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2022年05月29日

【鎌倉殿の13人】比企VS北条に翻弄される頼家2代目の悲劇

 ポスト頼朝時代は「頼家=比企VS実朝=北条」の構図で幕が開けます。
 2代目「鎌倉殿」頼家は突然病となり頼家の後ろ盾である比企氏と弟実朝を担ぐ北条氏との対立が起こりま
 す。
 大迫秀樹が著書『鎌倉殿登場!源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率マネジメントセンター)で解説し
 ていただきました。
 そのあと詳しくお知りたければ下記をチェックしてご覧になってください。

 https://news.yahoo.co.jp/articles/87c33b67c07fba10130ee719af8d52f68b5111d9



 おいで頂きありがとうございます。

2022年05月16日

比企能員 源頼朝と薩摩・島津家のつながり19代当主が建てた別定の家系図に、、、何と!頼朝の名前が。

 鹿児島市に庭の堀後氏に錦江湾と桜島が見える絶好の撮影スポットがある。島津家19代当主・光久が
 1658年に立てた別定【仙厳園(せんがんえん)】である。
 隣の建物は【尚古(証拠)集成館】といい、島津家の歴史や文化を知るうえで貴重な品々がたくさん展示
 されている。
 その尚古集成館の入り口に入ったらすぐ振り向いていただきたい。そこには島津家の大きい家系図が展示され
 ている。 「ああ、家系図だあ」と思ったら、その最初の部分をよく見ていただきたい。
 島津家の初代党首、つまり始祖・忠久(忠久)の名がある。そしてその父の欄には何と!源頼朝の名前があ
 る。母は丹後局(丹後局)「鎌倉殿の13人」の一人比企能員(ひきよしかず)の妹で頼朝の乳母比企尼
(ひきのあま)の娘である。 より詳しく知りたければ下記をチェックしてご覧になってください。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/423eb1fcdb5bb00c6c75a35c95100258f4996079

 ご覧いただきありがとうございます。

頼朝と義経を決裂させた義経の政治的感覚のにぶさともう一つの理由

 兄弟の情・絆は、持ち合わせていなかったのか?
 女池を打ち滅ぼすという宿題を果たした源頼朝と義経は直後に決裂してしまいます。
 なぜ兄弟は決裂してしまったのでしょうか。
 もともとこの二人は兄弟とはいえ母が違い年も離れています。平治の乱で父の義朝が良知が敗北したときは、
 義経はまだ乳吞み児ですぐに鞍馬寺に預けられましたし、頼朝は伊豆に流されました。
 別々な環境で育ち、顔を合わせたこともなかった二人は我々がイメージするような「兄弟の情・絆」は持ち
 あわせていなかったと考えられませんでしょうか。また、頼朝は地方武士たちの社会でもまれながら政治家と 
 して成長しましたが、身寄りのない環境で育った義経はどうも自己承認欲求が強かったようです。
  そんな義経が軍事の天才でありましたが政治的には無頓着だったようです。とくにドラマで描かれていた
 無断任官問題は鎌倉政権に根幹に関する重大案件であったのにも関わらず勝利に浮かれて義経は問題に気が 
 付きません。
 なぜかというと、御家人たちの主従関係で成り立っていたからです。
 頼朝の命で動いていたのに頼朝に許可なく官位をもらってしまったからです。
 更に詳しく知りたい方は下記をチェックしてご覧になってください。

 https://news.yahoo.co.jp/articles/1fbf34f448f8974b6a8e05cf2442d29b79fd4a08

 ご覧いただきありがとうございます。

2022年05月15日

「深読み」【鎌倉殿の13人】源頼朝が弟の義経を見限った決定的な3つの理由。

 大河ドラマ【鎌倉殿の13人】の第18回では義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追い込んだ。
 その後頼朝は義経を見限ったが、その理由を深く掘り下げてみよう。
 頼朝の弟の中で特に信頼していたのが範頼と義経である。2人は頼朝の名代として平家追討の立役者であり、
 平家を滅亡に追い込んでいる。なぜそれでも義経を頼朝が見限ったのか?
 3つの理由が挙げられる。
  1. 無断での任官
   2・ 安徳天皇の死
  3・ 宝剣は戻らず  だったと思われます。
  その理由については下記をチェックしてご覧になってください。

