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2021年07月08日
清水康一朗さんによるインド哲学のお話 2
Clubhouseでの清水康一朗さんによるインド哲学のお話の続きです。
インド哲学の元祖とも言えるヤージュナバリキュアが説いた、梵我一如。
つまり宇宙と真我は同じものという考え。
アートマンとは、wikipediaによると意識の最も深い内側にある個の根源とされています。それをヤージュナバリキュアは「非らず。非らず。」(neti neti)という言葉で表しました。
清水さんはヤージュナバリキュアとその妻マイトレーイとの会話を引用しましたが、それを抜粋すると次のようなものになります。
「アートマンこそ見るべきもの、聞くべきもの、考えるべきもの、認識すべきものなのだ。
マイトレーイよ。ああ、アートマンさえ見られ聞かれ考えられ認識されたなら、万物が知られるのだ。
いわば二元対立というものがあるならば、その場合、一方が他方を見る。その場合、一方が他方を嗅ぐ。
その場合、一方が他方を味わう。その場合、一方が他方を語る。その場合、一方が他方を聞く。その場合、一方が他方を考える。その場合、一方が他方に触れる。その場合、一方が他方を認識する。」
「しかし、人にとって全てがアートマンそのものとなった時、彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。この世の万物がそれによって認識するその当の本体を人は何によって認識できるのか。」
「この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは捉えることができない。捉えられないから。壊れることがない。壊されないから。こだわりがない。こだわらないから。つながれず、動揺せず、損なわれない。ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。」
....難しいですね。中々理解できないと思います。
おおざっぱにまとめると、自分とは何かを考えた時に、認識する主体(自分)と認識される対象(自分)が実は同じで、どこまでいっても自分すなわち宇宙全体が自分自身になるという事かな、と私は解釈しています。
清水さんによると、実際科学的にも物質としての脳がなぜ主観的な意識を持つのかは明らかにされていないそうです。
例えば、目からの信号からシナプスが出て脳に情報は伝達されますが、脳が「信号が赤」の場合になぜ赤が危険と認識してるのかは解明されていません。
つまり最新の科学的研究でも、私達がどんな存在でどう意思決定してるのかはまだ分からないのです。また、最先端の科学研究に行くほど、インド哲学の考え方に近づいていくという話も聞いたことがあります。
私たちは人生というドラマの出演者ではなくて、疑似的な問題として演じているだけ。それは映画「マトリックス」と同じ事と、清水さんはおっしゃられていました。
この世界には不可能はなくて、想像の世界では何でもできる。しかし、私たちは宇宙とのつながりを絶ってしまっているので、苦悩したり八方塞がりになったりする。
心と体を使っている本当のあなたは誰か?という問いかけがインド哲学のようです。
なんとなくはわかる気がするのですが、実際に理解するのは難しいのではないでしょうか。
例えば生活や経済的な問題を抱えている場合に、その問題は幻想で自分が都合の良い事を考えれば問題は解決する、などという体験をした人は少ないでしょう。
梵我一如=宇宙の真理という教えは、本来はバラモン(カースト制度の頂点に立つ司祭階級)の考えです。
しかし「自分たちと宇宙は一緒」という概念が広がったせいで、インドでは「自分もバラモンになれる」と思った多くの他の階級の人々が出家したり修行したりするようになったそうです。
そんな中、ブッダが登場。
ブッダは「苦行は必要ない」「アートマンは存在しない」と言ってしまいました。ブッダが自分の体験を通してたどり着いた答えが、「真我」はなく、あるのは「無我」という考え。
ブッダはもちろんインド哲学の教えから学んでいるのですが、何とその根幹となる考えを否定しているのです!
当時の社会から見たらかなり前衛的な新興宗教になるんですね、仏教って。私は清水さんの話を聞いて、初めて知りました。
この日の清水さんのお話はちょうどブッダが登場した所までだったので、次回以降にブッダの詳しい説明になると思います。