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2024年09月01日

トーマス・マンとファジィ9

 修飾語(sehr とても)、mehr oder weniger(多かれ少なかれ)も一種 の演算子(オペレーター)と見なされる。但し、多少の影響は出るが、概ね真理値に変更は出ない。つまり、考察される要素の特徴を強めたり弱めたりする程度である。例えば、sehrは、ファジィ理論の中でメンバーシップ関数の2 乗によって表記される。mehr oder wenigerは、メンバーシップ関数の平方根によって表記される。こうし た修飾語を使用することにより、ファジィ集合の様々な組み合わせが表記できようになる。
 ファジイ集合と修飾語の組み合わせの代わりに、独自の論理を定義することも可能である。これは、個々の集合の制限をそれぞれ決めることができるといった利点がある。

花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より

トーマス・マンとファジィ8

 集合論の演算と論理学の演算の違いを確認しよう。集合論の演算では、 2つのファジィ集合が完全に結合し、最後に再び集合が成り立つ。例えば、 我慢強い子供の集合は、月並みな子供の集合と結合し、最後に我慢強くて月並みな子供の集合が成立します。論理学の演算では、考察される要素の特徴が結び付けられ、最後に何れかの特徴を持った要素が立つ。ある子供の我慢強い特徴は、その子供の月並みという特徴と結びついて、我慢強くて月並みな特徴を持った要素(Hans Castorp) になる。
 面白いことに、人間は、論理思考において、和結合または共通結合を純粋に使用することはごくまれである。たいていは、双方の中間に存在する結合を使用している。「魔の山」の中で、Hans Castorp は主人公であり、Joachim Ziehmßenは一人の登場人物である。Hans Castorpは、孤児で我慢強く背丈は中ぐらい。Joachim Ziehmßenは、体の幅があり背丈も大きくて几帳面な男である。ここで、我慢強くて強い男が求められているとしよう。簡単のため、双方の特徴は、選択時に同じように重要であることが前提となっている。Hans Castorpは、我慢強いが、強いというほどではない。いわば、我慢強さに対しては、メンバー シップ値が0.9となるが、強さに対しては、0.5ぐらいです。 Joachim Ziehmßenについても、同様にメンバーシップ値を当てることができる。我慢強くて強い男の集合に対する双方のメンバーシップ値を求めるために、最小値を求める演算が適用される。
 古典論理では、この点が説明できない。我慢強くて強い男の集合は、 どちらも我慢強くて強い特徴を同時にそして完全に満たしていないため、空の集合になってしまう。一方、ファジィ論理は、こうした点を補 うことがでる。和結合と共通結合の間に相補演算子ラムダとガンマを置くからである。ラムダ演算子は、パラメータが純粋な和結合と純粋な共通結合の間のどこに位置しているのかを示してくれる。そして、λ = 0 の場合、共通結合の演算子となり、λ = 1の場合に、和結合の演算子になる。ガンマ演算子は、相補的な和結合の演算子ゆえに人間の感情をうまく再現してくれる。つまり、2つの集合のうちの一つを優先させるに際に効果がある。Gamma = 0の場合、和結合の演算子となり、Gamma =1の場合、共通結合の演算子となる。

花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より

トーマス・マンとファジィ7

 また、要素x0のメンバーシップ値μA(x0) への割り当てが、曖昧な場合がある。つまり、メンバーシップ関数μA(x0)自体が、曖昧となる場合が 想定される。これは、ウルトラファジィと呼ばれるケースである。上述したように、Hans Castorpは、幼少の時代に両親を亡くしていることから、元々我慢強い性格の持ち主といえる。両親が生きている間は甘えていられるが、一人になれば自ずと甘えは消えて我慢強くなる。この問題は、ウルトラファジイによって表現することができる。

花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より

トーマス・マンとファジィ6

 例えは、ダボスの療養所に到着した時点で23歳であった Hans Castorp の性格の一面を見てみよう。Hans Castorpの両親は、彼が5歳から7歳にかけて共に死亡している。最初に母親が塞栓症で亡くなり、父親も妻を頼っていたため、それ以来、精神的にもろくなり弱くなった。 頭が朦朧として、仕事でもミスが出始め、その結果、彼の会社 「Castorp & Sohn」は、莫大な損失を被った。翌々年の春に、強い風の吹く港にあった倉庫の検査をしている際、肺炎を患い、動揺した彼の心臓は高熱に耐えられず、手厚い介護にも関わらず亡くなった。その後、 Hans Castorpは、祖父にあずけられた。仕事がきついと健康が損なわれることは、上述のファジィ理論の表記を使用すると次のようになる。

μhard (momentary)=1
μhard (momentary) = 0.8
μhard, disordered (momentary) = min (1; 0.8) = 0.8


