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2024年02月22日

1・4 高木兼ェ−日本の疫学は高木兼ェで始まったのか?(始まらなかったのか?)誰も教えてくれない疫学の日本の歴史−

日本の疫学の始まりといえば、海軍軍医の高木兼ェ(1849−1920)の脚気の研究といえるでしょう1-4)。他の医師がドイツに留学するなか高木兼ェはなぜかイギリスで医学を学び帰国したため疫学の知識がありました。高木は帰国後、脚気という当時は原因不明の疾病が流行していることを知り(時間)、脚気はイギリスにはないが日本では流行していること(場所)、貧困層には少ないが富裕層に多く罹患していること(人)、貧困層の人も海軍に入ると脚気に罹ること(人)、刑務所に収容されている人にはほとんど脚気がないこと(人)などの疫学の3要素(人、場所、時間)から、罹患する人の共通点は白米を食べているということを発見し(記述研究)、白米依存型の食事が原因で脚気が発生しているのではないかという仮説を立てました5)。
次に、科学的根拠が強い介入研究という実験を行い仮説が正しいかどうか検証しました。実験デザインとしては非ランダム化比較試験だと思われます。
2隻の軍艦を白米依存型の食事群とイギリス型(肉、コンデンスミルク、ビスケットなど)の食事群に分けて、10ヶ月近く同じ航路の航海演習を行いました。航海演習終了後、白米依存型の食事群の脚気罹患者は169名そのうち脚気死亡者は25名だったのに対して、イギリス型の食事群は脚気罹患者は14名あったものの脚気死亡者は0名でした5)。
この研究結果から、海軍では白米禁止し、白米と麦を混合することで脚気の罹患率、死亡率を0人までに抑えることに成功しました2)。
一方、ドイツへ留学をした陸軍軍医の森林太郎(作家の森鴎外)は、「脚気病原菌説」を唱え、高木の「栄養説」を認めず高木の白米禁止を禁止しました。そのため陸軍では、日露戦争の戦死者は4万7千人のうち2万8千人は脚気で亡くなりました。
なぜ、森林太郎は、海軍の業績を無視して、たくさんの患者(兵)を殺してまでも自分の学説にこだわったのでしょうか。それは彼がドイツ医学を信仰していたからであると考えられます。
ドイツ医学は根本原因と機序(メカニズム)を究明し疾病を征服する「実験室医学」なので、病気の原因は一つであるという1因子病因論で考え、診断を重視し、決定論的アプローチを行います。したがって、ドイツ医学にとっては、患者さんの治療よりも患者さんの診断が大事なので、ひたすら顕微鏡を覗いて脚気菌を探し続けました6)。
対する疫学のイギリス医学は、因果関係の推論から問題を解決する「病院医学」(エジンバラ医学)ですから、病気の原因は多数で成立すると考える多要因原因説で考え、治療を重視し、確率論的アプローチを行います6)。したがって、高木兼ェにとっては、病気のメカニズムを明らかにするような診断よりも、因果関係を明らかにして、直ちに治療をして患者さんを救うことが最も大事なことだったのです。

当時の日本の医学の世界は、ドイツ医学が主流でしたから、日本の医学会も陸軍の森林太郎を支持しました。ドイツ医学で考えれば、因果関係の強い証拠があっても、メカニズムが明らかになってないものは認めることができなかったのだと考えられます。そのため、日本では脚気死亡は第2次世界大戦で白米が欠乏するまで毎年1万人以上の死亡患者を出し続けたのです4)。
高木兼ェが疫学研究で脚気の原因は白米依存型の食事だと因果関係を明らかにしましたが、そのメカニズムがビタミンB1の不足だとわかるのは、約28年後のことです5)。

高木兼ェはその後、東京慈恵会医科大学を設立し医学の教育にも大いに寄与しましたが1)、明治維新以降、政府はドイツ医学のみしか医学として認めなかったため6)イギリス医学の疫学である高木兼ェの脚気の研究はイギリスの高名な医学雑誌ランセットに掲載され高く評価されたものの日本では誰からも認められず、その研究を続ける者もいなかったと考えられます。
そのため日本では高木兼ェによって疫学が始まったが、そのまま終わってしまったため、疫学は日本では始まらなかったと考えることができます。その後、実際に日本で疫学が始まるのは戦後アメリカから「公衆衛生学」として医学校に導入されてからだと考えられます。

