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2017年11月24日
暇なので、タバコ買いに行くとき(;^_^A井川慶思い出した!
井川慶が語る進退とこれまでの野球人生
「NPBから声が掛からなければ…」
全盛期の、井川顔面スクイズ決めたこと思い出します。
ノーヒットノーランもあったなぁ(;^_^A
バッティングの良かったピッチャーのムーア
それにあやかろうとピッチャーが打席に立つときはムーアメットを被っていたそうです。
阪神時代のムーアの打撃成績は48試合 105-31で.295 11打点。
恐ろしいです。
2003、05年と阪神の優勝にエースとして貢献し、MLBの名門ヤンキースのユニホームも着た井川慶は今季、独立リーグ「ベースボール・ファースト・リーグ」の兵庫ブルーサンダーズでプレーした。今年の夏に話を聞いた際には「自分が納得できるシーズンが送れたら、今季を最後にする」と語っていた。シーズンを終えた今、井川は自らの進退にどのような決断を下したのか。それを確かめるべく、再び彼のもとを訪ねた。
自身の進退について
──今年の夏に別の取材で話をうかがった際には、「ケガなくシーズンを過ごせて、自分が納得できるボールが投げられたら引退も考えている」と話してくれました。ズバリお聞きしますが、自身の進退についてはどう考えていますか?
一部の報道にも出たとおりで、NPBのチームで投げるチャンスがあれば全力でやります。でもそれがなければ、ひと区切りというか、休養しようかなと思っています。
──引退ではなく、休養?
そうですね。
──引退という言葉で、けじめをつける考えはない?
最初から、そういう考えはありませんでした。若いころに伊藤喜剛(よしたか)さんという、同じ茨城県出身の陸上選手とトレーニングをさせていただいたことがあったんです。伊藤さんは100メートル走で世界選手権にも出られた方で、その人が現役を上がられるときに「引退じゃなく、休養する」と言ったんです。それを聞いて、「なるほど、こういうやり方もあるんだ」と思いましたね。伊藤さんは当時、「僕は引退と言っていないですから。復帰するかもしれないですよ」とも話していました。
──引退すると言わない限り、現役であり続ける?
そうそう(笑)。
──ドラフト、トライアウトも終わってNPB球団の来季への編成はひと区切りがつきました。その一方で、来季の支配下選手登録は7月末まで可能です。そこまで待つ考えは、あるのですか?
待つというか、そんな感じではないですね。自分にチャンスがあるとすれば、例えばキャンプでケガ人が出て、ピッチャーの枠が空いてしまったとか。そういう場合でしかないと思っています。この時期が過ぎたら一切野球をしないとかではなく、そういうスタンスでいます。
──現時点でNPBへの復帰が難しい状況であるとは、自覚している?
もちろん。ハナからないとは思っています。プロ野球の流れも知っていますしね。でもヤンキースでチームメイトだったロジャー・クレメンス投手は、シーズン途中で復帰して試合でバリバリに投げていました。「こういうこともあるんだ」と思っていたことを、覚えていますね。
求めた「納得のいくボール」
夏の時点では、「自分が納得のいくボールを投げるために、ここでプレーしている」と言っていました。そのボールは、投げられましたか。
だいたい、ですけどね。もともとプロでやっていたので、こうしたらもっといいボールが投げられるんじゃないかとか、やっているうちにいろいろと出てくるんですよ。時間との兼ね合いもあったりするなかで、ある一定の満足は得られたかなと思います。
──大満足ではない。
それはなかなかね。野球をしていて大満足することは、いつのシーズンでも難しいです。
──この環境、今の年齢と体の状態で投げたボールとしては納得できる?
客観的に見て、全体的には満足していますね。
──今季追い求めた「納得のいくボール」を言葉にすると?
