2024年09月09日
トーマス・マンとファジィ2
Thomas Mannのイロニーを一種の推論と見なし、テキストのダイナミズムを考察する。題材とする「魔の山」がThomas Manの全集においてイロニーの交差点と見なされているからである。(Baumgart 1964:147)
Frommer (1966)によれば、 諸々の対象は論理的に共存不可能であるが、それを可能にするためにイロニ 一が使われる。イロニーは、最終的な決定を知らない、それ故に、一種の推論になる。「AでもなければBでもない」とか「AでもありBでもあ る」の観点を対話の単位と結びつける。すると、双方の側面に対して留保することにより、両方へ同時に接近することができるようになる。これは、美的で中立な表現として主人公Hans Castorpのイロニーとなり、その都度、他方を批判するために、双方の観点を交互に自分のものとし、彼自身の中で二重に矛盾した社会参加(アンガージユマン) の表現になっていく。
一方、これまで理論言語学の枠組みでイロニーを表現することは難しかった。 しかし、Thomas Mann のイロニーと Zadeh の ファジィ理論の間に複数の共通項(イロニーの原理)が見い出せること から、本書では、Thomas Mannのイロニーを形式論で表記するためにファジィ理論を採用し、テキスト(「魔の山」)のダイナミズムを考察していく。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
Frommer (1966)によれば、 諸々の対象は論理的に共存不可能であるが、それを可能にするためにイロニ 一が使われる。イロニーは、最終的な決定を知らない、それ故に、一種の推論になる。「AでもなければBでもない」とか「AでもありBでもあ る」の観点を対話の単位と結びつける。すると、双方の側面に対して留保することにより、両方へ同時に接近することができるようになる。これは、美的で中立な表現として主人公Hans Castorpのイロニーとなり、その都度、他方を批判するために、双方の観点を交互に自分のものとし、彼自身の中で二重に矛盾した社会参加(アンガージユマン) の表現になっていく。
一方、これまで理論言語学の枠組みでイロニーを表現することは難しかった。 しかし、Thomas Mann のイロニーと Zadeh の ファジィ理論の間に複数の共通項(イロニーの原理)が見い出せること から、本書では、Thomas Mannのイロニーを形式論で表記するためにファジィ理論を採用し、テキスト(「魔の山」)のダイナミズムを考察していく。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/12698827
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック