2020年06月09日
つぼみのまま消えた由美子
北原 遥子(きたはら ようこ、本名:吉田 由美子〈よしだ ゆみこ〉、1961年(昭和36年)4月23日 - 1985年(昭和60年)8月12日)は、日本の元俳優/女優で、元宝塚歌劇団雪組の娘役。日本航空123便墜落事故犠牲者の一人としても知られる。
愛知県名古屋市千種区生まれ、神奈川県川崎市高津区育ち。愛称はユミコ、ユミちゃん。当初の芸名の漢字は『北原 遙子(読み方は同じ)』であった。身長161cm。神奈川県立横浜平沼高等学校を二年修了で中退した。
幼少時よりバレエと器械体操を習い、特に体操競技では多くの大会で優勝し国際大会にも出場するなど活躍。高校時代は次世代のオリンピック体操競技/オリンピック代表といわれたほど将来を嘱望されていたが、度重なる怪我や体格の変化で競技生活から遠ざかっていた時に、花組の『ベルサイユのばら (宝塚歌劇)/ベルサイユのばら』を観劇し、宝塚歌劇団を志す。安奈淳のファンであった。
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[caption id="attachment_4640" align="alignleft" width="260"] 画像クリック 第67期自己紹介[/caption]
宝冢67期生NHK
https://youtu.be/1V110cDPwug?t=75
https://youtu.be/wmMcbGnvoD0?t=53
記事引用
8月12日、1985年の日航123便墜落事故から32年目の夏を迎えた。520人の犠牲者の中に、取材したことのある女優がいた。宝塚歌劇団出身の北原遥子さん。24歳だった。
初めて取材したのは83年3月。入団2年目だった北原さんは宝塚歌劇団雪組の娘役ホープとして注目されていた。同期には後にトップスターとなる涼風真世、真矢ミキ、娘役トップになった黒木瞳、毬藻えりがいた。北原さんは新人公演でヒロインを演じ、黒木とともに大阪の情報番組のアシスタントを担当していた。宝塚でも際だった美しさで話題となっていたが、会ってみると、素直で気さくな女の子だった。取材から数カ月後、暑中見舞いのはがきが届いた。「また取材に(?) 来てくださいね」と書き添えてあり、ちゃめっ気もあった。
84年に退団した後、石立鉄男さん、夏目雅子さんが所属した「其田事務所」に入った。舞台にも強い事務所で、亡くなる3カ月前の5月にはミュージカル「カサノバ85」に出演している。石立さんが主演し、作・演出は「ショーガール」の生みの親の福田陽一郎さん。北原さんはヒロインを演じ、あまり得意ではなかった歌にも懸命に取り組んでいた。
事務所の先輩で、3歳年上の夏目さんにも妹分としてかわいがられた。夏目さんは85年2月、主演した舞台「愚かな女」を途中降板し、入院した。急性骨髄性白血病だった。北原さんの死から1カ月後の9月11日に27歳の若さで亡くなった。くしくも、北原さん最後の舞台「カサノバ85」、夏目さん最後の「愚かな女」ともに、西武劇場(後のパルコ劇場)の公演だった。
北原さんは事故から5日後の17日に両親によって遺体が確認され、18日に通夜、19日に葬儀が行われた。葬儀には宝塚の同期をはじめ、石立さん、樹木希林、世良公則ら約500人が参列した。北原さんは港区三田の玉鳳寺で眠っているが、宝塚歌劇を創立した小林一三翁の墓がある大阪・池田市の大広寺の慰霊碑「宝友之塔」にも北原さんの名前が刻まれている。宝塚在団中か退団後に亡くなった宝塚の生徒のための慰霊碑で、そこには原爆で亡くなった女優園井恵子さんの名前も並んでいる。
同期の黒木、涼風、真矢らの活躍を見るに付け、生きていたら、どんな女優になっていたかと思う。人気脚本家市川森一さんの脚本で、その年の11月放送の東芝日曜劇場1500回記念ドラマ「星の旅人たち」の主役に決まっていた。女優として大きく羽ばたく直前だった
由美子へ・取材ノート
第1章 見果てぬ夢
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撮影:中本 徳豊 協力:花王(株)
「宝塚随一の美女」と久米宏に紹介されたことがあった。1984年3月のことである。ニュースステーションが始まる前で、久米宏が若手アナとしてブレイクしはじめた時期だった。そのときどきの話題の人物たちをゲストで招いて軽妙なトークを繰り広げる「おしゃれ」という番組に、宝塚を代表する美しい娘役スターとして、北原遥子が登場したのだ。
番組の冒頭、10問のクエスチョンがぶつけられる。最初の問いは「10年後のあなたは?」というものだった。北原遥子は、ちょっと小首をかしげながら「結婚してるかもしれないし…、仕事してるかもしれないし…」と答えている。だが彼女も視聴者も、この答えを確かめることはできなかった。1年半後、彼女はあの日航機墜落事故という大きな出来事に巻き込まれ、わずか24年の生涯を終えてしまったからだ。
北原遥子について語るとき、誰もが、まずその“美しさ”を口にする。確かに“美しさ”は、彼女の魅力を伝える一番わかりやすい言葉だといっていい。5年ほど在籍した宝塚歌劇団の舞台では、まれにみる美貌の娘役として観客の注目を集めていた。同時に、化粧品や銀行のCMモデルとして一般のメディアにも登場し人目を引きつけ、また同期で親友だった黒木瞳とともに起用されたテレビの朝番組では、清楚で可憐なアシスタント姿で、多くの視聴者に愛された。
退団後は、夏目雅子と同じ事務所に所属し、夏目に続く美人女優としてデビュー。夏目のCM撮りに付いていって滞在したNYでは、沢山のツーショットを残しているが、その写真のなかで、花のように笑う北原遥子は、華やかな夏目雅子に負けない美しさと輝きを見せている。
だが、彼女自身は、自分の“美しさ”をあまり大きな武器に思っていなかった。いやそれどころか、“美女”として評価される自分と、うまく折り合いをつけられないまま、もがき苦しみ、最後まで闘い続けていたと言っていいだろう。彼女の生きた道をたどると、いつも何かに突き動かされるように、自分の全身全霊をぶつけてさまざまな表現に挑んでいる顔が見えてくるのだ。
4歳で始めたバレエ、9歳で出会った体操、17歳で入った宝塚、23歳から歩き始めた女優への道。そのいずれの場でも、彼女は悪戦苦闘し、自分に絶望し、それでも再び立ち上がって、“何かを”つかもうと、ひたむきにまっしぐらに挑み続けた。まるでドン・キホーテのように見えない目標に向かって…。
北原遥子にとって、生まれたときにあらかじめ約束されていた“美”は、逆に自分の人生にフィルターをかけてしまう“余計なもの”だったのかもしれない。自分の価値は、自分の意志と努力の大きさに見合うべきものであり、その手ごたえをこそ、物心ついてからずっと求め、夢みていたのではないだろうか。
そして、その夢の途上で北原遥子は無念の死を遂げてしまった。“美”という人々の“夢”を持ちながら、さらに高みにある“見果てぬ夢”を追い続けた1人の女性、北原遥子の生涯を、まず誕生からともにたどっていきたいと思う。由美子へ・取材ノート
第2章 誕生と家族
健康優良児
0101_137 北原遥子、本名吉田由美子。
吉田俊三・公子夫妻の長女として、1961年4月23日に名古屋で生まれる。誕生時の体重は当時の女児としては標準的な2850グラム。3歳4ヶ月年上に兄雅彦がいて、2人兄妹として育つ。
後年、周囲が「ガラス細工のように透き通る美しさ」と証言するような際立った美は、幼児期の写真や、母が語る記憶のなかには、まだ見あたらない。母の言葉によると、
「小さい頃は小太りで、男の子みたいなくりくりした感じでした。よく体を動かす子で、椅子の上を歩き回ったり、三輪車をこいで遊んだり。あまり女の子っぽい遊びは好きじゃなかった。いつも長男の雅彦にくっついて歩いて、お友達の家に遊びに行くときには一緒に行って。長男はなぜか女のお友達のほうが多かったのですが、そういう年上の女の子たちや長男のやることマネしたり、なんでも同じようにやらないと気がすまない、元気で活発な子どもでした」
だが兄の雅彦は、そんな妹が少し迷惑だったという。
「妹の子ども時代で思い出すことは、喧嘩していたことばかりですよ。うるさくて生意気で、けっこう泣かしました。そのかわりたまにはこっちも泣かされたけど(笑)」
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
バレエ
