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2018年12月09日

西郷隆盛が設立した私学校とは?

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西郷隆盛は明治6年10月の政変に敗れて下野するが、これには薩摩藩出身の多くの官僚、軍人、警官が追従した。その人数は鹿児島県だけで数百人に及んだ。やがては、この人々を指導、教育する機関の設置が叫ばれるようになる。これを受けて、明治7年6月に鶴丸城の厩跡に、西郷、桐野利秋、篠原国幹、村田新八らによって私学校が設立された。西郷は私学校設立の目的を記した綱領を自らしたためているが、積極的に関与するつもりはなかった言われている。積極的だったのは、桐野利秋、篠原国幹、村田新八らだった。その私学校は、銃隊学校、砲兵学校、賞典学校からなっており、銃隊学校は篠原国幹、砲兵学校は村田新八が指導した。入校した人数は銃隊学校が500人以上、砲兵学校が200人以上で、少人数の賞典学校は将校の養成が行われていた。カリキュラムは午前中、銃隊学校、砲兵学校では中国の古典、兵法書を用いた漢学の授業があり村田新八らが訓話などをしたという。また、賞典学校では外国人教師による専門的な授業があり、成績優秀者数人を海外留学させたこともあった。その他、吉野開墾社も運営し、のちには県内各地に多数の分校が開校するようになる。その費用は、鹿児島県令(知事)大山綱良が県庁の予算から支出した。このような状況の私学校に新政府の大久保利通らが懸念を抱き警視庁の警官を密偵として視察(刺殺)?を送り、鹿児島の兵器弾薬製造所の弾薬の移動を行う。こののち歴史上最後の日本人通しの戦い西南戦争が勃発する。









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