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2018年11月24日
よそおいで自己主張、“モダンガール”登場!
大正時代の第一次世界大戦、関東大震災を契機に日本は近代化し、昭和初期には女性たちも社会に出て活躍する場が着実に根付きはじめ、新しいライフスタイルを切り開いていきました。また、そうした中で、おしゃれや文化も自分たちがよいと思うもの、また意見を発信するという新しい時代に入っていきました。ではそんな時代の女性たちとは、どんな女性だったのでしょう。
まず代表的なのが、昭和のはじめごろ都市部に登場した「モダンガール」と呼ばれる女性たちです。当時の一般的な女性たちは、ウェーブをつけた長い髪を切らずにまとめた髪型に和服姿が多く、ワンピースなどの洋服を着た女性はまだまだ少数派でした。しかし、モダンガールと呼ばれた女性たちは、髪は短く切ったショートボブが特徴的で、ファッションは大胆な柄物を着こなしたり、ロングスカート、ハンドバッグといった最新のスタイルで街を歩きました。彼女たちは、常に自由な発想で新しいスタイルを追求する先進的な女性として一躍注目の的となりました。
現代のビジネスウーマン、“職業婦人”のおしゃれ感
大正時代後期から昭和にかけて、経済の発展とともに働く女性たちが増えていったことは、第10回で詳しく紹介しています。そして、特にこの時代になると都市部では、企業や官公庁の事務員、現代でいうところのファッションモデルであるマネキン、ダンサーなどといったさまざまな新しい職業に就く女性たちが登場し「職業婦人」と呼ばれました。彼女たちは、その職業にふさわしい礼儀や身だしなみも大切にしていましたが、そこに自分なりの個性を活かすおしゃれを楽しんでいました。
こうした「モダンガール」や「職業婦人」のおしゃれに代表されるように、同じおしゃれをするにしても、大正時代以前の礼儀を重視したよそおいから、単純にきれいになりたいという思いでおしゃれをし、自分を表現する女性たちが増えていきました。では、そんな女性たちに支持された最新の化粧とはどのようなものだったのでしょうか。まずは当時の女性たちのメークからみてみましょう。
現代に繋がるメークのきざし
化粧下地の上に白粉を塗り、眉墨で眉を書き、口紅、チークといった基本的なメーク法は大正時代から変わりませんが、この時代、それぞれの化粧品にさまざまな色、タイプが登場してきます。つまり、ライフスタイルや個人の好みに合わせ、だんだんと化粧法や化粧品が多様化しはじめた時代だったのです。ではどのような化粧法、化粧品が登場したのでしょうか。
ベースメークは仕上がりの好みに合わせて
昭和初期、ベースメークに使う白粉はそれぞれの好みに合わせ、水白粉、練り白粉、粉白粉の3種類のタイプが使われていました。中でも粉白粉を使ったベースメークは手軽さから多くの女性たちに支持され、大流行しました。その方法はまず、下地には、大正時代末期から普及し始めたバニシングクリームを使って顔や首筋に塗り、そしてその上にパフで粉白粉をはたくという手順。仕上げに余分な白粉を刷毛でささっとはらって完成です。
また、白粉の色も自分の肌に合った自然な肌色や小麦色に仕上がるよう、定番の白、肌色はもとより、桃色、黄色、緑色、紫色といったさまざまな色が使われるようになりました。日本でも1890年代には、既に色付きの白粉が出始めていましたが、多くの女性たちに普及していったのは、個人の好みに合わせたメークをするようになっていったこの時代に入ってからのことです。
リップスティックと新しい口紅の塗り方
日本では、1910年代、大正時代に「棒口紅」と呼ばれるリップスティックが作られるようになりましたが、現代のように多くの女性が気軽に使うといった状況にはなっていませんでした。しかし、昭和に入ると棒口紅は、一般の女性たちに浸透していきます。昭和3年には平尾賛平商店、昭和6年にはウテナ、また昭和10年には、オペラから当時としては画期的な繰り出し式の棒口紅が登場しました。
棒口紅は、筆などを使わず直接塗れる簡単さも手伝って、少しずつ広がっていきました。また、口紅の塗り方も大正時代以前の女性たちに見られる白粉で唇を隠し、おちょぼ口に書くのではなく、本来の唇に沿って書き、ひとりひとりの唇の特徴に合わせて書くことが美しいとされるようになっていきます。
目ヂカラメークのはじまり?!