江口乙矢は、日本のモダンダンスの先駆者と言われる江口隆哉の弟に当たり、戦後すぐの昭和20年に大阪に舞踏研究所を開き、体育教育や幼児の情操教育にまで影響を与えた関西舞踊界のパイオニアである。そのバレエ門下に入り、由美子は生まれて初めてスポットライトを浴びることになる。兄はその舞台を強烈に覚えている。
「大阪のサンケイホールの舞台でした。ドーランを塗って、アイシャドウを入れた妹が、スポットの下で踊っている。なんか、えらいところに足を踏み入れちゃったなと、僕は子供心に感じていました。化粧した妹は目立っていましたし、なにか、別の世界にいるように見えた。もしかしたらそのときが、人前で何かを表現することの快感に目覚めた最初だったのではないでしょうか」
幼稚園時代、バレエの発表会 4歳で出会ったバレエは、由美子をとりこにした。何かを始めたときの集中力とのめり込みかたは、彼女を語るエピソードにたびたび登場するが、このバレエ教室に関しても、母は由美子の熱心さをこんなふうに語っている。
「幼稚園で熱を出したからと迎えに行って、おんぶして帰宅したのに、今日はバレエ教室があるから行くんだって言うんです。それで、また幼稚園に連れて行くことになって。それくらい好きでした」
由美子へ・取材ノート
第3章 体操する少女
Preciousb0410 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第3章では、体操に夢中になった由美子の小中学生時代を描く。父親の転勤で大阪から東京へ引越した由美子は、近くの池上スポーツクラブに通い始める。昭和40年代半ばのこの時期は東京五輪の記憶も新しく、体操への国民的熱気は盛り上がっていた。熱心で真面目な由美子はどんどん上達し、全国大会へも出場するようになった。しかし…。
☆ ☆ ☆
バレエから体操へ
由美子が小学校3年の1学期を終了した頃、一家は大田区大森の社宅へと引っ越しをする。
「新幹線で大阪までレッスンに通いたい」と、大好きだったバレエ教室への未練を口にする娘のために、母は近所のバレエ団やレッスン場をいくつか調べてまわった。だが、クラシックバレエの教室は見つかっても、江口舞踏教室に近い系列のものは1つしかなく、それも東横線の都立大学まで行かなければならなかった。
「通わせるには少し遠すぎるし、と悩んでいたんです。そんなとき、ご近所に池上スポーツクラブにお子さんを通わせている人がいて。場所もそんなに遠くないし、床運動などはバレエの先生が教えていらっしゃるというので、それならいいかしらと」
池上スポーツ普及クラブは、当時も今も、大田区池上の本門寺境内にある。主宰は東京五輪で活躍した小野喬氏と清子夫妻で、スポーツの普及を目的に1965年に設立されて以来、全国に支部を増やし、ソウル五輪の小西裕之選手や、モスクワ五輪の北川淳一選手をはじめとする沢山の選手を生みだしている。
由美子は、1970年の夏に、少年女子の部のCコースに入った。
「初めの頃は時々私に、“おかあさん、やっぱりバレエのほうがいいよ”と言ったりしていたんですが、だんだん上達していくにつれて、面白くなっていったみたいです」
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
昭和40年代半ばのこの時期は、まだ東京五輪の記憶も新しく、体操への国民的熱気は盛り上がっていた。だが、その熱気を受け止めるには、日本の体操界は態勢が整っていなかった。そんななかで池上スポーツ普及クラブは、東京五輪で活躍した小野夫妻の直接指導が受けられることもあって、とくに人気が高く、選手を目指す者から趣味レベルの者までさまざまな生徒が通っていた。
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
主宰の小野清子にとっても、吉田由美子は記憶に鮮明な教え子だった。
「大船から通って来てましたから、遠くから来ているんだなということで感心したのと、とにかく熱心で真面目、そして私達の言葉でいう自己教育のある子、自分を鍛えていく力のある子でした。池上スポーツクラブは、東京オリンピックを機会に、日本人の体力を向上させようという運動が盛り上がる機運の中で作ったもの。競技クラブではなく普及クラブということで、楽しみながらきれいな体格を作ることを教育方針にしていました。その中で、選手になりたいという意志や希望を持っていて最低限の基本ができて、私たちから見ても可能性を感じさせる子がいると、競技部で練習させました。吉田由美子さんもそのひとりで、秋田の個人総合で優勝したり、海外のオリンピック候補クラスの選手たちと競い合える国際ジュニア大会に出たり、楽しみな選手のひとりでした」
小野清子の言葉にも出てきた「秋田の大会」とは、1973年に行われた全国スポーツクラブジュニア体操競技交歓会のことで、由美子は、個人総合で優勝の栄誉に輝いている。この大会は父俊三と兄の雅彦も応援にかけつけた。
由美子へ・取材ノート
第4章 宝塚との出あい
Yumiko07 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第4章では、由美子と宝塚との出あいから音楽学校に合格するまでを描く。怪我や体格のこともあって、体操から遠ざかりつつあった由美子が夢中になったのは、当時『ベルばら』で爆発的な人気となっていた宝塚歌劇だった。最初は夢にすぎなかった「宝塚に入りたい」という願いが、やがてある芸能プロダクションのスカウト「事件」により、現実のものとなっていく。
☆ ☆ ☆
ベルばら世代
池田理代子が週刊マーガレットで『ベルサイユのばら』の連載を始めたのは1972年の春。由美子は11歳である。
ファンからの投書によって、宝塚歌劇団がこの人気マンガの舞台化を企画し、初めてオスカルが宝塚大劇場に登場したのは、1974年8月29日、由美子は13歳になっていた。マンガも舞台もリアルタイムに、読み、観劇した“第一期ベルばら世代”である。
豊中の子供時代、毎週木曜日に、由美子の愛読書「週刊マーガレット」を買ってくるのは母の役目だった。
「社宅のそばには本屋さんがなかったので、阪急の駅の近くまで買い物に行くついでに買ってきてと頼まれるんです。たまに荷物が多くて忘れたりすると機嫌が悪くて(笑)」
『ベルばら』の連載が始まってからは、ページを切り取ってホッチキスでとめて、何度も読み返すのが、由美子の楽しみだった。
初演で爆発的な人気となった宝塚の『ベルばら』は、月組から花組、雪組、星組そしてまた月組と組を替えて1976年8月まで上演され、全国の女性たちを引き込む一大ブームとなっていく。由美子が初めて東京宝塚劇場に、宝塚歌劇を観に出かけていったのは、中学2年の1975年11月の花組『ベルばら』で、一緒に宝塚観劇をする友人もできていた。学習塾で知り合った井上薫である。
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
スカウト事件
体操から宝塚へ。由美子がはっきり方向転換する直接的な引き金になったのは、芸能プロからのスカウト事件である。高校2年の8月、横浜の繁華街を友人と歩いていた由美子は、有名プロダクションのスカウトマンに声をかけられたのだ。
だが、実はその前に、高校受験で、由美子は体操一色だった生活から一歩距離をおく選択をしている。雅彦は、そのあたりのいきさつをこんなふうに語ってくれた。
「うちの両親は、まず、子どもたちには、学歴をちゃんとつけさせたいと望んでいたんです。僕も、大学受験のとき、滑り止めに行かないで、ちゃんと志望校に行けと言われて、一浪して入り直したくらいですから。由美子の高校についても体操だけのところに行かせたくなかったようです。体操はあくまでも趣味とか特技で、行ける限り良い学校に行ってほしいと思っていたはず」
父もそのことは肯定する。
「平沼高校は体操部もあるというし、最初から公立に行かせたいと思っていました。ただ私立もいちおう受けておこうと、そのころは体操では國學院が有名だったんですが、受験の時期の都合でほかの私立を受けました。由美子の代わりにその発表を見に行ったら、途中で担任の先生に出会って“2番で入ってますよ。どうしても平沼でなくてはダメですか”と言われました。でもやはり僕は平沼に行ってほしかった」
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
受験へ
芸能界入りの代わりに、という形で、宝塚受験を許された由美子は、高校2年の夏からバレエと声楽のレッスンに通うようになる。
声楽は、横浜にいる平沼高校出身の声楽家のところへ。バレエは逗子の大滝愛子バレエ研究所へ。