自分のなかに昔からイメージがあって、腕をこのくらい振ったら、このくらいのボールが行くという感覚があるんですよ。阪神時代や、プロで投げていたころのイメージですね。あのころと同じではないですけど、今季はそれに近づけたかなと。オリックスにいた最後のほうはキャッチボールをしていても、自分で腕を振っているつもりなのに、思ったボールが行かなかった。ボールの勢いと自分のイメージの違いが、大きすぎたんです。それが去年の後半になってキャッチボールから、段々とイメージに近づいてきた。オリックスは15年で退団することになりましたが、もう一度、自分が思うボールを投げたいと思って、今季はブルーサンダーズでプレーさせてもらうことにしたんです。
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2017年11月23日
朝散歩の時に昨日の相撲思いだした(;^_^A
2017年11月22日
国会中継みてたら(;^_^A何故か達川思い出した
デッドボール詐欺 達川光男 プロ野球の歴史
名演技思い出す(-_-;)
達川光男―
1973年―
春の選抜甲子園にて、「怪物」江川卓擁する作新学院をささやき戦術を駆使して準々決勝にて破る。
プロ入り後もレギュラー級としては少し物足りぬ打撃ではあったが、
それを補って余りあるリード能力と明るさを買われスタメン捕手として広島東洋カープで台等。
そうして出場機会の増加に伴い懸念だった打撃も開眼。
危険球が左腕をかすめたのに右腕を主審に掲げて死球を得るというマラドーナな領域にまで成長。
こういったクレバーさは打撃、リードだけには留まらず契約交渉にも及んだ。
――ワシが広島で最初の2000万円捕手になるんじゃ――
自信を深めた達川さんは、
そう意気込んでシーズンオフの契約交渉に臨んだ。
――達川、来期のお前の年俸は1980万円!2000万にすると税金の区切りが悪くてお前の手取りが減るんだ。これはあくまでも税金対策だからな。――
広島球団は今も昔も契約更改において手強い。日本球界最強ではないだろうか。
2000万円を要求する達川さんに対し土俵際で踏みとどまった。
――この20万を足すけん、ワシの年俸ば2000万にしてくれんかの?文句はないじゃろ。――
達川さんは予め用意していた20万円をゆらりと財布から取り出しながら言い放った。
難攻不落の広島球団も達川光男のあまりに実戦的な作戦の前に崩れ落ちたのだった。
こうして、
広島カープ初の2000万円捕手・達川光男が誕生したのだ。
その躍進の原動力となったのは、リードもさることながら、
先日のコラムでも軽くなでた卓越した偽装死球技術。
―騙しの達っちゃん―
―グラウンドの詐欺師―
さほど時を必要とせず達川さんは畏敬の念を込めてそう呼ばれるようになっていた。
ハーフスイングを主審の死角を利用してごまかす―
人呼んで忍者打法を3年の歳月をかけて完成させ猛威をふるっていた―
東のグラウンドの詐欺師・球界の詐欺師こと大洋ホエールズ(現在の横浜ベイスターズだよ)・市川和正捕手とは、
同年代・同一リーグ・同一ポジションであり、
意識しあってお互いを高みに導こうと切磋琢磨した強敵(とも)であったのだ。
ここで、
達川光男選手が用いた偽装死球技術・創死球技術、
いわいるデッドボール詐欺の手口を紹介しておこう。
1 内角にそれなりに危なそうな球が通過―
2 とりあえず静かに一塁へ走り出す―
3 当然のごとく主審に止められる―
4 振り向きざま鬼の形相で死球をアピールする―
この技術は発案実行当初においてものの見事に成功した。
達川、死球を量産―
しかし、審判団の研究は凄まじいスピードで進み―
ついには達川さんの演技を誰も相手にしなくなったのだった。
だが、達川さんは研究合戦で更に上回った―
1 内角にそれなりに危なそうな球が通過―
ここまでは、初期に見られたデッドボール詐欺と同様であったのだが―
ここで、おもいっきり痛がる素振りをいれたのだ。
これがまた狡猾なことに猛烈に痛がる素振りをすると同時に、
ボールが着弾したことにする仮患部を赤くなるまで搔き毟ったのだ。
それが自然な流れの中で刹那のうちに行われ―
