2021年03月11日
あれから10年もこの先30年も
今日はなぜだか素直に1時30分に起床した
いつもならまだ早いと二度寝して3時近くに起きてしまうことがしばしば
花粉症もあり身体全体が疲れているのか二度寝してしまうのだが
今日はあっさりと起きれた
さてとやることはたくさんある
本日は あれから10年もこの先30年も
2011年3月11日 東日本大震災
あれから10年である今日この日
あのとき何をしていただろうか
わたしは門前仲町のとある企業の職場にいた
午後14時頃だったか強い揺れを感じた
まずびっくりしたのは人命が先ではなくなぜかシステムの正常性確認が先であった
システム問題なしいやいや問題あるだろう
そんなこんなで職場のテレビでニュースをつけると刻々と被害が大きくなるのがわかる
会社からも帰宅命令も特になく夕方になり買い出しに行くとすでに水がなくなっていた
電車も動いていないのだが一人二人と帰宅するようになったどうしたものかなと
上役はすでにビールを買ってこさせて飲んでいた
歩いて帰るのも大変だし情報収集する必要もあったので仕事もせず21時頃までいた
さすがにこのまま会社にいることも憚れたので外に出ることに
近くに遅くまでやっている銭湯を思い出しそこにいく
たまたま震災後も営業しておりそこで0時30分ぐらいまでいて電車が動き出したということで
無事帰宅できた
歩いて自宅に戻った同僚は7、8時間かかったという
これが当日の話
それから1年後、震災後の宮城、福島を訪れた
松島では観光フェリーも再開していて当時を思い出すものといえば津波で被害が受けた写真があった
福島駅から右に国道を通って相馬のあたりまでいってみた
国道には復興のためトラックがひっきりなしに通っていた
津波で流された家々の土台をみて回った
海から遠くはなれているこの場所までも
はじめてその津波の凄まじさを身体で思い知ったのだ
それから2019年5月に
今度は国道6号線沿いを車で走り1F 福島第一原子力発電所の3km手前まで近づくことができた
車から降りて見ると1Fが見えた あそこで事故が起きたのだな
6号線からはずれた町の道路に行くと帰還困難区域でバリケードがところどころにひかれ
ナビだよりだと向かうところに行きつけない経験をした
そして去年の9月に東日本大震災・原子力災害伝承館を訪れた
原子力災害伝承館ができて1か月ほどのときに訪れた
雨の降る中、双葉駅に降りレンタルサイクルで1km先にある伝承館に向かった
行く途中、誰もいない病院や家々が取り残されていた
人気がまったくなかった
事故ですぐこの地域が帰還困難区域となり解除されたのが2020年3月
なので双葉町の中ではやっと崩れた家の解体をし始めているところもあったのだ
全然終わっていないのである
双葉駅にある待合所で東電が出している地域コミュニティ誌を手にとった
『廃炉』ということばが目に入ってきた
事故当時やその経過を伝承館では知ることができたがすっかり『廃炉』については忘れていた
そのコミュニティ誌には『廃炉』のために事故後東電に入社した方が語っていた
『廃炉』にはこの先30年かかるという
昨日、ちょうどサンドウィッチマンさんが出演しているバラエティ番組『サンドのお風呂いただきます』で
『廃炉』のために事故後東電に入社した若者が二人話をしていた
二人とも福島生まれで震災当時、中学生か高校生
一人は高専で『廃炉学習』なる教育を受けて興味を持ち東電に入社し
もう一人は父親が東電の関連する協力会社で働いて事故後、千葉に疎開していたがすぐ
その父親が戻って復興作業をしている姿を見て入社したと言っていた
何か物をつくる東電で言えば安定した電力を供給することが使命であるし人からもありがたがれるが
『廃炉』は放射能を封じ込めるための作業で災いを取り除く作業である
いまだ人から後ろ指されることもあろう
そんな中、こうした若者があえて『廃炉』に従事しその使命に燃えて働くことは
イノベーションする仕事とともにとても大事であると感じた
『廃炉』までに30年いや40年はかかるだろう
『廃炉』にするには今の技術力ではだめで近い将来にさらに高度な技術が開発されるまで待つ必要もある
わたしはそこまで生きているかわからないが
『廃炉』まで見守りたい
まとめ
・あれから10年か