大滝愛子は、アンナ・パブロヴァの弟子で、たくさんのバレリーナを育てただけではなく、宝塚歌劇団に合格者を輩出するレッスン内容でも定評がある。また1955年から現在にいたるまで、宝塚歌劇団で生徒たちにバレエ指導を続けているだけでなく、逗子駅から5分ほどの距離にある彼女のスタジオでたくさんの生徒を今も教えている。
築50年、そのバレエに打ち込んだ歴史がそのまま塗り込められたような風格のある教室で、大滝愛子は30年近く前に、しかも1年にも満たない期間通っただけの吉田由美子のことを語ってくれた。
「吉田さんのことは鮮明に覚えています。この稽古場の二つ目のバーのところで、いつもレッスンしていました。前のほうにいると私の目にとまりやすいのです。本当に綺麗な子で、やってごらんというと、恥ずかしがらずにすぐやるし、明るい子でした。
私は、あまり生徒さんの事情を聞かないほうなので、体操の経験とかバレエの経験とか、その時は知らなかったのですが、スムーズに上達していくしバランス感覚も抜群で、どこか違うなと思っていました。
それから、うちの教室では、犬の格好をさせて“ワンと言え”というレッスンもあるんです。羞恥心とか見られている意識を捨てるためなのですが。それができないと舞台になんか立てませんから。吉田さんはすぐグルグルってまわってワンと、素直にやりました。彼女なら、宝塚には絶対入れると思っていたから、入学したと聞いたときは当然だと思いましたし、ぜひトップになって活躍してほしいと願っていました」
由美子へ・取材ノート
第5章 宝塚音楽学校
Yumiko09 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第5章では、宝塚音楽学校の2年間を描く。由美子たち67期生には、のちに男役でトップになった涼風真世、真矢みき、娘役トップになった黒木瞳や毬藻えりを始めとする優秀な人材が数多くそろっていた。中で、音楽学校時代からスター候補と言われた2人―由美子とショーコこと黒木瞳は特別な親しさで結ばれていた。厳しい2年間を終え、由美子たちは卒業、晴れの初舞台を迎えることになる。
☆ ☆ ☆
望郷
「ガラス細工さん」
宝塚音楽学校から雪組まで、由美子の近くにいた同期生の“りんご”こと小乙女幸は、由美子をそう呼んでいた。
「大滝先生のバレエ教室でも一緒でしたが、その時から、この人は絶対に入れると思ってました。一番印象に残っているのは、すそにフリルのついた長袖のレオタード姿。すごく素敵だった。そのかっこうで、お稽古場に入る前の身体をならすところで、大胆に開脚とか始めるんです。見た目が上品で楚々としているだけに、そのギャップが面白かった」
由美子たち67期生には、のちに男役でトップになった涼風真世、真矢みき、娘役トップになった黒木瞳や毬藻えり、ほかにも新人公演やバウホールで活躍した優秀な人材が、数多くそろっていた。小乙女の目から見ても、
「ショーコ(黒木)ちゃんと由美ちゃんはとくに目立っていて、音楽学校時代からスター候補だとみんなが思っていました」
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
親友・黒木瞳
音楽学校のクラスは、A組B組20名ずつに分かれていた。小乙女幸や、真矢みきはA組、由美子や黒木瞳、涼風真世はB組だった。
“由美ちゃんの親友はショーコちゃん”と、周囲の誰もが証言する江上昭子こと黒木瞳とは、特別な親しさで結ばれていた。のちに朝日放送の朝の番組にも一緒に選ばれ、アシスタントを経験するなど、似たような立場で、いわば“戦友”だけに、互いをよく理解できたのだろう。小乙女幸も2人がよく一緒に行動する姿は目にしていた。
「本科のときから、よく2人で旅行にも行ってましたし、梅田とか神戸とかも一緒に出かけていました。一度西宮で2人に出会ったことがあるんですけど、普通の私服で、白いブラウスに紺のスカート、カーディガンという格好なんですけど、男の人がみんな振り返るんです。釘づけというか、そういう感じで見てました。(中略)」
音楽学校とは言っても、宝塚の舞台に立つための養成機関である。誰がスターになれるか、互いに無関心ではいられなかった。
「予科の後期に噂があって、私たちの期のなかから、各組のトップさんの相手役が選ばれると。ショーコちゃんはまちがいないよね、由美ちゃんは男役志望だけど綺麗だしそうかもしれないねとか、あとはシギちゃん(毬藻えり)かなとか。そして、あと1人がわからなかったんですが、初舞台後の組配属で、ショーコちゃんが月組、由美ちゃんが雪組、シギちゃんが星組、そして花組にはタラちゃん(水原環)が行ったので、そうかタラちゃんなんだ、って」
周囲では将来のトップ娘役かと想像をめぐらし、本人もそのことには十分気づいていたはずだが、それでも由美子は、まず男役として舞台に立つことをこの時点では希望していた
由美子へ・取材ノート
第6章 娘役北原遥子
14 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第6章では、音楽学校を卒業した由美子が、宝塚の初舞台を踏んでまもなく新進娘役として注目を集めるようになるまでを描く。北原遥子という芸名を名乗り、初舞台のラインダンスでソロを務めるという晴れがましいデビューを飾った由美子は、最初は男役でのスタートだった。しかし配属された雪組で、はや2作目で準ヒロイン役に抜擢され、娘役へと転向することになる。
☆ ☆ ☆
初舞台
宝塚の舞台に立つには、芸名を付けなくてはならない。日常から飛翔して夢の世界の住人になるためのパスポートと言ってもいいだろう。
吉田由美子は、最初は“北原澪”という芸名をつける予定だった。名前を決めて提出するのは本科の夏休み明けである。夏のあいだ、母と娘は、姓名判断や占星術を参考にいくつかの候補を出し、また当時人気の0学占星術の山本令菜にも相談した。
「名字の“北原”は、純白のイメージと、ちょうど少し前に退められた北原千琴さんという綺麗な娘役さんがいたこともあって、それに決めました。下の名をどうしようと迷って、雅彦の大学の研究室の講師で、作家である川上信定先生にご相談したら、“澪”という名を付けてくださったんです。そこで“北原澪”に決めて劇団に提出しました」
だが、“澪”の字が難しすぎるとNGになってしまう。再び由美子は母に電話で相談してきた。
「そこで思いついたのが立原正秋先生の小説です。川上先生の恩師が立原先生で、私もいつも愛読していたのですが、立原先生の作品には“ようこ”という名のヒロインが多いんです。そこから“遙子”ではどうだろうということになって」
旧漢字の“遙子”で、北原遙子と名付けた。だが半年後、朝日新聞の記者で宝塚の取材も多かった宇佐見正のアドバイスにより、書きやすいようにと“遙子”から“遥子”に変えている。
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
抜擢
(…)女役への転向の機会が彼女の上に訪れる。予想外だったのは、その時期が、思いのほか早くきたことだろう。4月に初舞台を踏んだばかりなのに半年も経たない9月のバウホール公演で、それはやって来た。
作品は『暁のロンバルディア』、6月に星組の若手メンバーで一度上演されたものの雪組バージョンである。新進の演出家正塚晴彦のデビュー作で、物語は16世紀初頭の北イタリアが舞台、傭兵となった青年貴族の精神的成長を描く青春劇である。その作品の劇団内オーディションを由美子は男役として受けた。だが、結果は捕らわれの王女ソフィアという準ヒロイン役に抜擢されたのである。
兆しは、8月の東京公演『彷徨のレクイエム』ですでにあったと小乙女幸は言う。
「まだ男役の由美ちゃんは、新人公演も女役の私と組んで通行の男をやったり、踊ったり、楽しそうでしたよ。でも本公演では娘役で踊るシーンがあったんです。パーティの場面で、研1生10人だけ、なぜか新調のドレス、すごいワッカで真紅の別珍でした。そのドレスでフィナーレのラインナップも並んで挨拶したんです。そんな豪華な衣装で大階段降りるなんて、下級生ではめったにないことなんですよ。あれは由美ちゃんがいたからだと思いますし、同期のなかでは、由美ちゃんの娘役転向は、当たり前のこととして受け止めていました」
由美子へ・取材ノート
第7章−1 舞台1981〜1982
22 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第7章では入団2年目までの北原遥子の舞台活動を描く。