赤くなった仮患部を主審に、
――これみてみんかい、どうじゃ?あたっとるのう――
と見せつけて死球を得る。
新型のデッドボール詐欺はまたも猛威をふるったのだ。
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暇でぼーとしてたら(;^_^A永源遥を思い出しました。(;^_^A
元プロレスラーでノアの顧問役を務める永源遥氏が28日、死去した。70歳だった。石川県出身。関係者によると都内のサウナ店で倒れ、死因は調査中という。この日午前に都内のノア事務所で、永源氏と日本プロレス時代などの昔話で談笑した内田雅之会長は「信じられない。ショックで言葉が出ない。プロレス界の生き証人としても大切な人だった」と声を詰まらせた。元気な様子だったという。
永源氏はラッシャー木村に誘われ、66年に20歳で大相撲立浪部屋から東京プロレスに入門。同年10月に木村戦でデビューした。その後、日本、新日本、ジャパン、全日本、ノアと主要6団体を渡り歩いた。全日本では89年から井上、渕、大熊らと「悪役商会」を結成。90年代に全日本でジャイアント馬場らの「ファミリー軍団」と抗争を展開し、人気者になった。
水平チョップを受けた拍子につばが飛んだことをきっかけに生まれた「つば攻撃」が代名詞。客席へのつば飛ばしもあり、リングサイドの観客が新聞紙を広げてガードする光景が定番だった。コミカルなファイトでファンの支持を得た。06年に60歳で現役引退するまでシングル王座獲得は1度もなく、トップ戦線に絡まない前座レスラーだったが、昭和を代表する名脇役の1人だった。
ノアに00年の旗揚げから参加。引退後は取締役などの要職を歴任。現役時代から政界にまで培った幅広い人脈を生かし、団体の運営にも貢献してきた。近年は試合会場の入り口付近に立ち、ファンと気さくに接する姿があった。ノアは今日29日に会見を行う。
◆永源遥(えいげん・はるか)1946年(昭21)1月11日、石川県生まれ。大相撲立浪部屋に入門もラッシャー木村に誘われ、66年に東京プロレス入門。新日本、全日本、ノアなど主要6団体で戦った。百田光雄とは永遠のライバルで100戦以上もシングルで激突。06年3月にノアで現役引退。178センチ、110キロ。
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2017年11月21日
白鵬が貴ノ岩を、説教してる時に、彼女からの(;^_^Aメールを見ているので、 日馬富士暴行に及んだそうだよ(-_-;)
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白鵬が貴ノ岩を、説教してる時に、彼女からの(;^_^Aメールを見ているので、
日馬富士暴行に及んだそうだよ(-_-;)
日本相撲協会の危機管理委員会は19日、平幕貴ノ岩(27=貴乃花)への暴行問題を起こした横綱日馬富士(33=伊勢ケ浜)に対し、東京・両国国技館で初めて事情聴取を実施した。関係者の話を総合すると、暴行現場はモンゴル人による飲み会ではなく、日本人3人を含む鳥取の相撲関係者による懇親会だったことが判明。日馬富士は、ビール瓶は否定したが、カラオケのリモコンと素手でたたいたことを認めたという。
日馬富士への聞き取りは約2時間、協会側は危機管理委の高野委員長ら5人が担当した。日本相撲協会は当初、本格的な調査を九州場所後としていたが、当事者の聴取に着手。高野委員長は「彼(日馬富士)は淡々と事実関係に沿って話をした。きちんと粛々とお聞きした」と話した。
同席した鏡山危機管理部長(元関脇多賀竜)は福岡に戻って会見。日馬富士が暴力をふるった事実は認められたが「今後は鳥取県警の捜査に支障をきたさないよう配慮しつつ、関係者の聴取を進めていきますので、本日の日馬富士の供述内容についてはまだ詳しく申し上げられません」とした。
詳細は明かされなかったが、17日に任意で聴取した鳥取県警の捜査員らによると、10月25日夜の暴行現場に居合わせた顔触れが明らかになってきた。ちゃんこ店で1次会を終え、一行は2次会へ。飲食店の個室には、日馬富士と貴ノ岩のほか、白鵬、鶴竜、照ノ富士、石浦のほか、地元相撲関係者2人(日本人とモンゴル人が1人ずつ)と石浦の後援者が同席していた。個室の外では関取衆の付け人が飲食し、女性店員が接客していたという。
