのは武士である。





名人や名工といわれる人たちに釣竿をオーダーするのは大名の道楽の1つであったという。





しかし、周知のように5代将軍徳川綱吉の時代には「生類憐みの令」によって釣りさえも禁止されると言う釣り人受難の時期もあった。


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