1)中村好一 「基礎から学ぶ楽しい疫学」医学書院、2007年、4〜5項
2)牧本清子ら「標準保健師講座・別巻2 疫学・保健統計学」医学書院、2023年、4〜6頁
3)津田俊秀「市民のための疫学入門[医学ニュースから環境裁判まで]」第2版 2007年 緑風出版、102〜103頁
4)鹿児島大学医学部公衆衛生学教室「疫学テキスト」2003年度改訂版、44〜45頁
5)佐々木敏ら「はじめて学ぶ やさしい疫学−疫学への招待−」南江堂、2007年 第5版、5〜6頁
6)井口潔「我が国近代医学の温故知新」日本医師会雑誌117(6)1997年、971〜983頁 

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2024年02月05日

1・3 ジョン・スノウ−疫学の始まりといわれるジョン・スノウは三要素を用いた記述研究をしたのか?誰も教えてくれない疫学の始まりを紹介します−

「疫学の歴史は、1850年代のイギリス(ロンドン)におけるコレラの流行をもって始まるといわれている」1)とされるように、疫学の始まりはイギリスでコレラの流行を終わらせたジョン・スノウであるとほとんどの疫学の本で記述されています。
そして、ジョン・スノウが疫学3要素を用いた記述的な研究により因果関係の仮説を立ててコレラの危険因子を明らかにして流行を収めたかのような記述がよくみられます1)2)。確かに記述研究は原因不明な疾病が流行しているときに最初に行う研究だということが知られています。しかし、記述研究で得られた結果の科学的根拠は弱く仮説のレベルにすぎないこともよく知られていることです3)。特にスノウの業績として紹介される「スポット地図(spot map)については記述的な研究のイメージが強いと思われますが実はそうではないようです。

スポット地図は、コレラ患者の死亡者の家を黒く塗りつぶした地図のことをいいます。1854年9月の初旬の死亡者が歴史的多数となった流行時(時間)のスポット地図を見ると、ブロード・ストリートにコレラ死亡者の家が集中(場所)していることがわかります。そして、ブロード・ストリートの人々(人)はブロード・ストリートの井戸を飲んでいた。そこで井戸の水が原因ではという仮説に基づいて井戸を封鎖したら流行が収ったというような話が語られることが多いようです1)2)。
しかし、ジョン・スノウは、スポット地図の三要因から推測した因果関係では証拠の力が弱いと考え、比較対照のデータが必要であること。さらにその感染源であろうブロード・ストリートの井戸水を他の流行のない地域の人に曝露させて罹患の有無を確認する必要があると介入研究の必要性も考えました。介入研究は最も科学的根拠が強い研究デザインです。そこで、ブロードストリートの場所で生き残っている事例とブロードストリート以外の場所で死んでいる事例を調べました。すると、ブロード・ストリートで生き残っている救貧院やライオン醸造所などの人々は独自の井戸を持ちブロード・ストリートの井戸の水を飲んではいませんでした。また、クロス・ストリートやハムステットのようなブロード・ストリートから離れた場所での死亡事例はブロードストリートの井戸水をおいしいくきれいだから(他の井戸水より澄んでいた)という理由などでわざわざ運んで飲んでいたことが明らかになりました4)。
これにより、コレラの流行していない場所でもブロード・ウエイの井戸水を飲んだ人は死亡すること。コレラの流行している場所でもブロード・ウエイの井戸水を飲まないと死亡しないことを確認されました。これは、非計画的な曝露の有無の比較試験という実験(介入研究)が自然に行われてしまったものを観察することで、記述研究のような仮説レベルではない強い因果関係の証拠を手に入れたと考えられます。 
ジョン・スノウからこの話を聞いたセント・ジェームズ教区役員は、ブロードストリートの井戸水の水質の高さを自負してたことや当時の通説である瘴気説(空気感染)を信じていたことから信じられなかったものの、これに代わる予防策もないため、井戸水を閉鎖することにしました。井戸水の柄を取り外してからすぐにコレラの流行は終わりました5)。