『暁のロンバルディア』での抜擢によって、本公演でも北原遥子は、次々に大役や新人公演のヒロインがまわってくるようになった。その後、退団まで出演した舞台の軌跡を、歌劇誌や宝塚グラフ誌に掲載された記事や批評、そして当時を知る人のコメントとともに追っていこう。
☆ ☆ ☆
【1981年】
11月13日〜12月20日/宝塚大劇場
『かもめ翔ぶ海』(新人公演・千賀)
『サン・オリエント・サン』スーフィー
芝居の『かもめ翔ぶ海』は、本公演は出番がなかったが、第一回の新人公演では、かもめの群舞と男の子を演じて、女の子役の小乙女幸とともに伸び伸びとした舞台姿を見せた。
第二回の新人公演では、主人公の許婚者千賀、出番は少ないが、格としては大きな役で、北原遥子への劇団の期待をうかがわせた。また、エキゾチックなショー『サン・オリエント・サン』のなかでは、遥くらら扮するオリエントの神サンサーラにいつも付き従うスーフィーに抜擢された。中性的な妖精役を、体操の技を生かして可愛らしく演じた。
●楽屋取材コメント(82年1月号 歌劇)
「今は何でもできるようになりたい時期で、ダンスでももっと感情が表現できるようにしたいんです。スーフィーは可愛かったよと言われたのが嬉しいですね。」
●新人公演評(82年1月号 歌劇)
千賀・北原遥子(本役鳩笛真希) 美しかった。が、最初から何故か悲しそうであった。従って後半泣かせられない。第一回の男の子で見せた天真爛漫さをうまく演技に生かせれば一駒先に進めるのだが。(P)
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
当時、雪組トップ男役として活躍していた女優の麻実れいは、由美子から見たら憧れのスターだった。その麻実はしかし、由美子について、自分なりに親しみも興味も抱いていたという。そんな思い出をこんなふうに語ってくれた。
「彼女を初めて観たのは、雪組に配属されたばかりのときだと思います。劇団に隣接されている一番大きな稽古場に、研1生が入ってきたんです。たぶんロケットの稽古だったと思います。全員が真っ黒のレオタードで、胸に名前が書いてあるんですけど、そのなかの1人の少女があまりにも綺麗なので、“わー綺麗ね!あの子”と、おもわず言った覚えがあります。宝塚は綺麗な娘役さんがたくさんいますけど、私の現役時代に見た中で、同じ名字の北原千琴さんと北原遥子さんが双璧でした。
由美子へ・取材ノート
第7章−2 舞台裏
Top51 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
宝塚入団2年目で、次々と大役に抜擢される北原遥子(本名・吉田由美子)。彼女の舞台人生は順風満帆に思えたが、本人のプレッシャーと周囲の期待に応えようとする努力は並大抵のものではなかった。同室の後輩や友人の証言で、吉田由美子のプライベートを綴る第7章(承前)。
☆ ☆ ☆
本公演と新人公演、稽古と本番が次々に続く毎日に、由美子は脇目もふらず向き合っていた。3つ違いの兄は、81年春には岩手放送のアナウンサーになっていた。
「僕が岩手の局に受かったと聞いて、由美子はすごくがっかりしたようです。“お兄ちゃん、大阪の局を受ければよかったのに、そしたら一緒に住めるのに”と言ってました。初舞台は初日は観られなくて、2日目か3日日かに観ました。最初はどれが妹かわからなかったけれど、トンボ切ったんで、あれかと(笑)。
同室
雪組で2年後輩だった筑紫野あやは、寮で由美子と4カ月ほど一緒に暮らした。
「同室だったのは、私が音楽学校を卒業する直前から、歌劇団に入って配属が雪組に決まった5月まで、由美さんは研2の終わりから研3になるところでした。83年2月に音楽学校で抽選があって、由美さんと同じ部屋と決まり、あいさつに行きました。生活に必要な物はあるので持ってこなくて大丈夫よ、と言っていただいて、洋服とか身の周りのものだけ運び込みました」
3畳ほどの部屋にベッド2つ、ベッドレールが洋服掛けで、ときには洗濯物掛けにもなるという狭さである。
「冷蔵庫は小さいのが一個しか置けないんですが、私はよくゼリーとか作って冷やしておいて、由美さんにすすめるといつも嬉しそうに食べてくださるんです。それが楽しかった。ダイエットに気をつかっていたんでしょう、ふだん食べるものはおからとか果物とか。由美さんは次から次に役がついて、遊ぶなんて時間はなかったし、寮に帰ってきてからも予習復習。ときどき台本の読み合わせを手伝ったりしましたが、できるだけ邪魔にならないようにと心がけていました」
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
友人
兵庫県の仁川に住んでいた益田佳美は、由美子が初舞台を踏んでまもなく知り合いになった。兄が歯科医をしていて、由美子は歯を折ったときに差し歯を作っている。同世代で少し年上の佳美は、普通の友人の感覚で由美子と付き合っていた。
「車での送り迎えをよく頼まれました。家にも何回か遊びに来ています。でも、遊びに行っていい?と自分から言ってくることはめったになくて。気をつかうのがいやだったんでしょうね。食事は、太りやすいのでいつもダイエットしてて、少ししか食べなかった。“お子さまランチの由美ちゃん”とうちではあだ名を付けたくらい(笑)。あと、グレープフルーツをよく食べていました。
性格は真面目で、たくさんの人の前では面白いことが言えないし、後ろに下がっちゃうタイプ。でも親しい人にはお茶目なところも出していたし、しゃべりかたも、鳥がチュチュと鳴くみたいな早口でしゃべって(笑)、甘えたところもありました。よく“温泉行きたいねー”とか“旅行に行きたいなー”とか言ってたけど、忙しくてあまり行けなかったと思います。
由美子へ・取材ノート
第8章−1 舞台1983〜1984
Yumikotop50 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第8章では入団3年〜退団までの北原遥子(本名・吉田由美子)の舞台活動を描く。
この頃、由美子が新人公演で、その役をやらせてもらうことが多かった雪組トップ娘役の遥くららは、同じ横浜出身ということもあり、由美子を妹のように可愛がっていた。遥はこう語っている。
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「由美ちゃんとは、彼女が研1で抜擢されたショー『サン・オリエント・サン』で、私にいつも付いてくる妖精スーフィーを演じたときから、仲良しになって、出番の合間などよく話をしていました。私たちは、いろいろな点で共通点があったんです。横浜出身だったり、男役を経験していたり、早くから役がついて必死だったことも、歌があまり得意ではないことも一緒でした。私も不器用でしたから努力するしかなかったんですが、由美ちゃんにも、同じ道を見ている子という、共感のようなものを抱いて接していた気がします。それに私は一人っ子でしたから、ちょうど妹ができたみたいな気持ちもありました。
私の部屋には、しょっちゅうというわけではないのですが、わりと来ていました。甘えるという感じは全然なくて、上級生と下級生という感じで、お芝居や舞台についての話をすることが多かったです。でもプロ意識とか、お客様に見せるものなんだという気持ちは、すごく持っていた人でもありました。ですから私からではなく彼女のほうから、もっと知りたい、もっと出来るようになりたいという気持ちで来てくれて、だからこそ教えてあげられる、そういう関係でした。
由美子へ・取材ノート
第8章−2 杜けあきインタビュー 屋上の思い出
Top32 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
元雪組男役トップスターで、現在は女優として活躍している杜けあき。北原遥子(本名・吉田由美子)は、2年上の杜の相手役を務めることが多かった。杜は当時を「まるで青春ドラマみたいだった」と語る。
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由美子が初めて雪組に配属されてきたとき、最初は男役でしたから、あ、きれいな男役さんだなーと思ったんです。でも、線がそんなに太くないので、娘役のほうがいいのにな、と思った記憶があります。
娘役になってからは、本公演でも新人公演でも、よく相手役として組みました。新人公演で初めて組んだのは『ジャワの踊り子』、私は研4で彼女が研2でした。
