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2015年09月21日

山口組HPより『日本任侠道の歩み』を現代用語で要訳してみた その二

その二  「町火消しの頭台と新門辰五郎」




幡随院長兵衛の死後、時流は急速に奴達の取り締まりを強化し、明暦元年(1659年)11月の中山勘解由〈鬼勘解由〉の行った博徒狩りを皮切りに、奴達は厳しく処断されて行く。



 衰退する奴達はやがて解体へと追い込まれるのだが、それが決定的と成ったのが、貞享三年(1683年)9月27日の大刈込みであるという。



(猪野健治/著「やくざと日本人」)によれば、 旗本奴が自滅の道をたどったのに比し、町奴は、被支配層の反権力的風潮に支えられてしばしば行われた奴狩りにもかかわらず容易には衰退しなかった。



それが衰退に至ったのは、町奴の初期の反権力的俠気がしだいにうすれ、無頼化した事もさることながら、小普請の義務が金納制に改められ(元禄二年1689年)、従来の形で口入れ稼業が成り立たなくなった為であるとしている。



やがて奴に代わって、民衆の前衛と成りうる者として町火消しの集団へと変化して行く。



町火消しは鳶を主流に建設関係の人足を生業としながら、幕府より命じられた「江戸の町を火災から守る」という使命を担う運びと成り、一種の市民兵的存在として被支配階級の抵抗の前衛と成っていったという。



多くは旦那衆を持ち、経費は一切町費で賄われたらしく、町人の人気を集めて居たという事がよくわかる。



現代の様な装備もなく、素肌に近い姿で、水をかぶって飛び込み火消しに当たるのであるから、大火ともなると死人が続出した事は想像に明るい。



任俠道をそのまま絵にしたような行動に、人間としての魅力を感じ、人気が上がらない筈が無いのだ。



組頭以下、組纏いを先頭に一蓮托生、生死を共にした運命共同体的生活から、自然と親分子分、兄弟分の情義が生まれたというのもよく理解できる。



『本邦俠客の研究』という文献の一文からそれがよくわかる。



こうして成り立った町火消しの組織が、仁俠団体の原型と成った事が見てとれる。



享保4年(1719年)4月 町奉行大岡越前守忠相が、一番組から10番組と〈い・ろ・は〉48組に分け、町火消し組織が生まれた。



町火消しはその人気から、様々な形で町人に頼られ、自然と街の治安維持に貢献する事となり、その組々が担う地域の揉めごと、喧嘩の仲裁、商家にきてユスリ・タカリを働く無頼漢を追っ払う、などの事までが彼らの仕事の一部に組み込まれて行ったという。







さて、町火消しの成り立ちについて記述したが、町火消しとくれば、御存じ歴史にその名を残す、新門辰五郎の登場である。



大前田栄五郎、江戸屋虎五郎と並んで、「関東の三五朗」と呼ばれた、俠客きっての俠客である。



新門辰五郎は寛政十二年(1800年)に下谷山崎町の飾り職人の長男として生まれ、本名を中村金太郎といった。火消しになる切っ掛けは、煙管職人であった父の死であったようだ。
辰五郎の父は、自分の留守中に弟子が火事を起こしてしまった事から、「世間に申し訳ない」と火の中へ身投げし自殺してしまったそうだ。
 金太郎(辰五郎)は16歳の時、浅草金竜寺の新門の衛士で『浅草十番組『を組』の頭であった、町田仁右衛門の下に弟子入りをしたという。
18歳にして町田氏に養子に出され、「新門」 と俗称したいわれは、浅草寺・伝法院の新しい通用門の番人を任された事からなのだという。



当時十番組頭取であった町田氏に若くして見込まれたというから、度胸もなみの度量では無かったのだろうという事が伺われる。







 辰五郎が火消しとして最初に名を上げたのが、 文政四年(1821年)浅草花川戸の火事。 『を組』は一番に火事場へ駆けつけ、纏を揚げたのだが、遅れてやってきた立花将監お抱え火消しの横やりに会い、消し口の取り合いから、相手の纏い持ちを屋根の上から蹴落として大怪我を負わせ、火事そっちのけで大喧嘩となった。