この会合は、秋巡業が鳥取市で行われるため、地元関係者が力士をもてなした激励会のようなもの。モンゴル人同士の懇親会ではなく、1次会も2次会も地元相撲関係者が飲食代を支払った模様だ。
協会関係者によれば、日馬富士はこの日の聴取でも暴行は認めたが、ビール瓶で殴ったことは否定。白鵬が説教している時に、貴ノ岩がスマートフォンでメールをいじり始め、「誰とだ?」と聞くと「彼女です」と答えたところでキレた。カラオケのリモコンや素手で頭などを数発たたいたという。
鏡山部長は、鳥取の酒席に同席した力士のうち、九州場所に出場している力士への聴取は本場所後の27日以降に実施することを明かした。証言者によって食い違いが生じており、詳細な内容を調べる方針だ。これを受けて白鵬は「それができたなら、よかったんじゃないですか。残り、集中できる」と話した。
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白鵬が貴ノ岩を、説教してる時に、彼女からの(;^_^Aメールを見ているので、
日馬富士暴行に及んだそうだよ(-_-;)
日本相撲協会の危機管理委員会は19日、平幕貴ノ岩(27=貴乃花)への暴行問題を起こした横綱日馬富士(33=伊勢ケ浜)に対し、東京・両国国技館で初めて事情聴取を実施した。関係者の話を総合すると、暴行現場はモンゴル人による飲み会ではなく、日本人3人を含む鳥取の相撲関係者による懇親会だったことが判明。日馬富士は、ビール瓶は否定したが、カラオケのリモコンと素手でたたいたことを認めたという。
日馬富士への聞き取りは約2時間、協会側は危機管理委の高野委員長ら5人が担当した。日本相撲協会は当初、本格的な調査を九州場所後としていたが、当事者の聴取に着手。高野委員長は「彼(日馬富士)は淡々と事実関係に沿って話をした。きちんと粛々とお聞きした」と話した。
同席した鏡山危機管理部長(元関脇多賀竜)は福岡に戻って会見。日馬富士が暴力をふるった事実は認められたが「今後は鳥取県警の捜査に支障をきたさないよう配慮しつつ、関係者の聴取を進めていきますので、本日の日馬富士の供述内容についてはまだ詳しく申し上げられません」とした。
詳細は明かされなかったが、17日に任意で聴取した鳥取県警の捜査員らによると、10月25日夜の暴行現場に居合わせた顔触れが明らかになってきた。ちゃんこ店で1次会を終え、一行は2次会へ。飲食店の個室には、日馬富士と貴ノ岩のほか、白鵬、鶴竜、照ノ富士、石浦のほか、地元相撲関係者2人(日本人とモンゴル人が1人ずつ)と石浦の後援者が同席していた。個室の外では関取衆の付け人が飲食し、女性店員が接客していたという。
この会合は、秋巡業が鳥取市で行われるため、地元関係者が力士をもてなした激励会のようなもの。モンゴル人同士の懇親会ではなく、1次会も2次会も地元相撲関係者が飲食代を支払った模様だ。
協会関係者によれば、日馬富士はこの日の聴取でも暴行は認めたが、ビール瓶で殴ったことは否定。白鵬が説教している時に、貴ノ岩がスマートフォンでメールをいじり始め、「誰とだ?」と聞くと「彼女です」と答えたところでキレた。カラオケのリモコンや素手で頭などを数発たたいたという。
鏡山部長は、鳥取の酒席に同席した力士のうち、九州場所に出場している力士への聴取は本場所後の27日以降に実施することを明かした。証言者によって食い違いが生じており、詳細な内容を調べる方針だ。これを受けて白鵬は「それができたなら、よかったんじゃないですか。残り、集中できる」と話した。
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大盛況!阪神園芸の「神整備」体験、倍率は10倍に
2017年11月19日
雨で、暇なので、ふと!!ラッシャー木村を思い出しました。(;^_^A
雨で、暇なので、ふと!!ラッシャー木村を思い出しました。(;^_^A
ラッシャー木村とは、金網の鬼であり、マイクの鬼でした。
