2019年05月26日
家族の木 THE SECOND STORY 俊也と真梨 <12 実父>
実父
真梨が大学を卒業した年、僕は会社を辞めた。この年僕と真梨の本当の意味の結婚生活はスタートした。会社を辞めて2カ月ぐらい生まれて初めて無職になった。
最初の一週間は暇で暇で毎日がウキウキした。次の一週間は暇で暇でまるで主夫のように夕飯を作って真梨が返ってくるのを待っていた。カレーとチャーハンとチキンライスを二巡して自己嫌悪に陥った。次の一週間は暇で暇でもう何もすることがなかった。
叔父が四国の父に会いに行くように言ってくれた。生まれ故郷を訪ねて来いと言ってくれたのだ。叔父は「父親の生きざまを見たら人生観が変わる」と教えてくれた。真梨は一緒に行きたいといったが僕は断った。みじめな実父の姿を新婚の妻に見られるのは恥ずかしかった。
僕の仕事以外の一人旅はこれが最後になった。車は止めて飛行機と鉄道を使った。本当に田舎だった。僕がすっかり忘れていた生まれ故郷の町は海産工場の町だった。父が作業をしている横で遊んでいた記憶がよみがえってきた。母も作業をしていた。
そして、祖父が母を叱り飛ばす声もよみがえった。祖父は「とっろいのお。何やらしても役にたたんわ。」と皆の前で母を罵倒していた。今思えば母は激しい嫁いびりにあっていたのだ。父は母の肩を持つでもなく黙々と作業をするだけだった。
そのころの母の姿をぼんやりと思い出した。おなかが大きかった。そうだ、母はあのころおなかが大きかったのだ。その子はどうなった?海産物問屋や小さな工場が点在する漁港町を歩きながら、おもわず立ち止まってしまうほどの衝撃だった。
父の乾物屋は商店街のはずれにあった。間口が狭くてアルミサッシの戸が閉まった店だった。「本山乾物店」と看板があがっていた。それは僕の生家の屋号だった。午後2時を過ぎた店内には客はいなかった。「こんにちは」ガタつくアルミサッシの戸を開けて声をかけた。
中から白髪頭のオヤジが出てきた。ヨレヨレのポロシャツと作業ズボンに黒の長靴を履いていた。オヤジはしばらく呆然と僕を見つめた後、穏かな声で「俊也か?」と聞いた。よう、わかったな。」という僕に「俺に似て、ええ男やからな。」と答えた。
涙の再会を予想していたが静かで穏やかな再開になった。「上がるか?ゆっくりできるんか?」と聞かれたので、「うん」と答えて店の奥の畳の間に上がった。
何もない。殺風景だが掃除は行き届いていた。「ビールいけるか?」と聞かれたので「まだ商売あるんやろ。お茶でええよ。」と答えた。「いくらなんでも店閉めるわな。こんな日、もう一生けえへんわ。」という返事だった。
そして、立ち上がって店の入口の細いシャッターを降ろした。冷蔵庫から缶ビールを取り出して畳の上にトンと置いた。店の売り物らしい干物を焼いてくれた。
「実は2年前に結婚して今は東京住まいや。」「おう、田原さんから手紙来てる。お嬢さんらしいな田原さんの。ようお嬢さんもらえたな。」と言った。僕は「うん、向こうが僕を望んでくれた。」と言うと、父は「お嬢さんが惚れてくれたんか?」と聞くので「うん」と自慢した。父は苦笑いをしたが嬉しそうだった。
父が大きなアルミ製の菓子箱を出してきた。その中には、たくさんの手紙が入っていた。輪ゴムで丁寧に整理されていた。差出人は田原聡のものもあったし、田原真一のものもあった。
「二人とも手紙出してるのん自分だけやと思たはる。さすが双子や。」と父が言った。
若いころから驚くほどよく似た顔をした二人を父は双子だと思っていたようだ。
小学校、中学校、高校の入学式の写真があった。東大の正門前で撮った写真もあった。当然のように結婚式の写真もあった。継父と叔父は顔が似ているだけではなくすることもよく似ていた。「俺は一回も返事ださんよ。奥さん方に知れたら悪いからな。」と父は言った。父は自分の妻だった女を「奥さん」と呼んだ。涙が出そうになった。
「お前が、どんどん立派になっていくよってに俺もまじめにがんばれたわ。田原さん約束守ってくれた。」と静かにほほ笑んだ。昔、母に重傷を負わせた男は、今は穏やかな老人になっていた。
「なあ、お母さんのおなかの子はどうなったん?」と気になっていたことを尋ねた。「覚えとったんか?無理さしたさかいに死産してしもた。その一週間後に実家へ帰ったんや。頼りない亭主に見切り付けたんや。
実家ゆうても父親も母親もうちの使用人やった。連れ戻されるのんが嫌やったさかいにお前連れて大阪へ逃げたんや。たぶん母親が逃がしたんやと思う。」と答えて「すまんことしたなあ。」と謝った。
