2014年10月20日
皇后さま80歳 傘寿の誕生日
皇后さまは、20日、80歳、傘寿の誕生日を迎えられました。
皇后さまは、誕生日にあたり、記者の質問に文書で回答を寄せられました。
この中で、皇后さまは傘寿を迎えた感想について、80年の歳月を振り返りながら「子育てを含め、家庭を守る立場と、自分に課された務めを果たす立場を両立させていくために、これまで多くの職員の協力を得て来ています。社会の人々にも見守られ、支えられてまいりました」と周囲への感謝の気持ちを記されました。
そして、去年、天皇陛下が健やかに傘寿を迎えられたことがうれしかったとしたうえで、「五十年以上にわたる御一緒の生活の中で、陛下は常に謙虚な方でいらっしゃり、また子どもたちや私を、時に厳しく、しかしどのような時にも寛容に導いて下さり、私が今日(こんにち)まで来られたのは、このお蔭であったと思います」とつづられました。
また、来年戦後70年を迎えることについて、皇后さまは「大勢の人たちの戦中戦後に思いを致す年になろうと思います」と述べられました。
そして、「今、平和の恩恵に与(あずか)っている私たち皆が、絶えず平和を志向し、国内外を問わず、争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を積み重ねていくことが大切ではないかと考えています」と記されました。
最後にこの1年を振り返って「今年も又、集中豪雨や火山の噴火等(など)、多くの痛ましい出来事がありました。犠牲者の冥福を祈り、遺族の方々の深い悲しみと、未(いま)だ、行方の分からぬ犠牲者の身内の方々の心労をお察しいたします」と述べるとともに、困難の中で救援や捜索に当たった関係者に感謝と敬意の気持ちを表されました。
皇居では20日、皇族方や安倍総理大臣も出席して皇后さまの誕生日の祝賀行事が行われます。
貴重な映像や写真を公開
宮内庁は、皇后さまが、80歳の誕生日を迎えられたことを受けて、ふだんは目にする機会のない公務や日常生活の様子を映像と写真で公開しました。
このうち映像では、皇后さまがお住まいの御所で、名誉総裁を務める日本赤十字社の社長らから活動について説明を受けたり、障害がある子どもたちの教育や福祉に貢献した人たちと懇談されたりする場面が公開されました。
また、皇居の宮中三殿で、皇后さまが祭祀に臨まれる場面を撮影した貴重な映像もあります。
去年8月、静養で訪れた群馬県で国際音楽祭に参加し、コンサートホールでピアノの演奏を披露された時の映像や、ことし5月、天皇陛下との旅行で観光用のトロッコ列車に乗車された際の様子を車内から撮影した映像も見られます。
このほか、皇居の畑で、ご一家で稲や粟(あわ)の種をまいたり収穫されたりする様子も映されているほか、御所の庭で宮内庁の職員とぎんなんを拾ったりわらびやぜんまいを摘まれたりしている映像もあります。
一方、皇后さまが聖心女子大学時代に取得した中学校の英語の教員免許や、大学の卒業証書の写真のほか、幼稚園のときに作られた工作の写真も公開されました。
さらに、皇后さまが天皇陛下と初めて出会われた軽井沢でのテニス大会のトーナメント表を宮内庁が再現した資料の写真もあります。
宮内庁は、これらの映像や写真を基に、皇后さまの80年の歩みを振り返る1時間の映像を制作し、20日から政府のインターネットテレビで公開しています。
(URLは、http://nettv.gov−online.go.jp)
皇后さまの80年の歩み
皇后さまは、昭和9年10月20日、正田英三郎さんと富美子さんの長女として誕生されました。
戦争が続く中で幼少期を過ごし、戦後の復興期に青春時代を送られました。
聖心女子大学では自治会長を務め、卒業した年の夏、軽井沢のテニスコートで当時皇太子だった天皇陛下と出会い、24歳で結婚されました。
一般の家庭から皇太子妃が選ばれたのは初めてで、皇后さまは時の人となられ、ファッションは若い女性の間で大流行しました。
結婚の祝賀パレードに50万人を超える人たちが詰めかけるなど多くの国民から祝福を受けられました。
天皇陛下と国内外で公務に励むとともに、3人のお子さまを手元で育て、新たな皇室像を示されました。