いろいろな面で引っ張るのは、上級生ですから当たり前のことなんですけど、よくディスカッションもしましたよ。彼女は頭がいいから、すごく考えていたし、理路整然と役作りするタイプ。私は感覚人間で、お互いに違うからよかったという気がします。娘役としては、“日本の貞淑な妻”という感じで、楚々としてついて来てくれるタイプ。男役としてはやりやすかったです。
由美子へ・取材ノート
第9章 メディアへの露出
Top33 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。第9章では、テレビ番組の司会やCMモデルと、メディアへの露出が増える北原遥子(本名・吉田由美子)の姿を描く。
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アイドルの顔
由美子は、宝塚のなかでも外部の仕事が多い生徒だった。
70年代に『ベルばら』で社会現象となった宝塚は、80年代には、さまざまなメディアと連携して、スターたちを進出させはじめる。とくに、現代的なセンスと個性で新しいスター像を作った大地真央の存在が追い風となって、宝塚歌劇と各メディアとの距離は一気に縮まっていた。
由美子たちの初舞台の年、81年には、NHKで朝の連続ドラマ小説「虹を織る」が4月から始まり、宝塚音楽学校生の生活と舞台への夢が描かれ、お茶の間を朝を飾った。また「奥さま8時半です」や「小川宏ショー」といった朝のワイドショー、「ズバリ当てましょう!」や「ヒントでピント」などのクイズ番組、さらには歌番組からドラマまで、現役の宝塚スターたちが、タレントとして、活躍を見せていた。
宝塚のスターの顔が変わりはじめていた、と宝塚歌劇団元演出家の太田哲則は言う。
「モダンな顔、小顔、ブラウン管のフレームにおさまるような顔が時代の顔になって、舞台の娘役というより アイドルという感じの美貌」の由美子も、宝塚歌劇団とテレビの蜜月の時代にふさわしいスターだった。
由美子へ・取材ノート
第10章 劇団を去る日
「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第10章では、“無断テレビ出演事件”で、思いがけず宝塚歌劇団を去ることになった北原遥子(本名・吉田由美子)を描く。
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無断テレビ出演事件は、前年、1983年の9月にさかのぼる。
後日、母が娘から聞いた事実関係はこうである。
「その頃、知人を通して知り合いになったあるプロダクションの女性プロデューサーから、テレビドラマのカメラ・テストを受けてみないかと言われ、由美子は、あまり深く考えず出かけて行ったそうです」
カメラ・テストのつもりで行ったところが、現場では本番を収録していて、プロデューサーから、他の人は用意していなかったからと、無理やり出演を頼まれる。それでも断ろうとする彼女を、「セリフはないし、顔は花瓶の花で隠れるように撮ってもらうから、大丈夫」とプロデューサーが説得、押し切られる形で、撮影されてしまった。だが、画面には花とともに若い女性の姿がくっきりと映り込み、彼女を知るものなら誰でもそれとわかる形で編集されてしまう。
劇団は、宝塚企画という劇団のマネジメント部門を通さない外部出演を、一切認めてはいなかった。なりゆきとはいえ間違いなく由美子はここでルール違反をおかしてしまった。そして何カ月かのちには、それがブラウン管を通して白日のもとにさらされしまうことを彼女は知った。由美子へ・取材ノート
第11章 女優への助走
Top35 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第11章では、宝塚を退団し、女優として再出発することになった由美子が、不思議な縁である芸能プロダクションの代表と出会い、その事務所に所属するまでを描く。其田プロダクションというその事務所には、当時、人気No.1女優だった夏目雅子がいた。
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夏目雅子との出会い
宝塚を退団した由美子は、所属プロダクションを其田事務所に決める。代表の其田則男は、新劇の人気劇団、俳優座を経て文学座に籍を置き、映画や放送のセクション(いわゆる映放部)で、劇団マネージャーの草分け的存在として、手腕を発揮していた。やがてそのキャリアと人脈を持って独立、1969年に民芸の内藤武敏や鈴木瑞穂、文学座の石立鉄男などを抱えて、其田事務所を開いた。
その後、女優は市毛良枝、春川ますみ、若手男優として売り出していた峰岸徹を加え、中堅どころのプロダクションとしてかなり知られる存在になっていたが、業界での知名度を一気に押し上げたのは、当時の人気NO.1 女優夏目雅子の存在だった。
夏目雅子は本名小達雅子。華やかな美貌と、伸びやかなスタイルの持ち主で、76年に女優デビュー、翌年カネボウのカバーガール“クッキーフェイス”のコマーシャルでブレイク。以後、テレビドラマ「西遊記シリーズ」(78〜79年、79〜80年、日本テレビ系)の玄奘三蔵の鮮烈な色気や、和田勉演出の「ザ・商社」(80年、NHK)での大胆な演技で注目を浴び、その勢いをかって、映画「鬼龍院花子の生涯」(82年)や「時代屋の女房」(83年)に主演、映画賞を総なめにしてしまった。
同時に、彼女の育ちの良さからくる無邪気さや無防備さは、ゴシップ好きのマスコミの好餌になり、恋人伊集院静との結婚までの紆余曲折は、知らないものがないほど、テレビや週刊誌を賑わしていた。
「夏目雅子は、僕にとって初めて素人を預かって育てたケースでした。本人の資質の良さや性格のよさもあって、僕が彼女に描いた理想を具体化してくれて、大きな花を咲かせることができた。そして、伊集院さんと結婚して少し落ち着いた状態になったので、僕も、そろそろ次の女優を育てたいと思っていた。その頃、北原遥子との出会いがありました」
第12章 女優修行
Top39 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第12章では、女優第1作目の作品である映画『ザ・オーディション』から、翌年の舞台『カサノバ’85』に出演するまでの由美子を描く。
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『ザ・オーディション』
女優としての由美子の第一作は、84年公開の東宝東和配給『ザ・オーディション』、映画初出演である。当時の人気アイドルグループ・セイントフォーの4人の少女と、人気ロッカー世良公則が主演する、アイドルのデビュー物語で、監督は新城卓。前年の『オキナワの少年』で、批評家や映画ファンに一躍注目されたところだった。
「この映画のオファーが来たときは“僕がなんでセイントフォーを?”と思ったんですが、『オキナワの少年』で、シロウトの使い方がうまいと思われたんでしょうね(笑)。
北原遥子の印象は、年の割に落ち着いているなと思いました。セイントフォーを鍛えるインストラクターの役で、マット運動をしてみせたり、劇場で指導したり、出番はわりと多かったと思います。綺麗な人でしたが、イントネーションに難があった。いわゆる宝塚的なセリフというか、言う前に構えてしまうんですよね。それがなかなか直らなかった。でも、素直でしたし熱心で、僕のうるさい注文に、がんばってついてきました。それに、出番がなくても、セイントフォーにつけている芝居をずっと見ている。非常に貪欲でした。
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
『カサノバ '85』
映画撮影が終わった翌年は、亀田製菓とダイアモンド、デビアスのコマーシャル撮影。内藤の記憶では、両方とも事務所の売り込みではなく、代理店側からのオファーだった。
「宝塚時代にいくつかの広告モデルをしていたことで、そちらのほうの知名度はあったと思います。
ダイアモンドのデビアスのCMは、2バージョン撮って、事故の直前に2バージョン目が流れ始めたばかりでした。クライアントはアメリカが本社で、事故を知ってからも中止する必要はないと言ってくれました。でも、やはり日本の感覚では、放送しにくかったのでしょうね、中止になりました。デビアスの北原は本当に美しかったと思いますし、本人もCMの仕事には慣れていて自信があったから、いい顔で撮られていました」
由美子へ・取材ノート
第13章 夢への一歩