本名は木村政雄と言い、北海道出身である。元来よりプロレスラー志願であり、角界入りしたのもプロレスラーになるにあたって体力つけるためであった。力士としては幕下20枚目まで登った後に廃業、同じ角界出身の豊登との縁で東京プロレスの旗揚げに参画するも、1年後に崩壊。その後は国際プロレスへ活躍の場を移し、アメリカで武者修行の後に日本で初めての金網デスマッチを開催した。金網デスマッチでは無敵を誇り、いつしか彼を「金網の鬼」と呼ぶようになった。コノヤロー
1981年に国際プロレスが解散すると、活躍の場を新日本プロレスに再度移して国際プロレス時代の仲間であるアニマル浜口らとアントニオ猪木との抗争を繰り広げた。その後内紛を経てUWFへ移籍したが、そこでもトラブルによって離脱し、全日本プロレスへ移籍した。コノヤロー
国際プロレス時代の仲間と共に正規軍との抗争を繰り広げた。この頃より木村のマイクパフォーマンスは徐々に注目され始めてきた。新日本時代にも所謂「こんばんわ事件」で注目を集め始めていたが、ジャイアント馬場との義兄弟宣言(「アニキ!」)以降はベビー転向と共に本格的にマイクパフォーマンスを繰り広げ、その犠牲ネタになったレスラーは数知れずであった。それは全日本プロレスのモットーであった「明るく、楽しく、そして激しく」の「明るく、楽しく」を具現化したものであった。コノヤロー
馬場の死後、全日本プロレスを巡る内紛から三沢が離脱し、NOAHを立ち上げるとそれに同調した。還暦を迎えた後も、現役で活躍し続けたが体力の衰えはぬぐい切れず、2003年以降は長期離脱。ビデオレターで引退を表明した。
2010年、肺炎で死去。享年68歳であった。前述したビデオレターの様子から、脳卒中を患ったのではないかと言われていたが、実際に患っており、車いす生活であったようだ。
今頃は先に旅立ったジャイアント馬場らと共に天国マッチ王座をやりつつ、あの世をネタにマイクパフォーマンスで閻魔大王をはじめとしたあの世の多くの人々に笑いと感動を与えている事であろう。
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木村は馬場率いるファミリー軍団と永源遥や渕正信らの悪役商会との明るく楽しいプロレスを提供した。一部ではお笑いプロレスとの声も上がっていたが、木村はこのポジションを全うし、試合後はマイクパフォーマンスで会場を沸かせた。
「まじめにやれ!」という野次が飛ぶときもあった。
しかし、木村はそれを耐え、試合の中でチョップに必死に耐え続けることで無言の反論をして見せた。
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2017年11月18日
覆面レスラー「ザ・デストロイヤー」に旭日双光章 本人語る
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そもそも覆面レスラー「ザ・デストロイヤー」は、なぜマスクをするようになったのかご存じだろうか。答えは後述するとして、秋の叙勲で往年の大プロレスラーに再び脚光を当てるとは、内閣府も粋なことをするではないか。
今回、旭日双光章を受章したザ・デストロイヤー(87)=本名・リチャード・ベイヤー=の名が、どれだけ日本社会で親しまれていたか、それを示す数値がある。
「テレビの視聴率調査が始まってから今まで、トップ50の中にプロレス中継が2つあるのです。ひとつは1963年のデストロイヤー対力道山戦(64・0%)、もうひとつは65年のデストロイヤー対豊登(とよのぼり)戦(51・2%)です。どちらもデストロイヤー戦なのです」(プロレス評論家の斎藤文彦氏)
最初はアメリカWWAのヘビー級チャンピオンとして来日したデストロイヤーは、もともとシラキュース大学大学院を出たインテリ。アメフトやレスリングで活躍していたところをロサンゼルスのプロモーターにスカウトされる。
「ところが様々なスポーツで前歯が2本欠け、おまけに若ハゲだったことからプロモーターが“マスクを被れ”と覆面レスラーに仕立てたのです。しかし、これがきっかけでブレイクしました」(同)
