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タグ / 中国と東京裁判

記事
中国と東京裁判(25):『梅汝璈日記』22 [2015/11/27 08:07]
1946年5月13日月曜日 今日は九時半に開廷し観衆は特別に多く主に日本人が多かったが、おそらく彼らは被告の動議(法廷管轄権の問題)に大きな関係があるのであろう。孫立人将軍も参観に来て「貴賓席」に座り、私はまたも羅秘書を招待した。淡如(王之将軍)と孫立人の副官曾君も会場に来ていた。 先に被告の弁護士代表である清瀬一郎が先日提出した書面申請が力を発揮した。この老人は従容として繰り返しながら一段落述べればそれを訳し、彼一人だけで一時間半を占めた。話した言葉は多かったが、あ..
中国と東京裁判(24):『梅汝璈日記』21 [2015/11/26 08:17]
1946年5月12日日曜日 新聞を開けてみると、英国太平洋艦隊総司令フレーザー(Frazer)海軍上将が新聞記者を招待して談話を行った情況があり、彼は中国人民はみな英国が香港を保持するよう望んでいると述べていた。中央日報記者張仁仲氏はその場で彼と論争して勇敢に発言して、この帝国主義白人至上者のデタラメをいくぶんか正していた。 九時に私は代表団に話をしに行き、今日は日曜日だったので皆と会うことができた。十時過ぎにホテルに戻り、幾つかの文書を整理して、張仁仲氏のために法廷..
中国と東京裁判(23):『梅汝璈日記』20 [2015/11/25 07:06]
1946年5月11日土曜日 午前九時に方秘書と羅秘書が来た。羅秘書は書き写した「細則」の訳文を提出した。私は校正した憲章の訳文を方秘書と相談し、やや修正を加えてから羅秘書に書き写させるために渡した。 私は方秘書に裁判所に動静を見に行かせ、自分は羅秘書と神田および銀座の一帯の商店を見てまわった。三越で幾つかの贈り物を買い、中国料理館の会芳楼で幾つかの海鮮を買い、帰国したさいの友人に送る準備をした。物産がとても欠乏しておりまた価格が高いので、私が購入したものは程度があまり..
中国と東京裁判(22):『梅汝璈日記』19 [2015/11/24 08:19]
1946年5月10日金曜日 朝に裁判所の副秘書長ハニー大佐(Col. Hanney)から電話があり、十時に臨時裁判官会議を開くとのことであった。私は九時半に裁判所に到着し、門を入ると秘書長に出あった。彼は私とヒギンズ氏が申請した専用機での中国行きはすでに司令部の批准を得たので、すでに電報で中国方面に通知したとのことであった。これは私をとても悦ばせた。米国人の処理は本当に正確で迅速である。 十時に会議を開いて討論したのはすべてコールマンが司令部に提出した裁判組織憲章の改..
中国と東京裁判(21):『梅汝璈日記』18 [2015/11/23 01:00]
1946年5月9日木曜日 起きてからすぐに、ヒギンズ氏より電話があった。彼によれば専用機の交渉はすでに難関を突破しおおむね成功したので、現在はただ手続きの問題だけである。彼は私に十時に裁判所の事務室へ相談に来るように告げた。私はたいへん喜んで応諾し、彼が熱心に奔走した事に敬意を表明した。 十時に私たちは裁判所の私の事務室で会い、秘書長が一枚の中国行きの理由を書く表を持ってきたので、私とヒギンズ氏とで署名をした。我々三人は旅行のプログラムを相談したが、方秘書は上海人なの..
中国と東京裁判(16):『梅汝璈日記』13 [2015/11/18 01:00]
1946年5月2日木曜日 明日は極東軍事法廷の開幕で、私はずっと臨時法官会議が開かれるのではないかと気にかかっていたので六時前に目が覚めた。熱海は温泉浴で有名なので、私は再び湯船に浸かってひと風呂浴びすこしの菓子を食べてから淡如(王之将軍)と車に乗って東京に向かって出発した。運転手は少し疲れているようだったが自動車は平穏に進みスピードも出したので、九時半にならないうちに帝国ホテルに着いた。 方秘書から電話があり、法官会議はなく、法官たちも二三名が裁判所にいるだけとのこ..

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