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第13章では、女優デビュー1年目で、映画・コマーシャル・舞台と順調にキャリアを積み重ねていた由美子の、次に予定されていたテレビドラマ主演のエピソードを描く。
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『星の旅人たち』
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
もちろん其田事務所は、『カサノバ'85』の舞台が終わった時点で、北原遥子の次の仕事をすでに考えていた。市川森一脚本のドラマで、その年の11月に単発で放送される東芝日曜劇場の1500回記念ドラマ、『星の旅人たち』の主役である。
市川森一は、『黄金の日々』をはじめとする夏目雅子のテレビドラマをたくさん手がけたヒットメイカーであり、女優夏目雅子の育ての親の1人でもある。その市川にとっても、由美子は短い出会いながら、強烈な印象を残している。
「たぶん北原遥子とは、3、4回しか会ってない。それなのに印象が鮮明なんです。
最初は、其田くんに紹介されて、どこかのパーティか劇場で会った。夏目雅子の妹分ということで、其田さんが力を入れているようだし、綺麗だったから、うまく育てばいいなと思いました。ですから『星の旅人たち』の企画が出たとき、彼女をヒロインにと推薦した。東芝日曜劇場の主役は、新人にとっては大きな登竜門です。そこで認められれば一夜でスターになれる可能性もあった。由美子へ・取材ノート
第14章 別れの夏
Top41 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第14章では、1985年8月、由美子と関わりのある人たちの、それぞれの別れの日のエピソードを描く。
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その日
兄にとって、由美子との最後の日は8月5日だった。
「黒のボートネックの服を着て、買ったばかりの車を運転して来て、僕を乗せてくれた。そのあと渋谷で夕飯食べて別れたんです。髪が長かったせいか、妹ながら綺麗だなあと。24歳になってましたから、だいぶ大人びてきて、これから男もできるだろうなと、ちょっと寂しい気もしました」
事務所の其田則男と内藤陽子にとっては、苦い別れかただった。
「たぶん実家に戻る前の日でした。私と其田さんとで北原を呼びつけて一晩中叱ったんです。実は、あるプロデューサーのかたに誘われてアメリカに旅行するという。事務所を通しての話ならまだしも、個人レベルの話でしたから、どういう意味なのかわかっているのかと、さんざん叱りました。叱り役は私、其田さんはなだめ役でした。由美ちゃんは大声で泣いてました」
由美子へ・取材ノート
第15章 日航123便
19850813 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第15章では、1985年8月12日の事故の経過を書く。
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1985年8月12日、月曜日、夕刻。羽田発大阪行き日航123便ボーイング747型機は、定刻より12分遅れて6時12分に羽田を出発した。乗客509人と乗員15人、全部で524名を乗せていた。吉田由美子のシートナンバーは29D、通路側の席である。747型ジャンボ機は2階建てで、歌手の坂本九は2階席の64H、由美子のそばの31列ABCには、三代目伊勢ケ浜親方(元大関清国)の妻子がいた。この事故で奇跡の生存者として救出された人たちが4名いたが、それぞれ最後尾に近い50列あたりの席に座っていた。
天気は好天、気温29度、南西の風8メートル、周辺には雷雲や乱気流の発生は報告されていなかった。
☆
由美子へ・取材ノート
第16章 遭難
Sc16_1 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第16章では、1985年8月12日、事故の一報があった後、家族、関係者の姿を書く。
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事故と人々
実家では母が、最初に由美子の遭難の報せを聞いた。
事故のニュースがテレビに出はじめた午後8時前後に、伊丹空港に迎えに出ていたという知人から電話が入った。
「事故機に乗っていたはずです」と告げられた。
「朝、家を出るときは、そんなことは言ってなかったので、最初は信じられなかったんです。でも其田さんに確認したら、大阪に行くかもしれないと聞いていたと。
由美子の部屋に電話しても出ないし、本当かもしれないと思い、私の妹と弟の家に電話したりしているうちに、乗客名簿に名前が出たらしくファンのかたや友人から電話が次々にかかってきました。とるものもとりあえず、私たちは車で羽田に向かうことにしました。1時間ほどで羽田に着くと、弟の宏志や妹の夫の樋口さんが待っていてくれました」
羽田には遭難者の身内の者用に、現地までのバスが日航側によって用意されていた。4人はそれに乗せられて事故現場に向かった。
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
焦燥
事故現場については情報が混乱していた。最初に長野県側と誤報されたため、両親たちはいったん長野県小海町までバスで運ばれてしまう。そこから再び群馬県側に向けてバスで移動、対策本部のある藤岡市には、昼頃にたどり着いた。藤岡の市民体育館が本部になっていて、家族たちは、いくつかの小・中学校の体育館に分かれて待機することになった。
雅彦の乗ったバスは、走っている最中に群馬らしいと情報が入り、そのまま藤岡へ直行した。
「バスの中で、朝方、短波で生存者がいるというのを聞いて、妹の生存を僕は信じていました。到着は昼過ぎで、関係者用の藤岡の体育館に行き、両親とはそこで顔を合わせました。由美子の同期で実家が長野の小島希恵(芸名・南郷希恵)さんと埼玉の青木玲子(芸名・文月玲)さんのご両親が、駆けつけてきてくれて母を励ましてくれて、ありがたかったです。
朝からいろんなメディアが事故の情報を伝えはじめていて、テレビではNHKが、宝塚の北原遥子と顔写真を入れて報道していました。でも体育館にいても、現実じゃないみたいなんですよ。事故機に確かに乗ってたという証拠はない。大阪で待ってた人の話だけでしたから。遺体確認するまでリアリティがないし、信じない。死んだという事実を感じないままでいました。由美子へ・取材ノート
第17章 由美子その死
Sc17 「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第17章では、1985年8月17日、遺体が見つかった日、そして葬儀の日の光景を描く。
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13日から遺体の確認作業は始まっていたが、由美子の生死はなかなか判明しなかった。体育館には遭難機の座席表が張り出されていて、遺体が見つかるとその座席が塗りつぶされていく。キャンセル待ちで乗った由美子の座席ナンバーは、予約者名簿には書かれていない。どこに座っていたのかもわからないまま、一家は座席表を前に焦燥感をかみしめる日々が続いた。
「乗っていた場所によってはかなりひどい状態だと聞いていましたから、妹のことも覚悟していました。着いてから4日、5日と経っていくと、1組、2組と家族の遺体を発見して帰っていく人たちが出てきて。少しずつ遺族がいなくなっていくと、残されるものたちの焦りや寂しさが強くなっていくんです。そんな状態ですから、完全に近い遺体を連れて帰れる人は、本当に羨ましがられていました」
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
一晩、我が家で眠った由美子の遺体は、18日の午後、西五反田の桐ケ谷斎場で荼毘に付された。母は火葬場で由美子の棺が扉の向こうに消えたとき、崩れるように倒れた。
夜7時からが通夜で、宝塚の同期生や平沼高校の同級生など200人が訪れた。親友の黒木瞳は、月組の仲間に抱えられるようにして参列していた。
告別式は翌19日午後0時半から、場所は同じ桐ケ谷斎場で、事故からちょうど1週間目だった。由美子へ・取材ノート
