2015年04月07日
右近衛権中将 在原 業平(ありわら の なりひら)肖像画 和歌 紙本墨画淡彩肉筆
右近衛権中将在原
生年 825年(天長 二) 没年 880年(元慶 四) 五十六歳
父 阿保親王 母 伊都内親王
在原行平の弟。 在原棟梁と 在原滋春の父。 真名序では「在原中将」と書かれている。相模権守の後に美濃権守になっているがその時期は不明。 父である阿保親王は平城天皇の第一皇子。
肖像画 和歌
「伊勢物語」の主人公
紙本墨画淡彩肉筆
肖像画のみのサイズは概ね 幅:20.5cm 高さ:33.5cm
在原 業平(ありわら の なりひら)
経歴[編集]
仁明天皇の蔵人となり、849年(嘉祥2年)従五位下に叙爵されるが、文徳天皇の代になると全く昇進が止まり不遇な時期を過ごした。清和天皇のもとで再び昇進し、862年(貞観4年)従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将・右近衛権中将と武官を歴任、873年(貞観15年)には従四位下に昇叙される。陽成朝でも順調に昇進し、877年(元慶元年)従四位上、879年(元慶3年)には蔵人頭に叙任された。また、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を奉りなどしている。 880年7月9日(元慶4年5月28日)卒去。享年56。最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
(額縁は後から適当なものを使用しました。)
おほかたは 月をもめでじ これぞこの つもれば人の 老いとなるもの
おほかたは ・・・ だいたいのところ (大方は)
これぞこの ・・・ それもそうだ
『そもそも私は、たいていのことでは月を愛でることはしない。
これはつまり、この月こそが、積もり積って人の老いの原因と
なるものなのだから。 』
奈良の宿泊予約 料理旅館大正楼というサイトに在原業平ゆかりの不退寺の案内があり、
その写真にこれに似た白黒コピーがありましたのでご紹介いたします。
http://ryokan.taishoro.com/2010/04/post_538.html
生年 825年(天長 二) 没年 880年(元慶 四) 五十六歳
父 阿保親王 母 伊都内親王
在原行平の弟。 在原棟梁と 在原滋春の父。 真名序では「在原中将」と書かれている。相模権守の後に美濃権守になっているがその時期は不明。 父である阿保親王は平城天皇の第一皇子。
肖像画 和歌
「伊勢物語」の主人公
紙本墨画淡彩肉筆
肖像画のみのサイズは概ね 幅:20.5cm 高さ:33.5cm
在原 業平(ありわら の なりひら)
経歴[編集]
仁明天皇の蔵人となり、849年(嘉祥2年)従五位下に叙爵されるが、文徳天皇の代になると全く昇進が止まり不遇な時期を過ごした。清和天皇のもとで再び昇進し、862年(貞観4年)従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将・右近衛権中将と武官を歴任、873年(貞観15年)には従四位下に昇叙される。陽成朝でも順調に昇進し、877年(元慶元年)従四位上、879年(元慶3年)には蔵人頭に叙任された。また、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を奉りなどしている。 880年7月9日(元慶4年5月28日)卒去。享年56。最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
(額縁は後から適当なものを使用しました。)
おほかたは 月をもめでじ これぞこの つもれば人の 老いとなるもの
おほかたは ・・・ だいたいのところ (大方は)
これぞこの ・・・ それもそうだ
『そもそも私は、たいていのことでは月を愛でることはしない。
これはつまり、この月こそが、積もり積って人の老いの原因と
なるものなのだから。 』
奈良の宿泊予約 料理旅館大正楼というサイトに在原業平ゆかりの不退寺の案内があり、
その写真にこれに似た白黒コピーがありましたのでご紹介いたします。
http://ryokan.taishoro.com/2010/04/post_538.html
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