花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より

トーマス・マンとファジィ5

 ファジィ集合は、古典的な集合論の拡張であり、「若い」、「大きい」 などの言語上の変数によって表記される。また、「とても」、「ほとんど」、「かなり」といったいわゆる修飾語によっても変化することがある。例 えば、「背の大きい人達」という集合を考えてみよう。ここでは、言語の変数「大きい」が問題となる。「魔の山」において、Joachim Ziemßenは、 Hans Castorpよりも「背の大きい人達」という集合に属することになる。しかし、Joachim Ziemßenは、どの程度この集合の特徴を満たしているのであろうか。これを測るために、メンバーシップ値とメンバーシップ関数が存在する。(μA (x) = 0.7)これは、Xが集合Aに対して0.7のメンバーシップ値を持っていることを表している。

花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より

トーマス・マンとファジィ4

 「計算文学入門」は、ファジイ理論が古典論理の拡張であり真偽だけではなく、たくさんの中間段階を考察することができるという立場である。つ まり、ファジイ理論を言語処理に適用する面白さは、古典論理で言う真偽では説明ができない数字のずれや、「ほとんど」とか「かなり」とい った修飾語を伴う日常表現も説明できる点にある。例えば、夏期休暇の避暑地における滞在に関して、「長い」の下限を21日とする。古典論理 では、21日以上の場合、割り当て可能であるが、21日未満の場合、不可能となる。
 しかし、20日間の滞在でも、全く該当しないわけではない。 それどころか、ほとんど該当する。こうした奇妙な現象を解決するために、ファジイ理論は、メンバーシップ値を採用する。これにより、20日間の滞在は、95%「長い」となり、18日間の滞在は、86%「長い」となる。また、両方の数字の間には、ファジイコントロールと呼ばれる計算術が存在し、それは、ファジイ化、推論そして脱ファジイ化という3つのステップがある。以下では、簡単な用例を確認しながら、トーマス・マンとファジィの相性の良さを見ていこう。

花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より

トーマス・マンとファジィ3

イロニーの原理

a) 定義 Thomas Mannは、彼の散文の条件として常に現実から距離を置く。一つには、現実をできるだけ正確に考察するために、また一つには、 それを批判するために、つまり、イロニー的に。…この批判的な距離は、 イロニー的な距離になりうる。実際に、批判的な表現における簡潔さには、余すところなく正確に規定された概念言語の要求に対して、 言語媒体そのものの特徴から反対の行動をとるある種の制限が設けられている。一方、ファジイ理論は、システムが複雑 になればなるほど、より正確な記述ができなくなることを主張する。

b) 特徴 双方に共通の特徴として、主観性を想定することができる。周知の通り、ファジィ理論は、科学の中に客観性ではなくて、主観性を導入する。 一方、Thomas Mann と Hans Castorp が歩んでいく道をベースにしたイロニーの原理は、自己を乗り越える原理である。 つまり、ファジィ理論における主観性は、個人的な主観であり、Thomas Maimの主観性は、超個人的な主観(主体性)となる。しかし、何れにせよ双方共に個人による規定や決定が問題となっており、両者をまとめて広い意味で主観と呼ぶことができる。

c) 語の選択 Thomas Mannが使用するイロニー的な語彙、例えば、形容詞とか副詞は、意図的な不正確さを通して言葉が持っている本来の意味合いをはずす。一方、ファジイ集合によって表現される概念は、「背の大きい人達」や「多かれ少なかれ」といった曖昧な概念であり、外延的でも内包的でもない中間的なものとなる。

花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より

トーマス・マンとファジィ2

 Thomas Mannのイロニーを一種の推論と見なし、テキストのダイナミズムを考察する。題材とする「魔の山」がThomas Manの全集においてイロニーの交差点と見なされているからである。(Baumgart 1964:147)
Frommer (1966)によれば、 諸々の対象は論理的に共存不可能であるが、それを可能にするためにイロニ 一が使われる。イロニーは、最終的な決定を知らない、それ故に、一種の推論になる。「AでもなければBでもない」とか「AでもありBでもあ る」の観点を対話の単位と結びつける。すると、双方の側面に対して留保することにより、両方へ同時に接近することができるようになる。これは、美的で中立な表現として主人公Hans Castorpのイロニーとなり、その都度、他方を批判するために、双方の観点を交互に自分のものとし、彼自身の中で二重に矛盾した社会参加(アンガージユマン) の表現になっていく。
 一方、これまで理論言語学の枠組みでイロニーを表現することは難しかった。 しかし、Thomas Mann のイロニーと Zadeh の ファジィ理論の間に複数の共通項(イロニーの原理)が見い出せること から、本書では、Thomas Mannのイロニーを形式論で表記するためにファジィ理論を採用し、テキスト(「魔の山」)のダイナミズムを考察していく。