日本でアイシャドーが登場した大正時代、当時はまだアイシャドーを使うことへの抵抗感や一般女性はあまり使わないといった偏見もありました。しかし、昭和7年以降の洋服の普及とともに、和服ではなく洋服に似合う化粧法として少しずつ認知されるようになっていきました。色も緑、茶、ダークブルーなどが日本人に合うとされました。また、アイシャドーだけではなく、つけまつげやアイペンシルでラインを書くなど、目を強調するメークが登場しはじめました。
こうしてみてみると、ベースメークが多様化したり、リップスティック、アイシャドーの登場など、現代の女性たちの化粧方法、化粧品に近いものが登場してきたと思いませんか?昭和初期は現代に通じる、おしゃれのきざしが見え始めた時代だったのです。
参考文献
『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編
『近代の女性美 -ハイカラモダン・化粧・髪型-』/村田孝子編著
まず代表的なのが、昭和のはじめごろ都市部に登場した「モダンガール」と呼ばれる女性たちです。当時の一般的な女性たちは、ウェーブをつけた長い髪を切らずにまとめた髪型に和服姿が多く、ワンピースなどの洋服を着た女性はまだまだ少数派でした。しかし、モダンガールと呼ばれた女性たちは、髪は短く切ったショートボブが特徴的で、ファッションは大胆な柄物を着こなしたり、ロングスカート、ハンドバッグといった最新のスタイルで街を歩きました。彼女たちは、常に自由な発想で新しいスタイルを追求する先進的な女性として一躍注目の的となりました。
現代のビジネスウーマン、“職業婦人”のおしゃれ感
大正時代後期から昭和にかけて、経済の発展とともに働く女性たちが増えていったことは、第10回で詳しく紹介しています。そして、特にこの時代になると都市部では、企業や官公庁の事務員、現代でいうところのファッションモデルであるマネキン、ダンサーなどといったさまざまな新しい職業に就く女性たちが登場し「職業婦人」と呼ばれました。彼女たちは、その職業にふさわしい礼儀や身だしなみも大切にしていましたが、そこに自分なりの個性を活かすおしゃれを楽しんでいました。
こうした「モダンガール」や「職業婦人」のおしゃれに代表されるように、同じおしゃれをするにしても、大正時代以前の礼儀を重視したよそおいから、単純にきれいになりたいという思いでおしゃれをし、自分を表現する女性たちが増えていきました。では、そんな女性たちに支持された最新の化粧とはどのようなものだったのでしょうか。まずは当時の女性たちのメークからみてみましょう。
現代に繋がるメークのきざし
化粧下地の上に白粉を塗り、眉墨で眉を書き、口紅、チークといった基本的なメーク法は大正時代から変わりませんが、この時代、それぞれの化粧品にさまざまな色、タイプが登場してきます。つまり、ライフスタイルや個人の好みに合わせ、だんだんと化粧法や化粧品が多様化しはじめた時代だったのです。ではどのような化粧法、化粧品が登場したのでしょうか。
ベースメークは仕上がりの好みに合わせて
昭和初期、ベースメークに使う白粉はそれぞれの好みに合わせ、水白粉、練り白粉、粉白粉の3種類のタイプが使われていました。中でも粉白粉を使ったベースメークは手軽さから多くの女性たちに支持され、大流行しました。その方法はまず、下地には、大正時代末期から普及し始めたバニシングクリームを使って顔や首筋に塗り、そしてその上にパフで粉白粉をはたくという手順。仕上げに余分な白粉を刷毛でささっとはらって完成です。
また、白粉の色も自分の肌に合った自然な肌色や小麦色に仕上がるよう、定番の白、肌色はもとより、桃色、黄色、緑色、紫色といったさまざまな色が使われるようになりました。日本でも1890年代には、既に色付きの白粉が出始めていましたが、多くの女性たちに普及していったのは、個人の好みに合わせたメークをするようになっていったこの時代に入ってからのことです。
リップスティックと新しい口紅の塗り方
日本では、1910年代、大正時代に「棒口紅」と呼ばれるリップスティックが作られるようになりましたが、現代のように多くの女性が気軽に使うといった状況にはなっていませんでした。しかし、昭和に入ると棒口紅は、一般の女性たちに浸透していきます。昭和3年には平尾賛平商店、昭和6年にはウテナ、また昭和10年には、オペラから当時としては画期的な繰り出し式の棒口紅が登場しました。
棒口紅は、筆などを使わず直接塗れる簡単さも手伝って、少しずつ広がっていきました。また、口紅の塗り方も大正時代以前の女性たちに見られる白粉で唇を隠し、おちょぼ口に書くのではなく、本来の唇に沿って書き、ひとりひとりの唇の特徴に合わせて書くことが美しいとされるようになっていきます。
目ヂカラメークのはじまり?!
