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2018年11月21日
社会進出によって変わっていく化粧意識
近代化に拍車をかけるように、大正3年(1914年)、日本も欧米の国々と肩を並べようと、第一次世界大戦に参戦。軍需品の輸出で好景気となり、人々の消費や生活が向上していきました。こうした中、欧米と同じく女性の社会進出も進み、女性たちのよそおいは大きく変化していきました。
女性たちが化粧をする意識や目的は、時代や社会状況によって絶えず変化してきました。明治時代の文明開化には、それ以前の伝統的な化粧ではなく、西洋文化の影響を強く受けたものに変化しました。明治時代には外見による身分や年齢、未既婚を示す制約が薄れていったのです。
そして、大正時代に入ると、化粧意識は再び大きく変化します。明治時代の中ごろから日本でも社会に出て働く女性が登場しはじめましたが、大正時代にはさらに増加し、百貨店の店員、看護師、事務員、電話交換手など、女性たちはさまざまな職業に就いていきました。それは、女性たちにとって外出する機会を増やし、多くの人とコミュニケーションをとることが求められることとなりました。
人と接する機会が増えた女性たちにとっての化粧は、コミュニケーションの上で、相手に不快な印象を与えないマナーでもあることを強く意識させるようになりました。つまり、大正時代は、美しくあるための化粧と、社会にうまく適応するマナーとしての化粧、両方を兼ね備えた、現代の女性たちと同様の意識を持ちはじめた時代といえます。では、そんな時代のスキンケアやメークアップはどのようなものだったのでしょうか。
大正時代のスキンケア 〜石鹸洗顔、化粧水、クリームの普及〜
素肌の美しさを保つために洗顔が重要視されているのは今も昔も同じこと。洗顔料は糠[※1]や洗い粉[※2]、また石鹸を使って洗顔をしていました。ただ、石鹸は輸入品とともに明治時代には製造もされていましたが、とても高価で庶民の手には届かないものでした。しかし大正時代になって、安価で品質もよいものが作られるようになり、石鹸を使うことが少しずつ一般に浸透していきました。
洗顔をした後は、肌を整え白粉のノリを良くするために、化粧水やクリームを使いました。化粧水は【美顔水】や【ヘチマコロン】と呼ばれたベーシックなものから、「日焼けを防ぎ、色を白くする」など美白効果を謳った【ホーカー液】や【レートフード】といった商品が大流行しました。当時、旅行や海水浴など、レジャーやスポーツを楽しむ女性たちも増え、自然に日焼けに対処する化粧品に注目が集まりました。より白い肌を求める気持ちは現代の女性たちと変わらなかったのです。
また、クリームも肌を整える化粧下地として明治末期から大正時代にかけて需要が高まっていきました。当時、健康的で自然な美しさが求められていたことから、油性のクリームよりもさっぱりとした薄化粧に仕上がる無脂肪性のクリーム、バニシングクリームに人気がありました。また、バニシングクリームは化粧くずれしにくく、長時間美しさを保てるものとして、昭和まで長く愛用されていきました。
一方、女性たちのメークアップはどのようなものだったのでしょうか。基本は無鉛白粉でベースメークを仕上げた後、ポイントメークとして眉墨で眉を書き、唇には紅を付けるのが基本でした。紅はそれまでの紅猪口に代わって、携帯しやすいスティック状のものが欧米から輸入されるようになります。現代では普通に使っているスティック状の紅ですが、大正7年にようやく国産品が発売されてから、だんだんと一般女性へと広まっていきました。
また、このころ白粉をつけた肌の血色を良くし、健康的で表情を豊かにするものとして、頬紅も注目されるようになりました。さらに、現代には欠かせない化粧道具、外出先でも手軽に化粧直しができるコンパクトが使用されるようになったのもこのころのことです。特に欧米からの輸入コンパクトは、機能性とアクセサリーのような美しさから、一般女性たちにとって憧れの化粧道具でした
学校や仕事へと、社会に出ること、スポーツやレジャーを楽しむこと、女性たちのライフスタイルがより活動的に変化した大正時代。女性たちのよそおいは、おしゃれであることはもちろん、社会的マナーとしての化粧が意識されるようになり、化粧品や化粧道具には、より短時間でできる手軽さや、機能性が求められるようになりはじめた時代でした。
女性たちが化粧をする意識や目的は、時代や社会状況によって絶えず変化してきました。明治時代の文明開化には、それ以前の伝統的な化粧ではなく、西洋文化の影響を強く受けたものに変化しました。明治時代には外見による身分や年齢、未既婚を示す制約が薄れていったのです。
そして、大正時代に入ると、化粧意識は再び大きく変化します。明治時代の中ごろから日本でも社会に出て働く女性が登場しはじめましたが、大正時代にはさらに増加し、百貨店の店員、看護師、事務員、電話交換手など、女性たちはさまざまな職業に就いていきました。それは、女性たちにとって外出する機会を増やし、多くの人とコミュニケーションをとることが求められることとなりました。