花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より

トーマス・マンとファジィ1

 Thomas Mann は、散文の条件として常に現実から距離を置く。一つには、現実をできるだけ正確に考察するために、また一つには、それを批判するために、つまり、イロニー 的に。…この批判的な距離は、イロニー的な距離になりうるであろう。実際、批判的な表現における簡潔さには、余すところなく正確に規定された概念言語の要求に対して、言語媒体そのものの特徴から反対の行動をとるある種の制限が設定されている。
 そして、ザデーはいう。正確さと複雑さは、両立が困難である。システムの複雑さが増すと、その振舞いについて正確ではっきりとした主張はできなくなってくる。例えば、現実の経済と関連したシステムの振舞いを推測することは、大変に難しい。
 つまり、トーマス・マンもザデーも、物事を深く正確に突き詰めていってもそこ には限界があり、逆に深追いしないことにより良い結果が得られることを主張している。そこで私のブログでは、ファジイ理論とThomas Mannのイロニーをさらに掘り下げて、両者の整合性を見ていくことにする。 そして、トーマス・マンの「魔の山」の購読脳の出力は、イロニーとファジィとし、これが横に滑って作家の執筆脳であるファジィとニューラルにたどり着くというストーリーである。この小論では、ファジィは様相を拡大した推論であり、ニューラルは直感とする。

花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より

2024年08月31日

「ヨセフとその兄弟」の「ヤコブ物語」から見えてくるファジィ測度について12

◆ 飢饉が激しくエジプトから携えた穀物を食い尽くしたため、父イスラエルはユダに言った。この国の名産を器に入れ、その人に贈りなさい。乳香、蜜、香料など。(創世記43章)
◆ ヨセフとユダと兄弟たち。父に対して永久に罪を負う。忍びないから。(創世記44章)
◆ ヨセフは、皆に出て行くように言った。エジプトの主としてヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。全ての兄弟たちに口づけをして泣いた。(創世記45章)
◆ イスラエルは、持ち物を携えてペシルバへ行き、父イサクの神に犠牲を捧げた。(創世記46章)
◆ バロと羊飼いのやり取り、カナンは、飢饉が激しくゴセンに住みたいと。ヨセフも賛成する。ヨセフは、エジプトの地をバロに与えた。イスラエルもエジプトのゴセンに住み、財産と子を増やした。ヤコブのよわいの日は、百四十七年。(創世記47章)
◆ ヤコブとヨセフの子孫の区切り。(創世記48章)
◆ ヤコブは、子らを呼んで後に彼らの上に起こることを告げた。イスラエルの十二の部族。(創世記49章)
◆ ヨセフの父イスラエルの死に際し、父に薬を塗った。四十日を要した。ヨセフは、父の家族と共に四十日エジプトに住んだ。そして百十年生きながらえた。ヨセフも死に際して薬を塗られ棺に埋葬されエジプトに安置された。(創世記50章)

花村嘉英(2019)「「ヨセフとその兄弟」の「ヤコブ物語」から見えてくるファジィ測度について」より
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プロフィール
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花村嘉英
花村嘉英(はなむら よしひさ) 1961年生まれ、立教大学大学院文学研究科博士後期課程(ドイツ語学専攻)在学中に渡独。 1989年からドイツ・チュービンゲン大学に留学し、同大大学院新文献学部博士課程でドイツ語学・言語学(意味論)を専攻。帰国後、技術文(ドイツ語、英語)の機械翻訳に従事する。 2009年より中国の大学で日本語を教える傍ら、比較言語学(ドイツ語、英語、中国語、日本語)、文体論、シナジー論、翻訳学の研究を進める。テーマは、データベースを作成するテキスト共生に基づいたマクロの文学分析である。 著書に「計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?」(新風舎:出版証明書付)、「从认知语言学的角度浅析鲁迅作品−魯迅をシナジーで読む」(華東理工大学出版社)、「日本語教育のためのプログラム−中国語話者向けの教授法から森鴎外のデータベースまで(日语教育计划书−面向中国人的日语教学法与森鸥外小说的数据库应用)」南京東南大学出版社、「从认知语言学的角度浅析纳丁・戈迪默-ナディン・ゴーディマと意欲」華東理工大学出版社、「計算文学入門(改訂版)−シナジーのメタファーの原点を探る」(V2ソリューション)、「小説をシナジーで読む 魯迅から莫言へーシナジーのメタファーのために」(V2ソリューション)がある。 論文には「論理文法の基礎−主要部駆動句構造文法のドイツ語への適用」、「人文科学から見た技術文の翻訳技法」、「サピアの『言語』と魯迅の『阿Q正伝』−魯迅とカオス」などがある。 学術関連表彰 栄誉証書 文献学 南京農業大学(2017年)、大連外国語大学(2017年)
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