日本でアイシャドーが登場した大正時代、当時はまだアイシャドーを使うことへの抵抗感や一般女性はあまり使わないといった偏見もありました。しかし、昭和7年以降の洋服の普及とともに、和服ではなく洋服に似合う化粧法として少しずつ認知されるようになっていきました。色も緑、茶、ダークブルーなどが日本人に合うとされました。また、アイシャドーだけではなく、つけまつげやアイペンシルでラインを書くなど、目を強調するメークが登場しはじめました。
こうしてみてみると、ベースメークが多様化したり、リップスティック、アイシャドーの登場など、現代の女性たちの化粧方法、化粧品に近いものが登場してきたと思いませんか?昭和初期は現代に通じる、おしゃれのきざしが見え始めた時代だったのです。
参考文献
『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編
『近代の女性美 -ハイカラモダン・化粧・髪型-』/村田孝子編著
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2018年11月23日
またたく間にトレンドとなったウェーブヘア
大正3年に始まった第一次世界大戦による軍需景気の中にあった日本。生活も向上し、化粧やファッション、髪型といったよそおいの面でも欧米からの流行が次々と上陸していました。
そんな西洋志向の流れのなかで、大正10年頃に“洋髪”がはじまりました。「洋髪」とは当時ウェーブをつけた髪で結った髪型をさして「洋髪」や「欧風結髪」と呼んでいました。中でも、髪にウェーブをつけ、額から両サイドの髪に流し、両耳を覆い、毛先を後頭部にまとめた髪型を「耳かくし」と呼びました。この「耳かくし」を広めたのは銀座の美容院が当時のパリジェンヌのトップ・モードをその技術とともに紹介したのがはじまりといわれ、それまでの日本女性の髪型とはまるで違う斬新さで女性たちの心を捉えていきました。
「耳かくし」は、和服にも洋服にも似合い、同じアップスタイルでも髪にウェーブをつけたことで、それまで見たことのないモダンな仕上がりだったことから、当時、まだまだ新しいことに消極的な一般の女性たちには、はじめは躊躇されたようですが、すぐに多くの女性たちの心をつかみ、大流行となりました。
大正末期の髪型といえば、すぐに「耳かくし」といわれるほどで、さらに「耳かくし」はウェーブをつけた前髪を七三に分けたり、片耳側だけを覆ったりと、さまざまなアレンジを生みながら、大正末期から昭和初期の頃まで流行が続きました。
ショートボブは流行の最先端
「耳かくし」から、さらに一歩進んだ髪型が、現代でいうところのボブスタイルで、当時「断髪」と呼ばれました。女性の断髪は、明治時代、文明開化の頃にも見られましたがすぐに禁じられ、再び注目されはじめたのは大正時代の終りのころからです。
とはいえ、長い髪を短く切ることは、多くの日本女性にとってはじめてのことで、今では想像もつかないくらい勇気のいることでした。当時、髪を切ったことで親から縁を切ると言われたり、泣かれたといった話もあるほどです。
大正時代末期、断髪は当時としては、丈の短いスカートとセットのよそおいであったことから、そのスタイルはモダン・ガール(モガ)と呼ばれ、トレンドの最先端をゆく一部の女性たちから取り入れられ、昭和にかけてだんだんと一般へと広まっていきました。
また、女性たちを活動的なよそおいへと変化をもたらすきっかけとなったのが、大正12年に起きた関東大震災です。これを契機に和服から、動きやすく機能的な洋服を着る女性たちが増えたといいます。こうしたファッションの変化も、より活動的な髪型へと影響を与えていったといえるでしょう。
欧米文化の流入、社会の近代化、震災といったさまざまな時代背景がライフスタイルに変化をもたらし、それに伴い髪型も、決められたものではなく、自分のスタイルに合った髪型へと意識の変化をもたらしました。