昭和天皇が崩御して天皇陛下が即位されると、54歳で皇后となられました。
一貫して、災害の被災者や病気や差別に苦しむ人、障害のある人など、社会で弱い立場にある人たちに心を寄せられてきました。
平成7年の阪神・淡路大震災では、皇后さまが被災地に持参されたスイセンの花が復興のシンボルとなりました。
東日本大震災では、被災から間もない時期から7週連続で東北3県などを回り、その後もたびたび被災地を訪ねて被災者を励まされています。
日本赤十字社の名誉総裁として医療や福祉の関係者をねぎらうとともに、数多くの福祉施設やハンセン病の療養所などを訪れて入所者をいたわられてきました。
障害者のスポーツにも高い関心を持ち、長野パラリンピックでは、選手の健闘をたたえるウエーブに参加されました。
皇后さまは、天皇陛下の即位10年にあたっての記者会見で、「困難な状況にある人々に心を寄せることは、私どもの務めであり、これからも更に心を尽くして、この務めを果たしていかなければいけないと思っています」と述べられました。
皇后さまは、天皇陛下と共に全国各地に出かける一方で、去年、53年ぶりにインドを訪れるなど、これまでに56か国を訪ねて国際親善に尽くされました。
また、天皇陛下と同様、先の大戦に向き合われてきました。
戦後50年を迎えた平成7年には「慰霊の旅」に出かけ、被爆地広島と長崎、そして地上戦が行われた沖縄などを訪ねられました。
さらに、戦後60年には太平洋の激戦地サイパンを訪問。
追い詰められた日本人が身を投げた断崖で黙とうをささげられました。
皇后さまは、文学や音楽に造詣が深く、とりわけ児童文学に大きな関心を寄せ、絵本など児童図書の普及に取り組む人たちを後押しされてきました。
平成14年には、児童図書の世界大会が開かれたスイスをお一人で訪問し、児童文学への思いを語られた講演が大きな反響を呼びました。
一方で、皇室の伝統も大切に受け継ぎ、世の中の出来事や家族への思いを短歌で表現するとともに、明治以降、歴代の皇后が続けてきた皇居での養蚕にも熱心に取り組まれてきました。
皇后さまは、誕生日にあたり、記者の質問に文書で回答を寄せられました。
この中で、皇后さまは傘寿を迎えた感想について、80年の歳月を振り返りながら「子育てを含め、家庭を守る立場と、自分に課された務めを果たす立場を両立させていくために、これまで多くの職員の協力を得て来ています。社会の人々にも見守られ、支えられてまいりました」と周囲への感謝の気持ちを記されました。
そして、去年、天皇陛下が健やかに傘寿を迎えられたことがうれしかったとしたうえで、「五十年以上にわたる御一緒の生活の中で、陛下は常に謙虚な方でいらっしゃり、また子どもたちや私を、時に厳しく、しかしどのような時にも寛容に導いて下さり、私が今日(こんにち)まで来られたのは、このお蔭であったと思います」とつづられました。
また、来年戦後70年を迎えることについて、皇后さまは「大勢の人たちの戦中戦後に思いを致す年になろうと思います」と述べられました。
そして、「今、平和の恩恵に与(あずか)っている私たち皆が、絶えず平和を志向し、国内外を問わず、争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を積み重ねていくことが大切ではないかと考えています」と記されました。
最後にこの1年を振り返って「今年も又、集中豪雨や火山の噴火等(など)、多くの痛ましい出来事がありました。犠牲者の冥福を祈り、遺族の方々の深い悲しみと、未(いま)だ、行方の分からぬ犠牲者の身内の方々の心労をお察しいたします」と述べるとともに、困難の中で救援や捜索に当たった関係者に感謝と敬意の気持ちを表されました。
皇居では20日、皇族方や安倍総理大臣も出席して皇后さまの誕生日の祝賀行事が行われます。
貴重な映像や写真を公開
宮内庁は、皇后さまが、80歳の誕生日を迎えられたことを受けて、ふだんは目にする機会のない公務や日常生活の様子を映像と写真で公開しました。
このうち映像では、皇后さまがお住まいの御所で、名誉総裁を務める日本赤十字社の社長らから活動について説明を受けたり、障害がある子どもたちの教育や福祉に貢献した人たちと懇談されたりする場面が公開されました。