 https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220515-00295248

 ご覧いただきありがとうございます。

2022年05月11日

【鎌倉殿の13人】キャスト/出演者/登場人物一覧【2022年大河ドラマ】

 【鎌倉殿の13人】NHK大河ドラマはハラハラドキドキ
 物語もだいぶ活況になりつつありますが、
 再度(鎌倉殿の13人)のキャスト、出演者、登場人物一覧を見てみましょう。
 物語を深く見るためにも必要だと思いますのでご紹介します。 
  下記をチェックしてご覧になってください。

 https://www.oricon.co.jp/special/58104/?anc=013&utm_source=headlines.yahoo.co.jp&utm_content=%2Fhl%3Fa%3D20220506-00000366-oric-ent&utm_medium=referral


 ご覧いただきありがとうございます。


 

2022年05月10日

梶原景時が洞窟に隠れる頼朝を助けた理由とは?

 「鎌倉殿の13人」のおいて中村獅童が演じる梶原景時(かじわらかげとき)。資料上では義経ばかりか
 御家人たちも讒言【ざんげん】で陥えた冷徹な武将とされている。劇中ではその人間性の鋭い眼光で
 演じたことで、見る者を背筋も凍るような面持ちにさせている。その景時は死して後亡霊となって回向
 (えこう)を願い出たともいわれているがいったいなぜなのだろうか?
 洞窟に潜む頼朝を見逃す
 梶原景時とは言うまでもなく石橋山の戦い(1180年小田原市)に敗れて洞窟内に隠れ潜む頼朝をわざと見逃 
 たことで知られている。平家側の武将である。この時、頼朝は以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて
 挙兵伊豆目代の山木兼隆を打ち取ったところまでよかったが、大庭景親らの反撃にあって敗走する。
 箱根山中の「しど度の窟」(神奈川県足柄下郡湯河原町)に岡崎義家ら6騎とともに隠れていた。
 それを捜索中の景時が発見。すぐさま味方に知らせて打ち取ればよかったものをなぜみてみぬふりをして
 立ち去ってしまったというのだ。いったいどうしたのだろうか?
 その後の詳しく知りたければ下記をチェックしてご覧になってください。
 
 https://news.yahoo.co.jp/articles/60d8059d3b19d2ee000373c68f81a714b9b8e3ac

 ご覧いただきありがとうございます。

2022年05月09日

【鎌倉殿の13人】ネタバレ あらすじ第19話「果たせぬ凱旋」

 このページはNHK大河ドラマ【鎌倉殿の13人】の第19話のネタバレ あらすじを吹き出し会話方式で
 伝えています。


 https://www.kagasyo.com/%e9%8e%8c%e5%80%89%e6%ae%bf%e3%81%ae13%e4%ba%ba/%e9%8e%8c%e5%80%89%e6%ae%bf%e3%81%ae13%e4%ba%ba%e3%83%8d%e3%82%bf%e3%83%90%e3%83%ac%e3%81%82%e3%82%89%e3%81%99%e3%81%98%e7%ac%ac19%e8%a9%b1/



 ご覧いただきありがとうございます。

2022年05月06日

NHK大河【鎌倉殿の13人】鵯越えの逆落としは捏造!?どうなる壇ノ浦「八艘跳び」第18回見どころは?