日本髪から束髪、洋髪、断髪へと明治から大正にかけての髪型の変化は、現代の女性たちのおしゃれ意識に近づき、今ではあたりまえのことのように思える、自分に似合うヘアスタイルを模索しはじめた時代だったのです。
参考文献
『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編
『どなたにもわかる洋髪の結ひ方と四季のお化粧』/早見君子著
そんな西洋志向の流れのなかで、大正10年頃に“洋髪”がはじまりました。「洋髪」とは当時ウェーブをつけた髪で結った髪型をさして「洋髪」や「欧風結髪」と呼んでいました。中でも、髪にウェーブをつけ、額から両サイドの髪に流し、両耳を覆い、毛先を後頭部にまとめた髪型を「耳かくし」と呼びました。この「耳かくし」を広めたのは銀座の美容院が当時のパリジェンヌのトップ・モードをその技術とともに紹介したのがはじまりといわれ、それまでの日本女性の髪型とはまるで違う斬新さで女性たちの心を捉えていきました。
「耳かくし」は、和服にも洋服にも似合い、同じアップスタイルでも髪にウェーブをつけたことで、それまで見たことのないモダンな仕上がりだったことから、当時、まだまだ新しいことに消極的な一般の女性たちには、はじめは躊躇されたようですが、すぐに多くの女性たちの心をつかみ、大流行となりました。
大正末期の髪型といえば、すぐに「耳かくし」といわれるほどで、さらに「耳かくし」はウェーブをつけた前髪を七三に分けたり、片耳側だけを覆ったりと、さまざまなアレンジを生みながら、大正末期から昭和初期の頃まで流行が続きました。
ショートボブは流行の最先端
「耳かくし」から、さらに一歩進んだ髪型が、現代でいうところのボブスタイルで、当時「断髪」と呼ばれました。女性の断髪は、明治時代、文明開化の頃にも見られましたがすぐに禁じられ、再び注目されはじめたのは大正時代の終りのころからです。
とはいえ、長い髪を短く切ることは、多くの日本女性にとってはじめてのことで、今では想像もつかないくらい勇気のいることでした。当時、髪を切ったことで親から縁を切ると言われたり、泣かれたといった話もあるほどです。
大正時代末期、断髪は当時としては、丈の短いスカートとセットのよそおいであったことから、そのスタイルはモダン・ガール(モガ)と呼ばれ、トレンドの最先端をゆく一部の女性たちから取り入れられ、昭和にかけてだんだんと一般へと広まっていきました。
また、女性たちを活動的なよそおいへと変化をもたらすきっかけとなったのが、大正12年に起きた関東大震災です。これを契機に和服から、動きやすく機能的な洋服を着る女性たちが増えたといいます。こうしたファッションの変化も、より活動的な髪型へと影響を与えていったといえるでしょう。
欧米文化の流入、社会の近代化、震災といったさまざまな時代背景がライフスタイルに変化をもたらし、それに伴い髪型も、決められたものではなく、自分のスタイルに合った髪型へと意識の変化をもたらしました。
日本髪から束髪、洋髪、断髪へと明治から大正にかけての髪型の変化は、現代の女性たちのおしゃれ意識に近づき、今ではあたりまえのことのように思える、自分に似合うヘアスタイルを模索しはじめた時代だったのです。
参考文献
『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編
『どなたにもわかる洋髪の結ひ方と四季のお化粧』/早見君子著
2018年11月22日
ヘアスタイルに対する意識を変えた髪型
大正時代、社会に出て働くことなど、女性たちのライフスタイルは変化し、化粧意識も大きく変わりました。欧米からもたらされた新しい化粧法が次々と取り入れられ、同時に髪型も新しいおしゃれ志向に合わせた髪型が求められるようになっていきました。では、当時どのような意識の変化が起こり、どんな髪型が女性たちの心を捉えていったのでしょうか。
大きな「日本髪」から小さな「束髪」アレンジへ