いつもならまだ早いと二度寝して3時近くに起きてしまうことがしばしば
花粉症もあり身体全体が疲れているのか二度寝してしまうのだが
今日はあっさりと起きれた
さてとやることはたくさんある
本日は あれから10年もこの先30年も
2011年3月11日 東日本大震災
あれから10年である今日この日
あのとき何をしていただろうか
わたしは門前仲町のとある企業の職場にいた
午後14時頃だったか強い揺れを感じた
まずびっくりしたのは人命が先ではなくなぜかシステムの正常性確認が先であった
システム問題なしいやいや問題あるだろう
そんなこんなで職場のテレビでニュースをつけると刻々と被害が大きくなるのがわかる
会社からも帰宅命令も特になく夕方になり買い出しに行くとすでに水がなくなっていた
電車も動いていないのだが一人二人と帰宅するようになったどうしたものかなと
上役はすでにビールを買ってこさせて飲んでいた
歩いて帰るのも大変だし情報収集する必要もあったので仕事もせず21時頃までいた
さすがにこのまま会社にいることも憚れたので外に出ることに
近くに遅くまでやっている銭湯を思い出しそこにいく
たまたま震災後も営業しておりそこで0時30分ぐらいまでいて電車が動き出したということで
無事帰宅できた
歩いて自宅に戻った同僚は7、8時間かかったという
これが当日の話
それから1年後、震災後の宮城、福島を訪れた
松島では観光フェリーも再開していて当時を思い出すものといえば津波で被害が受けた写真があった
福島駅から右に国道を通って相馬のあたりまでいってみた
国道には復興のためトラックがひっきりなしに通っていた
津波で流された家々の土台をみて回った
海から遠くはなれているこの場所までも
はじめてその津波の凄まじさを身体で思い知ったのだ
それから2019年5月に
今度は国道6号線沿いを車で走り1F 福島第一原子力発電所の3km手前まで近づくことができた
車から降りて見ると1Fが見えた あそこで事故が起きたのだな
6号線からはずれた町の道路に行くと帰還困難区域でバリケードがところどころにひかれ
ナビだよりだと向かうところに行きつけない経験をした
そして去年の9月に東日本大震災・原子力災害伝承館を訪れた
原子力災害伝承館ができて1か月ほどのときに訪れた
雨の降る中、双葉駅に降りレンタルサイクルで1km先にある伝承館に向かった
行く途中、誰もいない病院や家々が取り残されていた
人気がまったくなかった
事故ですぐこの地域が帰還困難区域となり解除されたのが2020年3月
なので双葉町の中ではやっと崩れた家の解体をし始めているところもあったのだ
全然終わっていないのである
双葉駅にある待合所で東電が出している地域コミュニティ誌を手にとった
『廃炉』ということばが目に入ってきた
事故当時やその経過を伝承館では知ることができたがすっかり『廃炉』については忘れていた
そのコミュニティ誌には『廃炉』のために事故後東電に入社した方が語っていた
『廃炉』にはこの先30年かかるという
昨日、ちょうどサンドウィッチマンさんが出演しているバラエティ番組『サンドのお風呂いただきます』で
『廃炉』のために事故後東電に入社した若者が二人話をしていた
二人とも福島生まれで震災当時、中学生か高校生
一人は高専で『廃炉学習』なる教育を受けて興味を持ち東電に入社し
もう一人は父親が東電の関連する協力会社で働いて事故後、千葉に疎開していたがすぐ
その父親が戻って復興作業をしている姿を見て入社したと言っていた
何か物をつくる東電で言えば安定した電力を供給することが使命であるし人からもありがたがれるが
『廃炉』は放射能を封じ込めるための作業で災いを取り除く作業である
いまだ人から後ろ指されることもあろう
そんな中、こうした若者があえて『廃炉』に従事しその使命に燃えて働くことは
イノベーションする仕事とともにとても大事であると感じた
『廃炉』までに30年いや40年はかかるだろう
『廃炉』にするには今の技術力ではだめで近い将来にさらに高度な技術が開発されるまで待つ必要もある
わたしはそこまで生きているかわからないが
『廃炉』まで見守りたい
まとめ
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