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2015年11月13日

中国と東京裁判(11):『梅汝璈日記』8

1946年4月15日月曜日
今日は私と婉如の結婚一周年記念である。私は現在は彼女がどこにいるのかすら知らない。あるいは彼女はすでに重慶から離れて上海に向かう途中かもしれないし、あるいは彼女はすでに上海に到着したかもしれない。中国の交通はとても困難な状態なので、私は彼女が心配で去年の今日の情景を絶えず回憶させた。私は彼女の健康を祈り、彼女の揚子江上の旅程が順調である事を祈った。

天気は特に温かくて、桜の花がいたるところで満開になり、帝国ホテルの情景は私に北温泉の数帆楼に登った今日の事を思い出させた。月初めに私は一樵(顧毓e)氏にちょっとしたプレゼントを婉如にあてた手紙と一緒に渡してもらい、そこで彼女には4月15日にはかならず客を呼んで記念すると告げたのである。朝起きると、私はどんな人々を食事に呼ぼうか、中国料理がいいか日本料理あるいは西洋料理をご馳走するのがいいかと考えていた。突然に淡如(王之)が私の部屋に一枚の紙を持って来た。これは中国旅日華僑連合会の招待状で、主に朱将軍と私を歓迎するものであったが、実は朱将軍を招待するもので、私はそのついでに過ぎない。朱将軍は彼らを主管する長官だからである。それに夜には中国代表団の大勢の人々が到着し、公亮(朱世明)も淡如(王之)もみな代表団で招待することになっていた。私はこの状況を見て、ただ計画をあきらめるしかなく、華僑がこのような大きなパーティを開くのなら、私が三人から五人の友達を呼んで祝うのより盛大でいいだろうと考えた。これは人に借りた花を仏に捧げるようなものだが、実際状況からして止むを得ずそうせざるを得なくなったのである。

午前は私は方秘書と共に法院に出向き、幾つかの公文書を見てから、マクドゥガル氏とレーリンク氏としばらく話をした。彼らはソ連の同僚であるザリャノフ将軍がすでに到着し、昨晩彼らと一緒に食事をしたと述べた。ザリャノフ氏はすこしも英語を理解せず、彼の通訳をしている青年将校の英語もあまり上手ではないので、将来に会議を開き審理をする際に問題になるだろうとのことであった。

法院で、公亮(朱世明)から電話があり、華僑の招待は茶会で、人数がとても多く、私に三時半に彼のところへ行って一緒に会に出席するように告げた。昼食後にすこし寝てから、三時半になったので公亮(朱世明)のところに行くと、三人の華僑代表がそこで待っており、送迎のために派遣されたとのことであった。参加する人は七、八人で、我々は四台の車に分乗して出発し、私と朱将軍と方秘書が同じ車に乗り込み、約四時に上野公園の中華料理店で、東京最大の中華料理店に到着した。我々が到着した時、待ちわびた華僑たちがすでに数百人いた。あとで私が説明を聞くと明日は華僑連合会の年会で、今日は東京で特に人が多く、彼らはその機会を借りて朱将軍の歓迎会を開いたとのことであった。

数人の華僑の主だったひとが我々を客間に招待して挨拶すると、続けて皆で会議を開催するために講堂に行った。講堂はさほど小さくなかったが、人がいっぱいで、タバコや酒や菓子もみな日本産で、これはまた別の風味があり、私は幾つか干し魚を食べた。日本のタバコはまったく駄目で、最もいい物でも重慶のいちばん劣等なのに及ばない。会長の周某が開会の言葉を述べ、続けて公亮(朱世明)の訓話があり、謝南光氏が閩南語に訳していた。朱将軍の演説は相当に長く、言葉使いも相当に厳粛であった。後で聞いたところによれば、在日華僑は玉石混交で、分を守り清らかに生活しているものもいるが、騒ぎを起こす不良なものも少なくなく、そのうちには戦争期間中の行動が怪しいものもおり、現在でも大陸の浪人と手を結んでブラックマーケットで物資を売ったり其の他の不名誉な事をしている者もいる。それで朱将軍は彼らを激励するだけでなく、さらに時には彼らを訓戒や警告する意味もあるという。