人と接する機会が増えた女性たちにとっての化粧は、コミュニケーションの上で、相手に不快な印象を与えないマナーでもあることを強く意識させるようになりました。つまり、大正時代は、美しくあるための化粧と、社会にうまく適応するマナーとしての化粧、両方を兼ね備えた、現代の女性たちと同様の意識を持ちはじめた時代といえます。では、そんな時代のスキンケアやメークアップはどのようなものだったのでしょうか。
大正時代のスキンケア 〜石鹸洗顔、化粧水、クリームの普及〜
素肌の美しさを保つために洗顔が重要視されているのは今も昔も同じこと。洗顔料は糠[※1]や洗い粉[※2]、また石鹸を使って洗顔をしていました。ただ、石鹸は輸入品とともに明治時代には製造もされていましたが、とても高価で庶民の手には届かないものでした。しかし大正時代になって、安価で品質もよいものが作られるようになり、石鹸を使うことが少しずつ一般に浸透していきました。
洗顔をした後は、肌を整え白粉のノリを良くするために、化粧水やクリームを使いました。化粧水は【美顔水】や【ヘチマコロン】と呼ばれたベーシックなものから、「日焼けを防ぎ、色を白くする」など美白効果を謳った【ホーカー液】や【レートフード】といった商品が大流行しました。当時、旅行や海水浴など、レジャーやスポーツを楽しむ女性たちも増え、自然に日焼けに対処する化粧品に注目が集まりました。より白い肌を求める気持ちは現代の女性たちと変わらなかったのです。
また、クリームも肌を整える化粧下地として明治末期から大正時代にかけて需要が高まっていきました。当時、健康的で自然な美しさが求められていたことから、油性のクリームよりもさっぱりとした薄化粧に仕上がる無脂肪性のクリーム、バニシングクリームに人気がありました。また、バニシングクリームは化粧くずれしにくく、長時間美しさを保てるものとして、昭和まで長く愛用されていきました。
一方、女性たちのメークアップはどのようなものだったのでしょうか。基本は無鉛白粉でベースメークを仕上げた後、ポイントメークとして眉墨で眉を書き、唇には紅を付けるのが基本でした。紅はそれまでの紅猪口に代わって、携帯しやすいスティック状のものが欧米から輸入されるようになります。現代では普通に使っているスティック状の紅ですが、大正7年にようやく国産品が発売されてから、だんだんと一般女性へと広まっていきました。
また、このころ白粉をつけた肌の血色を良くし、健康的で表情を豊かにするものとして、頬紅も注目されるようになりました。さらに、現代には欠かせない化粧道具、外出先でも手軽に化粧直しができるコンパクトが使用されるようになったのもこのころのことです。特に欧米からの輸入コンパクトは、機能性とアクセサリーのような美しさから、一般女性たちにとって憧れの化粧道具でした
学校や仕事へと、社会に出ること、スポーツやレジャーを楽しむこと、女性たちのライフスタイルがより活動的に変化した大正時代。女性たちのよそおいは、おしゃれであることはもちろん、社会的マナーとしての化粧が意識されるようになり、化粧品や化粧道具には、より短時間でできる手軽さや、機能性が求められるようになりはじめた時代でした。
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2018年11月20日
憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生
明治時代中期から後期、日本政府は欧米諸国に追いつこうと日清戦争、日露戦争を引き起こし、一方文化面では欧米のトレンドがほぼ同時期に日本に入ってきていました。このころ女性の教育も盛んになり、女性が少しずつ社会に出始めた時代でもありました。
『女学世界』『婦人世界』『婦人画報』といった女性向け雑誌も続々と創刊され、女性をとりまく環境もめまぐるしい変化を遂げていました。そんな時代、女性たちはどんな美人像を描き、おしゃれを楽しんでいたのでしょうか。
憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生
上流階級の女性たちの間では、すでに洋装が取り入れられていましたが、それは晴れの場でのこと。日常生活においては上流階級の女性も一般女性もまだまだ和装が中心でした。
そんな中、美しい和服姿で人気を博したのは、芸妓たちです。当時、彼女たちは、知性と教養を兼ね備えた美人として憧れの存在でした。芸妓たちの美人写真コンクールが開催されたり、化粧品のポスターに登場したり、またモデルとなった絵葉書は飛ぶように売れたといいま憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生
上流階級の女性たちの間では、すでに洋装が取り入れられていましたが、それは晴れの場でのこと。日常生活においては上流階級の女性も一般女性もまだまだ和装が中心でした。
