2010年12月29日
ニート=通過儀礼
年末の休みに入って、急激に更新頻度が増えている人生のんびりです。
仕事復帰してからの1カ月をボーっと振り返ってみて、
一番変わったことと言えば、
会社のことも冷静に見れるようになった気がする。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(警告:以下の話は学術的にどのくらい真っ当か、自分でもよくわからないし責任なんて取れません。)
大学の時に読んだ本の話なんだが、
精神史的考察
の中の、「かくれんぼの精神史」というのを思い出した。
まじめに勉強しなかったので漠然とした記憶しかないのだが(汗)
かくれんぼで一人で隠れている状態、
また、かくれんぼの鬼が数字を数え終わると誰もいない状態というものは、
比喩的に、社会からの隔離、社会的な死である、ということだった。
そして、鬼に見つかる、ということは、
鬼と、隠れていた子供にとって、社会に戻ってくることで、社会的な再生を意味する、ということだった。
そして、これは文化人類学的には通過儀礼的な意味があるんじゃないか、ということだった。
アボリジニには、その点分かりやすく、放浪する通過儀礼がある。
共同体(分かりやすく言うと、部族)の側からしたら、通過儀礼というのは大人を作って次の世代を作る仕掛けなわけだけど、
通過儀礼を受ける個人からしたら、ぼんやりと社会というものを悟る機会ということになるのかも知れない。
自分の場合も、会社という社会で、「かくれて」いたわけで、
休職中に、自分は何かを勉強したわけではないけれど、
もしかしたら、こんなことをやっていたのかなぁと思う。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
で、この話を自分だけじゃなくて、ニートというものにあてはめても、
もしかしたら同じことが言えるのかも、と思う。
(もちろん、通過儀礼を社会の側から見るなら、戻ってくることが必要だが、まあそれはそれとして・・・)
とりあえずだんだんと進学してみたけれど、精神的に行き詰ったり、入社試験とか入学試験で行き詰ったり、ともかく結果として社会から切り離される道を選んだわけで、そうなって初めて社会というものをぼんやりと悟るのかなと。そう思う。
逆に、曲がりなりにも就職まではすんなり行った自分には、そういう経験はなかった。
月100時間以上の残業があっても、会社を辞める自分が想像できていなかった。だから会社に文句も言えなかった。
(今から考えれば、労災申請という手もあったと思う。。。)
今なら、所詮会社は収入を得る手段だと割り切って、何か問題があればそれ相応の対応をしようと決めている。
だから、というには論理が飛躍しすぎだけど、ニートの日記を読んでいると、レベルの高さに驚くことがある。そんじょそこらの政治批評ブログなんかクズだと思ってしまうくらいに。
そのレベル差は、「かくれんぼという通過儀礼」をしたかどうか、なのではないだろうか?
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