公亮(朱世明)の訓話が終わると、会長は私にも何か話せという。これは全く私の予想外のことで、しばらく躊躇したが、断るわけにもいかないので、しかたなく十数分間話して、やはり謝南光氏が少しづつ閩南語に翻訳した。私はただ二点の事を希望として述べた。第一は、華僑同胞は言行を特に注意し、どこにおいても大国の国民としての風格を保ち、我々がすでに得た高い国際的な地位にふさわしい態度を取るように。第二は華僑同胞が団結を保持し、分裂することなく、事に当たる際には民主的なやり方を採用するよう希望する。事前に十分に討論して自由を発揮し、しかしひとたび公に決定されたら、必ず多数に従い、みなが絶対にそれを遵守して、別の意見に固執して、勝手な行動を取る事がないように。この点は私が約二十年前に米国で、またその後にヨーロッパの各地の華僑の最も普遍的な弊害で(団結せず分裂しやすい)ある。私はこの場を借りて一言述べてもいいだろう、特に明日は旅日華僑同胞連合会の年会だからと考えた。

私は講話を終え、みなでしばらく座談をして、私と朱将軍は退席を告げたので、主席が散会を宣言した。唐上校と方秘書が車に乗って私のホテルにやってきた。私は部屋に茶と菓子を持ってこさせ、彼らと一時間ほど話しをし、彼らは第一賓館に帰った。六時過ぎにバーに行くとソ連以外の各国の裁判官がみなそろって、酒を飲んだり談笑したりしていた。裁判長のウェッブ氏はすでにオーストラリアから戻ってきていた。紹介の後、私たちは初対面であったので懇切に話し合った。彼は背が高く太って大柄の体格で、大体六十歳前後の人である。彼は最近にオーストラリアの最高法院裁判官になったばかりで(元はクィーンスランド州高等法院主席判事)、私が彼に祝福の言葉をかけると、彼はうれしそうにしていた。

ウェッブ氏はとても和気藹々としており、真摯で誠実そうであり、あまり言葉は多くはないが言葉ははっきりしており、態度はとても公正で、事務処理も要領を得ている様子であった。これが私の彼に対する初歩的な印象である。彼は確かに紳士の雰囲気がある君子らしい態度である。私たちは共にご飯を食べて、食事をしてから再びホールで語り合った。ノースクラフト氏らはウェッブ氏に「サー」を付けなくてもよいだろうといい、またウェッブ氏も私に「ドクター」を付けなくてもいいだろうといい、互いに「ミスター・ウェッブ」「ミスター・メイ」あるいは「ウェッブ」「メイ」と呼び合う事にした。

私は急いで中国代表団の知らせを聞きたかったので、九時になると上の階に上がった。淡如(王之将軍)の部屋にはすでに国内から到着した二名がシャワーを浴びていたので、私は飛行機が本当に到着した事を知った。それから明思(向検事)が四通の手紙を渡してくれた。一通は三番目の弟汝璇が綿州から宛てたもの、二通目は五番目の妹である蘊珍が白沙より宛てたもの、三通目は羅秘書が上海より当てたもの、四通目は妻の婉如が重慶より宛てたものであった。父親からの手紙がなかったのには、少しがっかりした。しかし、妻と弟や妹の手紙から両親は故郷に帰る準備をしており、とても健康であるとわかった。妻の手紙はとても長く、私が顧一樵(顧毓e)および白顧問に託した中国の切手がついた手紙も届いたとのことであった。彼女は私にいろいろな重慶の家の情景を知らせてくれ、私はとても嬉しかった。ただ妻の兄に当たる静軒氏がまだ長春から退去していないことが、私は心配になった。婉如は12日に郵政総局の鴻逵専船で河南を離れて、月末に上海に到着予定だとあった。今日は出発して四日目だから、おそらく彼女は沙市に停泊しているだろう。私たちは離れ離れで、彼女に苦労をさせていると思うと、とても気持ちが不安になる。私は心の中で彼女の旅が愉快で平穏である事を祈った。

今日の事はとてもよい時に合って、私をとても興奮させた。4月15日のこの記念日には、私は婉如が特に懐かしい。ちょうどこの日に、私は彼女が中国から送った手紙を受け取ることができた。これは不思議な事で、もともと私は小さな記念パーティをしようと思っていたのだが、華僑全体がこの日に盛大な歓迎会を開いてくれたので、情況の熱烈さは去年のこの日の数帆楼にも負けず劣らずとなった。本当に偶然が重なって、私は特に嬉しくなった。私が今日来ているのは去年のこの日に来ていたあの白いシャツで、身に付けているのは去年のこの日に付けていた赤いネクタイである。この種の小さなことまでこだわるのは、あまりにも子供ぽいことではあるが。孟子も「大人はその赤子の心を失わず」といっているので、私も大げさになってもいいだろう。

部屋に戻り、手紙と送ってきた中国の新聞の私に関する報道をもう一度見て、日記をつけて、太極拳を練習して眠る時にはまた一時間が過ぎていた。

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