そんな中、美しい和服姿で人気を博したのは、芸妓たちです。当時、彼女たちは、知性と教養を兼ね備えた美人として憧れの存在でした。芸妓たちの美人写真コンクールが開催されたり、化粧品のポスターに登場したり、またモデルとなった絵葉書は飛ぶように売れたといいます。
また、女性の教育が盛んになったこの時代、女学校に通うことが一種のステータスであり、女学生もまた、庶民の憧れの存在になっていきます。彼女たちのファッションといえば和洋折衷スタイル。袴に洋靴、束髪を結い大きなリボンをつけたスタイルが定番でした。当時リボンはこの女学生のよそおいから流行し、一般に広がっていきました。
『女学世界』『婦人世界』『婦人画報』といった女性向け雑誌も続々と創刊され、女性をとりまく環境もめまぐるしい変化を遂げていました。そんな時代、女性たちはどんな美人像を描き、おしゃれを楽しんでいたのでしょうか。
憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生
上流階級の女性たちの間では、すでに洋装が取り入れられていましたが、それは晴れの場でのこと。日常生活においては上流階級の女性も一般女性もまだまだ和装が中心でした。
そんな中、美しい和服姿で人気を博したのは、芸妓たちです。当時、彼女たちは、知性と教養を兼ね備えた美人として憧れの存在でした。芸妓たちの美人写真コンクールが開催されたり、化粧品のポスターに登場したり、またモデルとなった絵葉書は飛ぶように売れたといいま憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生
上流階級の女性たちの間では、すでに洋装が取り入れられていましたが、それは晴れの場でのこと。日常生活においては上流階級の女性も一般女性もまだまだ和装が中心でした。
そんな中、美しい和服姿で人気を博したのは、芸妓たちです。当時、彼女たちは、知性と教養を兼ね備えた美人として憧れの存在でした。芸妓たちの美人写真コンクールが開催されたり、化粧品のポスターに登場したり、またモデルとなった絵葉書は飛ぶように売れたといいます。
また、女性の教育が盛んになったこの時代、女学校に通うことが一種のステータスであり、女学生もまた、庶民の憧れの存在になっていきます。彼女たちのファッションといえば和洋折衷スタイル。袴に洋靴、束髪を結い大きなリボンをつけたスタイルが定番でした。当時リボンはこの女学生のよそおいから流行し、一般に広がっていきました。
2018年11月19日
美意識の大改革 〜お歯黒と眉剃りの禁止〜
1868年、新しい国づくりを目指す人々のもと、明治時代が幕を開けました。新しい政府では、欧米に習って国の近代化が推し進められました。街には髷を切った男性や洋装の人々が登場するなど、文明開化の掛け声とともに西洋文化が次々と推奨されていきました。生活環境が大きく変わることによって、女性たちのよそおいにもさまざまな変化が訪れることになるのです。
美意識の大改革 〜お歯黒と眉剃りの禁止〜
変化はまず、化粧において始まりました。政府は手始めに公家や華族といった上流階級の人々に対し、伝統的な化粧の眉剃りやお歯黒の廃止を求めました。そして、明治4年には、眉剃りとお歯黒をやめ、白い歯にしようという声がさらに高まっていきます。理由は来日した外国人の目にその伝統が奇異に映ったからでした。
眉剃りやお歯黒は、女性は結婚すると歯を黒く染め、子供が生まれると眉を剃り落とすという通過儀礼から行われるようになった化粧法です。眉剃りとお歯黒を止めるということは、それまでの慣習、さらには女性観や美意識を180度ひっくり返す大きな転換だったのです。
ですから、一般の女性たちがそれまでの意識を変え、お歯黒をすぐにやめることはできなかったようです。明治6年、率先して昭憲皇后が止めたことから、一般の女性たちにも白い歯が浸透しはじめました。これを契機として、現代の価値観に近い自分の顔に似合った眉化粧や自然な白い歯が美しいとされるようになったのです。
美意識の大改革 〜お歯黒と眉剃りの禁止〜
変化はまず、化粧において始まりました。政府は手始めに公家や華族といった上流階級の人々に対し、伝統的な化粧の眉剃りやお歯黒の廃止を求めました。そして、明治4年には、眉剃りとお歯黒をやめ、白い歯にしようという声がさらに高まっていきます。理由は来日した外国人の目にその伝統が奇異に映ったからでした。
眉剃りやお歯黒は、女性は結婚すると歯を黒く染め、子供が生まれると眉を剃り落とすという通過儀礼から行われるようになった化粧法です。眉剃りとお歯黒を止めるということは、それまでの慣習、さらには女性観や美意識を180度ひっくり返す大きな転換だったのです。
ですから、一般の女性たちがそれまでの意識を変え、お歯黒をすぐにやめることはできなかったようです。明治6年、率先して昭憲皇后が止めたことから、一般の女性たちにも白い歯が浸透しはじめました。これを契機として、現代の価値観に近い自分の顔に似合った眉化粧や自然な白い歯が美しいとされるようになったのです。