スポット地図以外にスノウの有名な研究は、水道会社の利用者の比較研究によるものです。それは、30万人の地域住民を対象とした大規模な非計画的なランダム化比較試験のブラインド法(介入研究)によってコレラの原因は汚染された水だということを明らかにしたものです。このランダム化比較試験は現代の疫学で最も科学的根拠が強いと考えられている実験デザインです。

スノウは過去の流行時のデータ(時間)を調べた結果、テムズ川の南側はコレラの罹患が多く、北側は少ないことに気がつきました(場所)。そして南側はテムズ川の下流で採水している水道の水を飲んでいる(人)ことから汚染された水が原因でコレラに罹患するのではという仮説を立てました(記述研究)。当時のテムズ川は無処理でし尿など下水を流していたため汚染されて問題になっていました。この仮説を論文にして発表したもののあまり評価されませんでした。南部に罹患が多い事は明らかになったが、その原因が水ではなく汚染された空気が原因(当時の通説)ではないかと批判されました。当時のロンドンは糞尿が水だけでなく山積みにされて空気も汚染(悪臭)していました。スノウも汚染されたであろう水の水質検査を何度も行いましたが当時の顕微鏡のレベルでは原因らしきものは何も見つかりませんでした。

そこで、スノウは、空気の汚染がないとされるコレラの流行のない地域で汚染された(であろう)水を運び、それを飲んだ人と飲まない人で比較対照実験を行う必要があると考えるに至りました6)。そしてその実験は実際に非人工的に行われてしまったのです。
テムズ川南部は、S&V社とランベス社の2社の水道会社が支配していました。この2社はテムズ川下流で取水していましたがテムズ川がし尿などで汚染されていたため取水を上流にする行政指導がありました。ランベス社はすぐに取水管を上流に移したもののS&V社はなかなか移動しませんでした。
この時、まさしく、対象となる南部地域の30万人の人々の水道菅は地域単位ではなく「完全に無作為に7)」「無秩序8)」に連結されていたために、「下水に汚染された水の曝露群」と「汚染されていない水を曝露する群」に無作為割付されてしまったのです(非計画的)。しかも、本人たちが危険因子の曝露と非曝露の2群に割付けられたことを知らないままに行われてしまいましたことからブラインド法までもが非人工的に用いられました。そして、その結果、「下水に汚染された水の曝露群」は「汚染されていない水を曝露する群」と比較しておよそ8倍コレラの死亡率が高かったことが確認されました9)。このことから汚染された水の曝露がコレラの原因であることがわかりました。汚染された水にコレラ菌があることがわかったのは、それから27年後でした。

 ジョン・スノウの疫学研究は、単に、時間、場所、人と疾病の頻度や分布を記述して因果関係の仮説を形成するだけでなく、非計画的ではありましたが、無作為比較試験という最も科学的根拠の強い実験を行い、コレラの因果関係を明らかにしました。ジョン・スノウが疫学の始まりであるというのは、当時の単なる保健統計学にとどまっていた記述的な研究から「人間集団での因果関係を明らかにする科学」という「疫学」を確立したからだと考えられます。

1)中村好一 「基礎から学ぶ楽しい疫学」医学書院、2007年、3〜5項
2)牧本清子ら「標準保健師講座・別巻2 疫学・保健統計学」医学書院、2023年、2頁
3)坂本尚正ら「はじめて学ぶ やさしい疫学−疫学への招待−」南江堂、2007年 第5版、35頁
4)スティーヴン・ジョンソン「感染地図−歴史を変えた未知の病原体」河出書房新社、2,008年 第2版、86〜151頁
5)スティーヴン・ジョンソン「感染地図−歴史を変えた道の病原体」河出書房新社、2008年、第2版、169〜170頁
6)スティーヴン・ジョンソン「感染地図−歴史を変えた道の病原体」河出書房新社、2008年、第2版、82〜85頁
7)William Anton Oleckno「しっかり学ぶ基礎からの疫学」(柳川洋、萱場一則監訳)南山堂、 2000年、16貢
8)スティーヴン・ジョンソン「感染地図−歴史を変えた道の病原体」河出書房新社、2008年、第2版、118頁
9)牧本清子ら「標準保健師講座・別巻2 疫学・保健統計学」医学書院、2023年、9頁
7)William Anton Oleckno「しっかり学ぶ基礎からの疫学」(柳川洋、萱場一則監訳)南山堂、 2000年、17貢

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