力道山の死後、日本プロレスが全日本プロレスと新日本プロレスに分裂すると、デストロイヤーは「全日本」に所属、家族も呼び寄せて日本で生活するようになる。
有名なのは、覆面レスラーのイメージを守るため、シャワー以外は決してマスクを外さなかったことだ。
全日本プロレス名誉レフェリーの和田京平氏が振り返る。
「ご飯を食べる時もマスクをしたまま、車に乗るときもマスク。一度だけ、見知らぬ外人がシャワー室から出てきたのを、まじまじと見たら“ボクだよ”と言うので分かったことがありました」
入国管理局も、9・11のテロ事件まで、「はい、デストロイヤーさん、どうぞ」とマスクのまま通していたのは知る人ぞ知る話である。
プロレスだけでなくバラエティ番組でも人気を博し「金曜10時! うわさのチャンネル!!」(日本テレビ)では、和田アキ子にハリセンでぶっ叩かれたりもした。
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誰も知らなかった
「日本ではプロレスやTV出演ですごい人気だったけど、アメリカに戻ると私が人気者だったことは誰も知らなかったよ。でも、生きてゆくためには働かなくてはならないでしょう。大学時代に教育学の修士号を取っていたので、水泳やレスリングのコーチをするようになったのです。私にとっては自然なことだったね」
「そのあと教えていた高校生や7〜11歳のちびっ子たちを日本に連れてゆきました。世界を知ってもらうためです。皆、日本に行くと驚いていたよ。これを20年やったんだ」
叙勲の理由もこれである。最近は足を悪くして、4の字固めもままならないというデストロイヤー、そのマスク姿をまた見せて欲しいものである。
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覆面レスラー「ザ・デストロイヤー」に旭日双光章 本人語る
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そもそも覆面レスラー「ザ・デストロイヤー」は、なぜマスクをするようになったのかご存じだろうか。答えは後述するとして、秋の叙勲で往年の大プロレスラーに再び脚光を当てるとは、内閣府も粋なことをするではないか。
今回、旭日双光章を受章したザ・デストロイヤー(87)=本名・リチャード・ベイヤー=の名が、どれだけ日本社会で親しまれていたか、それを示す数値がある。
「テレビの視聴率調査が始まってから今まで、トップ50の中にプロレス中継が2つあるのです。ひとつは1963年のデストロイヤー対力道山戦(64・0%)、もうひとつは65年のデストロイヤー対豊登(とよのぼり)戦(51・2%)です。どちらもデストロイヤー戦なのです」(プロレス評論家の斎藤文彦氏)
最初はアメリカWWAのヘビー級チャンピオンとして来日したデストロイヤーは、もともとシラキュース大学大学院を出たインテリ。アメフトやレスリングで活躍していたところをロサンゼルスのプロモーターにスカウトされる。
「ところが様々なスポーツで前歯が2本欠け、おまけに若ハゲだったことからプロモーターが“マスクを被れ”と覆面レスラーに仕立てたのです。しかし、これがきっかけでブレイクしました」(同)
力道山の死後、日本プロレスが全日本プロレスと新日本プロレスに分裂すると、デストロイヤーは「全日本」に所属、家族も呼び寄せて日本で生活するようになる。
有名なのは、覆面レスラーのイメージを守るため、シャワー以外は決してマスクを外さなかったことだ。
全日本プロレス名誉レフェリーの和田京平氏が振り返る。
「ご飯を食べる時もマスクをしたまま、車に乗るときもマスク。一度だけ、見知らぬ外人がシャワー室から出てきたのを、まじまじと見たら“ボクだよ”と言うので分かったことがありました」
入国管理局も、9・11のテロ事件まで、「はい、デストロイヤーさん、どうぞ」とマスクのまま通していたのは知る人ぞ知る話である。
プロレスだけでなくバラエティ番組でも人気を博し「金曜10時! うわさのチャンネル!!」(日本テレビ)では、和田アキ子にハリセンでぶっ叩かれたりもした。