また、皇居の宮中三殿で、皇后さまが祭祀に臨まれる場面を撮影した貴重な映像もあります。
去年8月、静養で訪れた群馬県で国際音楽祭に参加し、コンサートホールでピアノの演奏を披露された時の映像や、ことし5月、天皇陛下との旅行で観光用のトロッコ列車に乗車された際の様子を車内から撮影した映像も見られます。
このほか、皇居の畑で、ご一家で稲や粟(あわ)の種をまいたり収穫されたりする様子も映されているほか、御所の庭で宮内庁の職員とぎんなんを拾ったりわらびやぜんまいを摘まれたりしている映像もあります。
一方、皇后さまが聖心女子大学時代に取得した中学校の英語の教員免許や、大学の卒業証書の写真のほか、幼稚園のときに作られた工作の写真も公開されました。
さらに、皇后さまが天皇陛下と初めて出会われた軽井沢でのテニス大会のトーナメント表を宮内庁が再現した資料の写真もあります。
宮内庁は、これらの映像や写真を基に、皇后さまの80年の歩みを振り返る1時間の映像を制作し、20日から政府のインターネットテレビで公開しています。
(URLは、http://nettv.gov−online.go.jp)
皇后さまの80年の歩み
皇后さまは、昭和9年10月20日、正田英三郎さんと富美子さんの長女として誕生されました。
戦争が続く中で幼少期を過ごし、戦後の復興期に青春時代を送られました。
聖心女子大学では自治会長を務め、卒業した年の夏、軽井沢のテニスコートで当時皇太子だった天皇陛下と出会い、24歳で結婚されました。
一般の家庭から皇太子妃が選ばれたのは初めてで、皇后さまは時の人となられ、ファッションは若い女性の間で大流行しました。
結婚の祝賀パレードに50万人を超える人たちが詰めかけるなど多くの国民から祝福を受けられました。
天皇陛下と国内外で公務に励むとともに、3人のお子さまを手元で育て、新たな皇室像を示されました。
昭和天皇が崩御して天皇陛下が即位されると、54歳で皇后となられました。
一貫して、災害の被災者や病気や差別に苦しむ人、障害のある人など、社会で弱い立場にある人たちに心を寄せられてきました。
平成7年の阪神・淡路大震災では、皇后さまが被災地に持参されたスイセンの花が復興のシンボルとなりました。
東日本大震災では、被災から間もない時期から7週連続で東北3県などを回り、その後もたびたび被災地を訪ねて被災者を励まされています。
日本赤十字社の名誉総裁として医療や福祉の関係者をねぎらうとともに、数多くの福祉施設やハンセン病の療養所などを訪れて入所者をいたわられてきました。
障害者のスポーツにも高い関心を持ち、長野パラリンピックでは、選手の健闘をたたえるウエーブに参加されました。
皇后さまは、天皇陛下の即位10年にあたっての記者会見で、「困難な状況にある人々に心を寄せることは、私どもの務めであり、これからも更に心を尽くして、この務めを果たしていかなければいけないと思っています」と述べられました。
皇后さまは、天皇陛下と共に全国各地に出かける一方で、去年、53年ぶりにインドを訪れるなど、これまでに56か国を訪ねて国際親善に尽くされました。
また、天皇陛下と同様、先の大戦に向き合われてきました。
戦後50年を迎えた平成7年には「慰霊の旅」に出かけ、被爆地広島と長崎、そして地上戦が行われた沖縄などを訪ねられました。
さらに、戦後60年には太平洋の激戦地サイパンを訪問。
追い詰められた日本人が身を投げた断崖で黙とうをささげられました。
皇后さまは、文学や音楽に造詣が深く、とりわけ児童文学に大きな関心を寄せ、絵本など児童図書の普及に取り組む人たちを後押しされてきました。
平成14年には、児童図書の世界大会が開かれたスイスをお一人で訪問し、児童文学への思いを語られた講演が大きな反響を呼びました。
一方で、皇室の伝統も大切に受け継ぎ、世の中の出来事や家族への思いを短歌で表現するとともに、明治以降、歴代の皇后が続けてきた皇居での養蚕にも熱心に取り組まれてきました。
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