第18章 遺したもの
S18_4「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第18章では、由美子が残した遺品、そして遺された両親が墜落現場の御巣鷹を訪れた日を描く。
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遺品
由美子の遺品を引き取るために、母は何度か群馬県前橋の県警まで足を運んだ。
「靴はとうとう見つかりませんでした。たぶん不時着にそなえて脱いでいたのでしょう。それからバッグもなかった。気に入っていつも使っていた白い大きなバッグが、部屋を探してみたらなかったので、それを持っていったのだと思います。おそらく焼けてしまったのでしょう、中身は出てきたのですが。化粧ポーチもありました。いつも髪をとめるカラーゴムまでちゃんと残っていました。大事にしていたミュシャの絵のコンパクトがありませんでした。時計も皮(のバンド)は見つかったのですが、本体はなかった。
スケジュール帳は、私は見覚えがなかったのですが、中に市川森一さんの名刺があったので由美子のものと知りました」
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
その山へ
遺族が初めて墜落現場を見ることができたのは上空からで、事故の年の秋だった。10月24日に合同慰霊祭が東京で行われ、そのあとヘリコプターで花束を落とすために、現場まで日航が大型ヘリで運んでくれた。
「夫と2人で乗って行きました。もう紅葉が始まっていたけれど、事故現場の地肌はえぐれたままでした。救出や遺体運搬のためにつくったヘリポートも、そのまま残っていました。でもそこに降りることはできなくて、花束を投げ落としただけで、旋回して帰ってきました」由美子へ・取材ノート
第19章 レクイエム
Yumiko19_1
「うたかたの恋」の新人公演、マリー(「由美子へ」より)
「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第19章−1、第19章−2では、宝塚時代の仲間や由美子が世話になった人々、子どもの頃からの友人たちが語る由美子のこと、そして由美子の名が刻まれている4つの墓碑について描く。
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19章-1 レクイエム1
麻実れい 「亡くなったことは今でも私の中で大きな衝撃となって残っています。自分の近いところにいた人だったこと、稽古場で一緒に作りあげていく仲間だったこと、そして突然退めてしまって気になっていた人だったこと。
気持ちの収拾がなかなかつきませんでした。それに、たまたまあの日は、私も大阪に行く用があって、ちょうど仕事が早く終わって、あの便をキャンセルして1便早いJALに乗ったんです。着いてから人と会っていたら、事故のニュースが入ってきて、あまりにもショックな出来事でしたから、そのあと1年以上、あの時間帯の飛行機は乗れなくなりました。 ……」
遥くらら 「事故の時は大阪の舞台に出ていて、ホテルの自分の部屋に戻っていたとき、知人から電話がかかってきたんです。“たいへんだ。事故があって、今、由美ちゃんの名前が出てるからテレビ見て”と。すごい衝撃でした。それ以来、ああいうものを見るのがだめになりました。次の日、舞台の終演後にインタビューを受けたんですが、ほとんどまともに答えられませんでした。……」
杜けあき 「事故のことは旅先で知りました。友達と旅行に行っていて、たまたまテレビを見ていたら事故の速報が出て“ヨシダユミコ”という名前が出たんです。大阪行きの便だし、もしやと思いました。
電話で、どうも由美子らしいということを聞いてからは、テレビにかじりついて、連絡を待って眠れませんでした。……」
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
19章-2 レクイエム2
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
4つの墓碑
港区三田の玉鳳寺。由美子が眠る寺である。
入り口に地蔵堂を持つこぢんまりとした寺で、入り口の地蔵尊は「化粧地蔵」。俗に「おしろい地蔵さん」と呼ばれていて、顔のアザや傷を治すと言われている。
この寺に吉田家が墓所を持つことになったのは、先代の住職が、桐ヶ谷斎場で行われた通夜と葬儀の際に読経をあげてくれた僧侶のひとりだったことによるものだが、美しかった由美子が、容貌にまつわる悩みを救う寺に葬られているというのも、不思議な因縁という気がする。
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真矢ミキ日航事故で亡くなった同期偲ぶ
日航ジャンボ機墜落事故で亡くなった北原遙子さんをしのんだ真矢ミキ
拡大
520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故から30年目の12日、女優の真矢ミキが、MCを務めるTBS系情報番組「白熱ライブ ビビット」で事故で亡くなった宝塚歌劇団の同期・北原遙子さん(享年24)をしのんだ。
北原さんの母・吉田公子さんのインタビュー映像中、真矢は何度もうなずき、目をしばたたかせた。「彼女はすごく信念を持っていた。演技の授業で“お母さーん”と叫んだ日を、昨日のように覚えています」と振り返った。
真矢ミキさんが語る同期の北原遥子さんの宝塚時代のエピソード
北原さんは、真矢をはじめ黒木瞳、涼風真世ら、そうそうたる同期の中にあって、ひときわその美貌が際だったタカラジェンヌだった。小さい頃から器械体操やダンスを習い、全国大会でも好成績を残すほど。劇団でも早くから注目され、抜擢も相次いでいた。プライベートでは同じ娘役同士の黒木瞳と仲が良く、2人の旅行写真なども映し出された。退団後も順調で、ドラマの主演も決まっていた矢先の事故だった。
真矢は「音楽学校のころから(日々の生活を)質素に構築して、ご家族の教育も素晴らしかったんだろうけど、着眼点がぶれない人だった」と、その人柄をたたえた。
写真
♪すみれの花咲く頃
初めて君を知りぬ
君を思い 日ごと夜ごと
悩みし あの日の頃
晴れやかで、それでいてどこかはかなげなメロディー。「すみれの花咲く頃」は欧州で生まれた。昭和の初めに留学した演出家白井鐵造(しらい・てつぞう)が、シャンソンの楽譜を持ち帰り、やがて宝塚のテーマ曲になる。
◇
「自分が『清く正しく美しく』の宝塚の生徒であるという誇りを抱かせてくれる歌なんです」。女優の黒木瞳(くろき・ひとみ)(48)は青春の6年余りを宝塚ですごし、幾度もこの歌をうたった。
黒木は高校生のころ、故郷の福岡で、宝塚の「ベルサイユのばら」の地方公演を見た。
なんて華やかな世界! 両親の反対を押し切り、タカラジェンヌの登竜門、宝塚音楽学校へ。「すみれ寮」に入る。
「毎日、毎日おけいこ。礼儀作法も、あいさつも。すべてがとても厳しくて」
朝6時半、寮の玄関が開くのを待ち、800メートル離れた学校へ駆け出した。新入生には伝統の掃除が待っている。毎朝いっしょになる少女がいた。同期生で、ひとつ年下の北原遥子(きたはら・ようこ)だ。
横浜育ちの北原も「ベルばら」にあこがれ、すみれ寮に入っていた。さばさば型の黒木、くよくよ型の北原。どちらもめっぽう頑張り屋。何でもうちあける仲になる。2年後に卒業、そろって初舞台を踏む。
黒木は翌82年、「男役」のトップスター大地真央(だいち・まお)(52)とコンビを組む「娘役」のトップに大抜擢(ばってき)された。でも親友のきずなは変わらなかった。
北原は歌劇団の許可なくテレビドラマに出て、謹慎をいいつけられる。「寮にいるのはつらい」。アパートに移っていた黒木の部屋に転がりこんだ。やがて退団し、女優になる。
85年夏。黒木は東京宝塚劇場で舞台に立っていた。楽屋に北原から電話。「これから大阪に行くの」「明日、会おうね」
その夜、黒木はニュースで日航ジャンボ機墜落を知る。もしかして……。北原の実家に電話した。ずっと、話し中。何度も何度もかけ直す。やっと親類の人が出た。不安は的中していた。8月12日、北原は24歳の若さで帰らぬ人となる。
本名は吉田由美子(よしだ・ゆみこ)。父の吉田俊三(よしだ・しゅんぞう)(77)と母の公子(きみこ)(74)は事故の翌年から、春、夏、秋と、日航機が落ちた尾根へ向かった。俊三はカセットデッキを担ぎ、尾根で「すみれの花咲く頃」を流した。