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誰も知らなかった
「日本ではプロレスやTV出演ですごい人気だったけど、アメリカに戻ると私が人気者だったことは誰も知らなかったよ。でも、生きてゆくためには働かなくてはならないでしょう。大学時代に教育学の修士号を取っていたので、水泳やレスリングのコーチをするようになったのです。私にとっては自然なことだったね」
「そのあと教えていた高校生や7〜11歳のちびっ子たちを日本に連れてゆきました。世界を知ってもらうためです。皆、日本に行くと驚いていたよ。これを20年やったんだ」
叙勲の理由もこれである。最近は足を悪くして、4の字固めもままならないというデストロイヤー、そのマスク姿をまた見せて欲しいものである。
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覆面レスラー「ザ・デストロイヤー」に旭日双光章 本人語る
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そもそも覆面レスラー「ザ・デストロイヤー」は、なぜマスクをするようになったのかご存じだろうか。答えは後述するとして、秋の叙勲で往年の大プロレスラーに再び脚光を当てるとは、内閣府も粋なことをするではないか。
今回、旭日双光章を受章したザ・デストロイヤー(87)=本名・リチャード・ベイヤー=の名が、どれだけ日本社会で親しまれていたか、それを示す数値がある。
「テレビの視聴率調査が始まってから今まで、トップ50の中にプロレス中継が2つあるのです。ひとつは1963年のデストロイヤー対力道山戦(64・0%)、もうひとつは65年のデストロイヤー対豊登(とよのぼり)戦(51・2%)です。どちらもデストロイヤー戦なのです」(プロレス評論家の斎藤文彦氏)
最初はアメリカWWAのヘビー級チャンピオンとして来日したデストロイヤーは、もともとシラキュース大学大学院を出たインテリ。アメフトやレスリングで活躍していたところをロサンゼルスのプロモーターにスカウトされる。
「ところが様々なスポーツで前歯が2本欠け、おまけに若ハゲだったことからプロモーターが“マスクを被れ”と覆面レスラーに仕立てたのです。しかし、これがきっかけでブレイクしました」(同)
力道山の死後、日本プロレスが全日本プロレスと新日本プロレスに分裂すると、デストロイヤーは「全日本」に所属、家族も呼び寄せて日本で生活するようになる。
有名なのは、覆面レスラーのイメージを守るため、シャワー以外は決してマスクを外さなかったことだ。
全日本プロレス名誉レフェリーの和田京平氏が振り返る。
「ご飯を食べる時もマスクをしたまま、車に乗るときもマスク。一度だけ、見知らぬ外人がシャワー室から出てきたのを、まじまじと見たら“ボクだよ”と言うので分かったことがありました」
入国管理局も、9・11のテロ事件まで、「はい、デストロイヤーさん、どうぞ」とマスクのまま通していたのは知る人ぞ知る話である。
プロレスだけでなくバラエティ番組でも人気を博し「金曜10時! うわさのチャンネル!!」(日本テレビ)では、和田アキ子にハリセンでぶっ叩かれたりもした。
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誰も知らなかった
「日本ではプロレスやTV出演ですごい人気だったけど、アメリカに戻ると私が人気者だったことは誰も知らなかったよ。でも、生きてゆくためには働かなくてはならないでしょう。大学時代に教育学の修士号を取っていたので、水泳やレスリングのコーチをするようになったのです。私にとっては自然なことだったね」
「そのあと教えていた高校生や7〜11歳のちびっ子たちを日本に連れてゆきました。世界を知ってもらうためです。皆、日本に行くと驚いていたよ。これを20年やったんだ」
叙勲の理由もこれである。最近は足を悪くして、4の字固めもままならないというデストロイヤー、そのマスク姿をまた見せて欲しいものである。
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