5/2(月) 16:12配信
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東洋経済オンライン
源頼朝と後ろ盾である後白河法皇の関係について解説します(写真:TGM/PIXTA)
NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。平家打倒へ突き進む源頼朝を支えたのが後白河法皇です。2人はどのように接近していったのでしょうか。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。
■「平家物語」に記されている誤り
古典『平家物語』には次のようなユニークな逸話が記載されている。
「さて、源頼朝は、鎌倉にいながら、征夷大将軍の院宣(法皇・上皇の命により、院庁役人が出す文書)を頂戴した。使者は、中原康定で、10月14日に関東に到着する。
頼朝が言うには『私は長年にわたり、天皇からおとがめを受けてきたが、今、武勇の誉が高まり、鎌倉にいながら、征夷将軍の院宣を賜ることができた。院宣をどうして私のような者の邸でお受けすることができようか。若宮の社にていただくことにしよう』といって、若宮に向われた。
八幡宮は鶴岡に建立されている。地形は石清水と同じ。回廊があり、楼門があり、道10余町の参道もある」(『平家物語』を筆者が現代語訳)
『平家物語』は、寿永2(1183)年10月に源頼朝が征夷大将軍に任じられたと書くが、もちろん、これは誤りである。頼朝が征夷大将軍に朝廷から任命されたのは、建久3(1192)年7月のことだ。
『平家物語』には、この話に続き「院宣を誰が受け取るか」との評議があり、三浦義澄に決定したと記されている。三浦氏は相模国の御家人だ。
院宣の使者・中原康定が「院宣を受け取り申す人はいかなる人か、名乗られよ」と言うと、義澄は「三浦の荒次郎義澄」と返答。院宣は覧箱に入れてあり、それは頼朝へと差し上げられた。しばらくして、覧箱が返されて、康定が中を開けてみると「砂金百両」が入っていた。その後、康定には豪華な食事がすすめられ、馬3頭と白布千反が送られたという。
前述したように、寿永2年に頼朝が征夷大将軍に任命されたのは、虚構ではあるのだが、以上で記してきた『平家物語』の逸話がまったくのウソというわけではない。
寿永2年9月から10月ごろに、後白河法皇は鎌倉の頼朝と接触をはかっているが、その時の使者が中原泰定(康定、以下も康定と記す)なのだ。『玉葉』の同年10月1日の記事には、康定が両3日以前に帰京し、数多の引き出物を与えられたとある。
さらに同月13日には、康定が使者として再び関東へ赴くことが書いてある。これらのことから、後白河法皇と頼朝が頻繁に接触していたこと、その媒介に康定がいたこと、頼朝から多くの引き出物が与えられたことは事実と見てよいだろう。
タグ:鎌倉殿の13人
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