93年夏の命日。慰霊登山の人々がたたずむ尾根で地元のアコーディオンサークルが鎮魂の曲を奏でていた。「リクエストを聞かれ、とっさに浮かんだのがこの歌」と公子。それから毎夏、奏でられるようになる。
数年後の5月、御巣鷹を訪れた俊三は、あっと息をのんだ。娘の墓標のそばに、かれんな野生のすみれが咲いている。
「うれしくてねえ。カメラで撮りました。あの子の人生はやっぱり宝塚だから」
公子もいう。「毎年、歌を聞かせていたからかしら。今でも、風になった娘がどこかから見ていてくれるという気持ちがするんです」
◇
「すみれの花咲く頃」のフランス語の歌詞は「リラの花」だった。宝塚にもちこんだ白井は、それを日本人になじみ深い「すみれ」に変え、歌と踊りのレビュー「パリゼット」で披露した。
その白井の故郷、浜松市には歌碑と記念館がある。白井を慕う「すみれ草花愛好会」会長の渡辺(わたなべ)せつゑ(82)らが毎年、すみれの苗を育て、宝塚の街角を飾る花壇に届けている。
「すみれは、つつましいけれど、根っこはすごいのよ
由美子だという棺のふたを開けて、見せてもらいました。全身、白い布で巻かれていました。最初に手の布をとってもらいました。その手をひと目見ただけで、由美子だとわかりました。指が長く、女性にしては大きな手でした。爪の形は雅彦にそっくりでした。由美子の手そのものでした。色は真っ白で、見慣れたままの姿でした。 …
(「由美子へ」第3章・由美子その死)
13日から遺体の確認作業は始まっていたが、由美子の生死はなかなか判明しなかった。体育館には遭難機の座席表が張り出されていて、遺体が見つかるとその座席が塗りつぶされていく。キャンセル待ちで乗った由美子の座席ナンバーは、予約者名簿には書かれていない。どこに座っていたのかもわからないまま、一家は座席表を前に焦燥感をかみしめる日々が続いた。
「乗っていた場所によってはかなりひどい状態だと聞いていましたから、妹のことも覚悟していました。着いてから4日、5日と経っていくと、1組、2組と家族の遺体を発見して帰っていく人たちが出てきて。少しずつ遺族がいなくなっていくと、残されるものたちの焦りや寂しさが強くなっていくんです。そんな状態ですから、完全に近い遺体を連れて帰れる人は、本当に羨ましがられていました」
16日になって、“確認できない遺体”が約100体ほど運び込まれた。各家庭から代表2人が出て確認に当たることになり、雅彦と母はバスで別の体育館まで出向くことになった。そこにはたくさんの柩が並んでいて、柩の上には、性別、年代、遺体のどの部分か、特徴などが書かれている。それを見て心当たりがあればその柩を開けてもらうのだが、そのほとんどが部分遺体と呼ばれる遺体の一部でしかなく、なかには炭化して、とうてい人間の体だったとは思えないものも納められていた。線香の煙と換気扇の音のなかで、2人は黙々と遺体を確認し続けたが、そこに由美子の姿を見ることはできなかった。
由美子が見つかったのは6日目、17日の午後である。
その日の昼ごろに、「所持品が見つかったので、市民体育館まで受け取りに来てください」という知らせが入り、家族は確かめに出かけて行った。たしかに見覚えのあるルイ・ヴィトンの財布が、3分の1だけ焼け焦げた状態で置いてあり、中には取ったばかりの運転免許証も入っていた。その品々を受け取り、母が受領証を書くことになり、其田則男から持たされた由美子の写真を机の上に置いたまま書類を書きこんでいると、通りかかった県警の捜索隊長が写真を見て、「この人なら女子高にあるよ」と声をかけてきた。
「妹は前の日に体育館に運ばれてきて検死されたそうで、証明書がついていました。顔や手足は包帯でグルグルに巻かれていました。その包帯を外して顔を確認したのは母です。僕は見られなかった。でも爪の形で分かりました。爪は僕とそっくりだった」
死因は脳挫傷と内臓破裂。発見が遅くなったのは、事故現場のなかでも奥に分け入った場所まで投げ出されたためで、そのことが幸いして、火災現場から遠かった由美子の遺体は、奇跡的といっていいほど損なわれずにすんだ。520人の遭難者のなかで完全遺体で戻ったのはわずか十数体、吉田由美子はそのなかの1人だった。
生きていたら着替えが必要だからと取り寄せてあった赤いワンピースが、死装束の代わりに包帯で巻かれた遺体にかけられた。雅彦は一足先に横浜に発ち、両親が由美子に付き添って我が家へと向かった。車が家に着いたのは夜8時過ぎ。元気に手を振って出かけたあの朝から数えて6日目の無言の帰宅だった。
「その晩は父の部屋に寝かせてやりました。すでに事務所のスタッフのかたたちや親戚が集まっていて、それから石立鉄男さんや宝塚の同期生が、次々に会いに来てくれました」
一晩、我が家で眠った由美子の遺体は、18日の午後、西五反田の桐ケ谷斎場で荼毘に付された。母は火葬場で由美子の棺が扉の向こうに消えたとき、崩れるように倒れた。
夜7時からが通夜で、宝塚の同期生や平沼高校の同級生など200人が訪れた。親友の黒木瞳は、月組の仲間に抱えられるようにして参列していた。
告別式は翌19日午後0時半から、場所は同じ桐ケ谷斎場で、事故からちょうど1週間目だった。
当時の週刊誌の記事より
【サンケイスポーツ 8月20日朝刊の記事より】
【(前略)葬儀委員長は其田則男がつとめ、同じ所属事務所の俳優、石立鉄男、峰岸徹、市毛良枝をはじめ、樹木希林、世良公則ら芸能関係者、ファンなど約500人がつめかけた。祭壇中央に菊の花で囲まれた北原さんの美しい遺影が飾られ、その下に金色の布で覆われた遺骨が置かれた。約100本の供花の中には、入院中の夏目雅子の名もあった。夏目は同じ事務所の北原さんのことを「妹のように」(夏目)とても可愛がっていたという。
(中略)葬儀では、宝塚雪組同期生(第67期生)を代表して藤井京乃さんが弔辞を読み、続いてファン代表、斎藤和子さんが「ユミちゃん(北原さんの愛称)、雲の上のステージで、虹をバックに、星のスポットライトをあびて、大好きなお芝居をしてください」と涙ながらに語りかけると、父俊三さん(五三)、母公子さん(五一)、兄雅彦さん(二七)の遺族はたまらずハンカチを目にあてていた。
北原さんにウリ二つの公子さんは「できることなら時計を逆戻りさせ、元気に手を振って家を出た十二日午前九時頃にしてほしい」と言葉少なに話した。】
マネージャーの内藤陽子には、葬儀にまつわる忘れられない光景がある。
「18日の早朝でした。前の晩からお宅に泊まり込んでいた私と其田さんは、お線香をあげようと思って由美ちゃんを寝かせてあるお部屋に行ったんです。そしたらお父さんが、由美ちゃんのご遺体に向かって正座して、静かに泣いていらしゃいました。私はそれまで、お父さんの涙を一切見ていなかったんです。あぁ、もう少し2人だけにしてあげればよかったなとすごく後悔しました。それ以降は、お父さんはまた涙を見せずに、淡々としていらっしゃいましたから。
もう1つは19日のことです。桐ケ谷斎場では、日航機事故のご葬儀が3つ重なっていて、その1つは遭難されたスチュワーデスのかたのだったんです。それを知ったお父さんは、そちらにもお参りに行かれたんですよ。娘を亡くした気持ちは同じという思いで迷いなく行かれた。胸が熱くなりました」
兄の雅彦も、葬儀の日に初めて泣いた。
「僕が参ったのは、妹が『カサノバ'85』の歌をレッスンしているテープが流れたときです。聞いたとたん、張りつめていた気持ちが一気にほどけてしまって、ひざのハンケチの上に、涙がしずくではなく滝のように落ちていくのを、自分で見ていました。歌がけっこううまくなっていたから、ああ、少しはほめてやればよかったなと。けなしてばかりいましたからね」
境内の東側にある墓地の奥に美遥観音(びようかんのん)があります。
山門を入っただけではすぐにはわかりませんでしたので、ご住職にお伺いして見つかりました。
山門を入ると正面左に本堂がありますが、その東側が墓地となっていて。その一番奥に鎮座しています。
宝塚歌劇団卒業生の北原遥子(きたはら ようこ)さんは、昭和60年に起きた日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落した事故の犠牲となりました。
芸能界での大いなる前途とまだ24歳であった人生を不幸な形で絶たれた北原をしのんで有志が建立した観音様です。
北原さんの実家が玉鳳寺の檀家でしたので、玉鳳寺に建立されたそうです。
非常にやさしそうなお顔をしている観音様です。
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