 大勢の怪我人を出した事で責任を感じた辰五郎は、火が鎮火した後、けじめをつける為に将監屋敷へと単身で出向き、



「下手人は俺だ。どうなと勝手にしろ。」



と、啖呵を切ったという。



将監は辰五郎のその気概に押されたのか、はたまたその心意気がかわれたのか、実の処は分からないが、辰五郎はなにも手を下されず、何の責任も問われずに帰されたという。



この話が江戸中に広まり、「を組の新門辰五郎」の名を、一躍世間に知らしめる運びとなったのだという。



 つづいて文政七年(1824年)吉原の火事。 天保五年(1834年)7月芝麻布桜田町の武家屋敷の大火でも大喧嘩が勃発する。



消し口の取り合いから、辰五郎配下「を組」の梯子持ちの一人が、手元の狂った鳶口を脳天に受け重傷を負った。 これを見た「を組」の鳶はいきり立ち、あわや大乱闘となろうとする図となったが、それを見て取った辰五郎がその渦中に飛び込み、



「この喧嘩は辰五郎があずかった」



と割って入った。



丁度そこへ注進によって南町奉行池田播磨守が駆け付け、



「辰五郎、この仲裁、その方に任せたぞ。」



と、馬首を帰して引き揚げて行ったらしく、辰五郎の仲裁で喧嘩は丸く収まり、下手人を出さずに済んだという。



こうした事実を見ると、この時すでに新門辰五郎は、お上からも一目置かれる俠客として名が通って居たに違いない。



以上の事は、『江戸火消し年代記』に記載の史実であるが、辰五郎が如何に統率力に優れ、義俠心に富んでいたかが見てとれる。



それから数年後、町田氏に跡目と見込まれていた辰五郎は、町田氏の娘と結婚し、辰五郎24歳にして「を組」の組頭となり、十番組の頭取にまで収まったという。







 弘化二年(1845年)正月二十四日、江戸の大火事が起きる。



この大火で武家火消し、町火消しの全員が出勤した。



辰五郎率いる十番組は芝三田の久留米藩邸付近へ出勤したが、有馬頼永の率いる武家火消しが出張ってきて、「を組」の纏い持ちを突き飛ばし火消し口を奪ってしまった為、当然おさまらず、喧嘩に発展した。



辰五郎は、この喧嘩の責任者としての責任を取らされ、江戸十里外に追放とされてしまう。



しかし追放された新門辰五郎は、夜になると秘かに愛妾宅にやって来ては、あれこれと采配を振るった為、それが役人の耳に入り再逮捕される羽目となる。



 辰五郎は事実を否認したので、酷い拷問を受けたが一切口を割らず、手を焼いた奉行所は、二人の愛妾を証人に呼び対決させたが、それでも辰五郎は落ちなかったという。



その結果、辰五郎は佃島へと送られる羽目となった。



弘化三年(1846年)1月15日に江戸の大火が起き、その火は辰五郎が収監されている佃島迄襲った。その時辰五郎は持ち前の俠気と、火消しの頭取としての経験を生かし、囚人達を指揮して消火に当たった為、その功を御上に認められた事によってご赦免となるのである。



 辰五郎は、「興行師はもとより、浅草観音参詣客相手の露天商からカスリを上げ、博打も打った為に、的屋・博徒の両方から畏怖された」…と、ある。



辰五郎は、鳶人足はもとより、ごろつき、罪人、寄場帰りの者、流れ者など、区別なく抱えた為、その子分は2000人も3000人もいたとい。







こうして幕末の鳶人足・町火消しを代表する親分・新門(町田)辰五郎は、興行師はもとより、テキヤ、博徒の双方から畏怖される大親分と成って行ったのだ。



辰五郎は支援者にも恵まれていた。



辰五郎は、上野東叡山の管轄下にあった浅草寺の門番方を、上野大慈院の義寛より任される。 門番方というと錯覚されがちであるが、それは端役などではなく、要は浅草寺の風紀衛生を取り仕切るだけの事で無く、境内の一切の利権、つまりは露店や仮設興行、見世物などの総てを任せられたのである。



これに付随して、人ごみを縄張りとするスリや街頭易者などからも付け届けが届くといったように、莫大な資金源と成った事は言うまでもない。なんでも、こうして集まるゴミ銭を入れてあった押入れの床が抜けた程にゴミ銭が集まったという。