明治時代から新しい時代に合わせ、それまでの伝統的な日本髪から束髪という、日本髪よりも簡単に結うことができる髪型が推し進められてきましたが、まだまだ日本髪も多く結われていました。しかし、明治時代も末期のころから大正時代にかけて、社会に進出した女性のニーズにも合って、日本髪より軽く、簡単に結うことができる束髪を結う女性たちが増え、日本髪を結う女性がだんだんと減っていきました。
明治時代末期から大正時代にかけて、多くの日本女性が結った束髪は「庇髪(ひさしがみ)」といい、すき毛やアンコ[※]といったつめ物を入れて前髪を大きく膨らませた髪型でした。この「庇髪」は大正時代に入っても後頭部の髷部分の結い方の違いで「大正巻」「改元巻」「九重巻」など、さまざまなアレンジを生みながら、女性たちにとって定番の髪型となっていきました。
大正時代に登場した束髪のひとつに「女優髷」という髪型があります。女性の新しい職業として登場した帝劇の女優たちがしていたのが「女優髷」で、そ れまでの束髪には欠かせなかったボリュームを出すためのつめ物を入れず、鬢付け油も使わないスッキリとした髪型でした。見た目の華やかさはありま せんでしたが、つめ物を取ったことで一段と軽く、手入れの簡単な機能的スタイルとして紹介されました。人気の髪型とまではなりませんでしたが、当時、 決まった髪型ではなく、自分のライフスタイルに合った髪型にするという、新しい志向を女性たちに投げかけた髪型でした。
現代でこそあたりまえのようになっている、自分の意思で似合う髪型にすることが、大正時代に入ってやっと一般の女性たちの間で行われはじ めたのです。
このような意識の変化から、新しいライフスタイルに合わせた、より小さくて軽い活動的な髪型が求められていきました。その結果、大正時代中 ごろから終りにかけて、前髪を膨らましていたつめ物がだんだんと取れ、さらに小さくコンパクトな束髪にすることが主流となっていきました。
大きな「日本髪」から小さな「束髪」アレンジへ
明治時代から新しい時代に合わせ、それまでの伝統的な日本髪から束髪という、日本髪よりも簡単に結うことができる髪型が推し進められてきましたが、まだまだ日本髪も多く結われていました。しかし、明治時代も末期のころから大正時代にかけて、社会に進出した女性のニーズにも合って、日本髪より軽く、簡単に結うことができる束髪を結う女性たちが増え、日本髪を結う女性がだんだんと減っていきました。
明治時代末期から大正時代にかけて、多くの日本女性が結った束髪は「庇髪(ひさしがみ)」といい、すき毛やアンコ[※]といったつめ物を入れて前髪を大きく膨らませた髪型でした。この「庇髪」は大正時代に入っても後頭部の髷部分の結い方の違いで「大正巻」「改元巻」「九重巻」など、さまざまなアレンジを生みながら、女性たちにとって定番の髪型となっていきました。
大正時代に登場した束髪のひとつに「女優髷」という髪型があります。女性の新しい職業として登場した帝劇の女優たちがしていたのが「女優髷」で、そ れまでの束髪には欠かせなかったボリュームを出すためのつめ物を入れず、鬢付け油も使わないスッキリとした髪型でした。見た目の華やかさはありま せんでしたが、つめ物を取ったことで一段と軽く、手入れの簡単な機能的スタイルとして紹介されました。人気の髪型とまではなりませんでしたが、当時、 決まった髪型ではなく、自分のライフスタイルに合った髪型にするという、新しい志向を女性たちに投げかけた髪型でした。
現代でこそあたりまえのようになっている、自分の意思で似合う髪型にすることが、大正時代に入ってやっと一般の女性たちの間で行われはじ めたのです。
このような意識の変化から、新しいライフスタイルに合わせた、より小さくて軽い活動的な髪型が求められていきました。その結果、大正時代中 ごろから終りにかけて、前髪を膨らましていたつめ物がだんだんと取れ、さらに小さくコンパクトな束髪にすることが主流となっていきました。
タグ:化粧品