夕方まで話してその日は帰った。帰り際に「しんどい日は電話してくれ。嫁さんも、お父さんのことわかってる。気兼ねするな。」と声をかけた。父は「ありがとう。別れはいっつもつらいのう。」と言って初めて涙ぐんだ。僕の親権を渡した日、父は泣いたのだろうと思った。
その年のクリスマスには真梨が父に手紙を書いて毛布を贈ってくれた。クリスマスのプレゼントは3年間継続されたが4年目の8月に父は帰らぬ人となった。リンパ腫だった。
遺された預金は予想外に多く800万円に上った。通帳には僕の名前の付箋が貼ってあった。別れた年から細々とためられていた。親を甘く見てはいけない。
続く
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真梨が大学を卒業した年、僕は会社を辞めた。この年僕と真梨の本当の意味の結婚生活はスタートした。会社を辞めて2カ月ぐらい生まれて初めて無職になった。
最初の一週間は暇で暇で毎日がウキウキした。次の一週間は暇で暇でまるで主夫のように夕飯を作って真梨が返ってくるのを待っていた。カレーとチャーハンとチキンライスを二巡して自己嫌悪に陥った。次の一週間は暇で暇でもう何もすることがなかった。
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僕の仕事以外の一人旅はこれが最後になった。車は止めて飛行機と鉄道を使った。本当に田舎だった。僕がすっかり忘れていた生まれ故郷の町は海産工場の町だった。父が作業をしている横で遊んでいた記憶がよみがえってきた。母も作業をしていた。
そして、祖父が母を叱り飛ばす声もよみがえった。祖父は「とっろいのお。何やらしても役にたたんわ。」と皆の前で母を罵倒していた。今思えば母は激しい嫁いびりにあっていたのだ。父は母の肩を持つでもなく黙々と作業をするだけだった。
そのころの母の姿をぼんやりと思い出した。おなかが大きかった。そうだ、母はあのころおなかが大きかったのだ。その子はどうなった?海産物問屋や小さな工場が点在する漁港町を歩きながら、おもわず立ち止まってしまうほどの衝撃だった。
父の乾物屋は商店街のはずれにあった。間口が狭くてアルミサッシの戸が閉まった店だった。「本山乾物店」と看板があがっていた。それは僕の生家の屋号だった。午後2時を過ぎた店内には客はいなかった。「こんにちは」ガタつくアルミサッシの戸を開けて声をかけた。
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父が大きなアルミ製の菓子箱を出してきた。その中には、たくさんの手紙が入っていた。輪ゴムで丁寧に整理されていた。差出人は田原聡のものもあったし、田原真一のものもあった。
「二人とも手紙出してるのん自分だけやと思たはる。さすが双子や。」と父が言った。
若いころから驚くほどよく似た顔をした二人を父は双子だと思っていたようだ。
小学校、中学校、高校の入学式の写真があった。東大の正門前で撮った写真もあった。当然のように結婚式の写真もあった。継父と叔父は顔が似ているだけではなくすることもよく似ていた。「俺は一回も返事ださんよ。奥さん方に知れたら悪いからな。」と父は言った。父は自分の妻だった女を「奥さん」と呼んだ。涙が出そうになった。
「お前が、どんどん立派になっていくよってに俺もまじめにがんばれたわ。田原さん約束守ってくれた。」と静かにほほ笑んだ。昔、母に重傷を負わせた男は、今は穏やかな老人になっていた。
「なあ、お母さんのおなかの子はどうなったん?」と気になっていたことを尋ねた。「覚えとったんか?無理さしたさかいに死産してしもた。その一週間後に実家へ帰ったんや。頼りない亭主に見切り付けたんや。
実家ゆうても父親も母親もうちの使用人やった。連れ戻されるのんが嫌やったさかいにお前連れて大阪へ逃げたんや。たぶん母親が逃がしたんやと思う。」と答えて「すまんことしたなあ。」と謝った。
夕方まで話してその日は帰った。帰り際に「しんどい日は電話してくれ。嫁さんも、お父さんのことわかってる。気兼ねするな。」と声をかけた。父は「ありがとう。別れはいっつもつらいのう。」と言って初めて涙ぐんだ。僕の親権を渡した日、父は泣いたのだろうと思った。
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遺された預金は予想外に多く800万円に上った。通帳には僕の名前の付箋が貼ってあった。別れた年から細々とためられていた。親を甘く見てはいけない。
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