藤口透吾によれば、この上野大慈院の義寛が、後の十五代将軍となる徳川慶喜に結びつけたのだという。



辰五郎の娘は徳川慶喜の愛妾に成っている。



その故あってか、幕府の統制が緩み、時流の流れから叛乱の狼煙が上がる頃になると、慶喜は、辰五郎を頼るようになり、様々な文献を見るにその間柄は旗本並みに親密である。  



文久三年(1863年)、十四代将軍徳川家茂が京都警備の必要から上洛する事と成り、二条城に入城するにあたり徳川慶喜も同行した。



この際、慶喜の警護として辰五郎は子分300人を従え一行に加わったというから、本物の佐幕派だったことが伺える。



 十四代徳川家茂が急死すると、十五代として徳川慶喜が誕生するが、鳥羽伏見の戦いに幕軍が敗れた事を聞いた徳川慶喜は、大阪城から開陽艦(幕府の軍艦)に周囲の主だった者と乗り込み、撤退の準備に取り掛かった。



しかしその際、家康公から代々受け継がれてきた徳川の馬印(大金扇の馬印)を大阪城に忘れてしまい、その馬印を取ってくるよう辰五郎に命じた。



辰五郎は二つ返事でそれを請け負い、見事に大阪城から奪還するに成功し、東海道を上って追っかけたという事である。



また慶喜が大政奉還して、水戸へ謹慎する事と成ったときは、御用金の二万両は辰五郎が輸送した。と、田村栄太郎氏は書いている。



『氷川情話』などを見ると辰五郎は、幕末の三舟で名高い勝海舟との繋がりもあったらしく、



「新門の辰はもののわかった男だ。こういう男は金や威光では動かず、意地で行動する」



などと記載してある。



 勝海舟と西郷隆盛との会談が決裂した場合、江戸市中に放火する役目を仰せつかっていたのが辰五郎らだったという説もあるが、その辺は定かではない。



史実を見ると、 慶応四年(1868年)一月、朝廷は鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜に対し、徳川征討令を発し、薩摩・長州の藩兵を主流とする五万の征討軍は直ちに江戸に向かった。



これを聞いた慶喜は、即座に大政奉還して上野東叡山大慈院に蟄居し、恭順謝罪書を御上に提出した上、江戸城を征討軍に引き渡したが、それをよしとしない旧幕臣配下の彰義隊五千人が、上野の山にこもり最後の抵抗を試みた。



勝海舟は、両軍の戦火で江戸市中が火の海と化すことを懸念し、町火消し四十八組に出動態勢を取らせる一方、親分衆に働きかけて、江戸市中の警備を要請したとなっている。



辰五郎はこの時、「を組」の二百数十人を引き連れて、征討軍の放火で燃え上がる東叡山に駆け上り消火にあたっている。



勝は官軍の江戸進撃の前夜、手薄になった江戸の治安を、町火消しとごろつきの親分たちに頼みまわったが、親分たちは勝の申し入れを二つ返事で引き受けたという。



勝は、官軍江戸入城後、無政府状態であったにもかかわらず、放火や盗賊の横行が少なかったのは、彼らの力による処が大きいと評価している。



明治二年(1869年)九月、徳川慶喜は謹慎を解かれ、水戸から静岡へと移った。この際も辰五郎は慶喜に同行している。







静岡では、勝と共に幕末の三舟の一人といわれ、勝海舟の腹心であり、西郷隆盛と直談判し江戸城を無血開城へと導いた立役者の一人、山岡鉄舟がおり、また、鉄舟を師事していた清水港の親分、ご存じ清水次郎長ともこのとき出会い、共に親睦を深めた。



辰五郎と次郎長はその後、兄弟分の契りを交わしたという。



勝の腹心・山岡鉄舟を、西郷隆盛との江戸城無血開城への会談に向かう際、護衛をした一人が次郎長だった。



明治二年(1871年)、東京府に消防庁が設立され、町火消しは従来の町抱えから、府の直轄になったことなどから、慶喜の警護を清水次郎長(当時50歳)に託し、浅草に戻る。



明治八年(1875)九月十九日、浅草馬道の自宅で病没する。



新門辰五郎 享年70歳


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