 俳優の小栗旬が鎌倉幕府の第2代執権・北条義時を演ずるNHK大河ドラマ【鎌倉殿の13人】
 (日曜・後8:00)の第18回「壇ノ浦で待った男」【8日放送】で前半のクライマックスを
 迎える。
 一の谷(現在神戸市)の戦いで敗れた平家。だが依然として瀬戸内海の制海権が把握しており、源範頼
(迫田孝也)は九州から弟の義経(菅田将暉)は四国からそれぞれ平家を追い詰めようとする。
 屋島(現高松市)での戦いを経て歴史上有名な壇ノ浦の戦いへ。
 スタッフ、キャストともに力を入れたと公言する源平最後の一戦が描かれる。
 政策統括の清水拓哉チーフプロデューサーも「試写で何度も見ても鳴咽をこらえきれない」と明かす。
 下記をチェックしてご覧になってください。

 https://hochi.news/articles/20220506-OHT1T51071.html?page=1

 ご覧いただきありがとうございます。

2022年05月02日

意外?源頼朝は「平家の完全討滅】を望んでいなかった!後白河法皇に「東国は源氏、西国は平家】と和平提案

意外?源頼朝は「平家の完全討滅」を望んでいなかった!後白河法皇に「東国は源氏、西国は平氏」と和平提案
5/2(月) 16:12配信

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東洋経済オンライン
源頼朝と後ろ盾である後白河法皇の関係について解説します(写真:TGM/PIXTA)

NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。平家打倒へ突き進む源頼朝を支えたのが後白河法皇です。2人はどのように接近していったのでしょうか。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

■「平家物語」に記されている誤り

 古典『平家物語』には次のようなユニークな逸話が記載されている。

 「さて、源頼朝は、鎌倉にいながら、征夷大将軍の院宣(法皇・上皇の命により、院庁役人が出す文書)を頂戴した。使者は、中原康定で、10月14日に関東に到着する。

 頼朝が言うには『私は長年にわたり、天皇からおとがめを受けてきたが、今、武勇の誉が高まり、鎌倉にいながら、征夷将軍の院宣を賜ることができた。院宣をどうして私のような者の邸でお受けすることができようか。若宮の社にていただくことにしよう』といって、若宮に向われた。

 八幡宮は鶴岡に建立されている。地形は石清水と同じ。回廊があり、楼門があり、道10余町の参道もある」(『平家物語』を筆者が現代語訳)

 『平家物語』は、寿永2(1183)年10月に源頼朝が征夷大将軍に任じられたと書くが、もちろん、これは誤りである。頼朝が征夷大将軍に朝廷から任命されたのは、建久3(1192)年7月のことだ。

 『平家物語』には、この話に続き「院宣を誰が受け取るか」との評議があり、三浦義澄に決定したと記されている。三浦氏は相模国の御家人だ。

 院宣の使者・中原康定が「院宣を受け取り申す人はいかなる人か、名乗られよ」と言うと、義澄は「三浦の荒次郎義澄」と返答。院宣は覧箱に入れてあり、それは頼朝へと差し上げられた。しばらくして、覧箱が返されて、康定が中を開けてみると「砂金百両」が入っていた。その後、康定には豪華な食事がすすめられ、馬3頭と白布千反が送られたという。

 前述したように、寿永2年に頼朝が征夷大将軍に任命されたのは、虚構ではあるのだが、以上で記してきた『平家物語』の逸話がまったくのウソというわけではない。

 寿永2年9月から10月ごろに、後白河法皇は鎌倉の頼朝と接触をはかっているが、その時の使者が中原泰定(康定、以下も康定と記す)なのだ。『玉葉』の同年10月1日の記事には、康定が両3日以前に帰京し、数多の引き出物を与えられたとある。

 さらに同月13日には、康定が使者として再び関東へ赴くことが書いてある。これらのことから、後白河法皇と頼朝が頻繁に接触していたこと、その媒介に康定がいたこと、頼朝から多くの引き出物が与えられたことは事実と見てよいだろう。
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77歳の現役老人です。 マンション管理の清掃と一部管理業務を兼ねて 作業をしています。住まいは鎌倉に住んでいます。 趣味は温泉旅行、野球観戦【ヤクルトファン50年以上】 小遣い稼ぎをアフィリエイトでしています。稼げるようになりたいのでどなたかお教えください。よろしくお願いします。 広尾サラブレッド俱楽部で1口バム巣をして、6頭持つ。
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