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2015年09月21日

山口組HPより『日本任侠道の歩み』を現代用語で要訳してみた その一

その一  ヤクザの成り立ちから江戸時代中期まで

東京都小金井市にある浄土宗系の単立寺院の長兵衛

日本任侠道の歴史を文献などに見るに、様々な学者の見解があるが、尾形鶴吉は、室町時代〜戦国時代末期の遊侠無頼の簇出が侠客の退治としている。(ヤクザと日本人 猪野健治/著 参照)

皆さんも知る室町時代の英雄、楠木正成公の冠「悪徒」から端を発し、そうした正義の為には己を顧みないとする男気の強い者達を、悪徒・男立などという呼び方をし、この者達が始まりであったとされる。この時代から、時代のひずみから生まれた、カブキ者・浮浪人などと呼ばれる時代の異端児達が現われたとの事だ。

戦国末期を経て江戸時代に移行すると、呼び方も様々となり、そうした者達が侠客の原点なのだとされている。



流動体が人間の本然なのであるから、定着性を持ってから人間性にひずみを生じ、ひずみの方を生活の定型としたところにあらゆる人間の不幸がはじまったと、藤田五郎は書いている。



話は少し逸れるが、猪野健児/著「ヤクザと日本人」によれば、この仁侠道を重んじるヤクザ社会のヤクザという語源は、花札博打で言うところの八九三、足してブタ、点にならないカス札からきた訳だという説と、役参・厄座、という当て字から来たものだという説も示されており、この役参は江戸末期、博徒が町方の与力、同心の手先を務めたことから、役に参ずる→役参と、書くようになったとされている。



厄座は、文字通り厄な座の意であるとし、稼業そのものが法度で、斬った張ったが日常のヤクザには、明日の安らぎはない。



彼らはそんな境遇を自ら「厄な座(やくなざ)」と称したのだろうともしている。



他、私の知る限りでは、地域の治安維持の為、藩内の各町の血気盛んな荒くれ者を集め、その役を与え、それ等を纏める顔役を棟梁として迎えた。役の上に座るの意から、「役座」とした事が語源になったという説もある。



さて、本題に戻るが、こうした無頼の徒をまとめる顔役(親分)が出てくる。その最も著名な者として、番随院長兵衛がいる。



日本任侠道の原点は、番随院長兵衛であるとして進めていきたい。江戸時代に入って人間のひずみが、旗本奴と町奴の対立となって現れた。



江戸時代初期の旗本達は、我らの天下と鼻息が荒く、町人や奉公人に対して問答無用斬り捨て御免の行動があり、奴(若党)にも被害が多かった。



そうした旗本達に対して、自衛的な奉公人連盟をつくってその棟梁に座ったのが大島逸平であった。



大島は、旗本北河権兵衛が些細なことから若党を手打ちにしたことから端を発し、同僚の石井猪助が友の敵として主人権兵衛を殺害した件で、役人が捉え詰問した処、



「同僚の仇討ちをして何が悪いか。これが大島組の盟約だ。」



と、胸を張っていったものだから、幕府は主人より同僚を大切にされては封建制の基盤が崩れると危惧し、体制の維持のために大島組の主だった者三百余人と共に捕らえられ処刑された。



大島は江戸の侠客の元祖として尊敬され、新しい時代の強力な町奴の誕生を見るようになる。



そこに登場するのが「おわけぇの、お待ちなせえ…」のセリフで有名な番随院長兵衛なのである。



当時、穀潰しとされていた諸大名の旗本の家に生まれた次男、三男坊達が、徒党を組んでは悪事を働いていた。その乱暴狼藉は凄まじいものであった事は論を待たない。



商家から「お断り」と称して金品を巻き上げる徒党になっていく。



これに対して、庶民の前衛と成って擁護した者達の誕生が町奴の存在なのである。



町奴の親分は一種の人入れ稼業を営んでいたようだ。



長兵衛は常に庶民側に立って旗本奴達と闘って行くのだが、その心情としては、常に周囲を巻き込まぬようにと気遣っていたという。



そこには自身の利害など全く存在しない。まさに無私無欲、庶民の前衛となっている事を痛感させられるのである。



弱き者には滅法優しく、強き者には徹底して押し切るといった姿が歴然としているから痛快である。



同時に庶民に慕われた事実は論を待たない。同時に多くの子分を有した事実を一見しても、長兵衛が優れた侠客であった事を思わずにいられない。



長兵衛は常に毅然とし、勇猛果敢でありながらも判断力に優れ、多面に気配りのある人柄であったに違いない。



やがて長兵衛は、水野十郎左衛門達旗本奴の罠である事を予感しつつも、「喧嘩の手打ち」をしたいというその誘いに乗り、ともの一人も連れずに水野の屋敷に出向く。



誘いから逃げれば当然蔑まれ、その侠が廃る。町奴の対面も保たれぬであろう。まして、日常繰り返される抗争の収まりが着かなくなる事を憂いたのだろう。



長兵衛は水野他、旗本奴白柄組三十数人が待ち構える中に、ゆったりと静かに入っていったという。



毅然と慇懃な挨拶をすると、水野から話の前にと風呂を進められる。



水野達は、風呂は裸にならなければ入る事ができない、つまりは寸鉄も帯びられないということから、長兵衛が用心し、臆病風を吹かせそれを断るだろうと踏んでの事だった。



断れば当然「町奴の首領は意気地がない」と、吹聴できると考えてのことだろう。



しかし、長兵衛は断らなかった。



堂々と裸になって敵陣で悠然と風呂に入って見せたのだ。



水野はじめ旗本奴達はその長兵衛の貫禄に驚嘆したが、同時に色めき立った。



やがて長兵衛は、その思いと裏腹に旗本奴の手に掛かり、勧められた風呂場の中で槍で突かれて絶命してしまうわけだが、この時、水野十郎左衛門の胸に番随院長兵衛の思いが届き、その死を酷く惜しんだという事に演劇ではなっている。



しかし、その実情は誰が知る由もない。



享年三十六歳 明暦三年(1657)七月の事であった。
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