2014年08月22日
非業の関白豊臣秀次の供養塔 京都、ひそかに弔う?
おはようございます。
ecarです。
今日は
【豊臣秀次の供養塔 京都、ひそかに弔う?】
をお届けします。
非業の関白、豊臣秀次の供養塔 京都、ひそかに弔う?
京都市下京区の河原町通四条下ルの発掘調査で、
豊臣秀吉の甥、
豊臣秀次(1568〜1595年)の供養塔の一部が21日までに見つかった。
調査地は、
安土桃山時代に寺院「大雲院」が移された場所にあたり、
非業の最期を遂げた関白・秀次と大雲院の関連を示す物証となりそうだ。
調査した民間発掘調査会社のイビソク関西支店(伏見区)が発表した。
見つかったのは五輪塔下の基礎部分で幅23センチ、
高さ16センチ。
鞍馬産の石に
「文禄四年/禅昌院殿龍叟道意大居士/七月十五日」
の文字が刻まれていた。
「道意」
は秀次の高野山に入った際の法号で、
年号と月日は秀次が切腹した日だった。
現在、
大雲院は祇園にあるが、
元来は織田信長の子、
信忠が
「本能寺の変」
の際に自害した二条御所跡に建立された。
その後、
秀吉の寺町整備で今回の調査地に移された。
大雲院は秀次の切腹後、
三条河原で処刑された側室らを供養したとする文献があり、
秀次との関係が考えられていた。
同支店によると今回の戒名は、
三条河原近くの
「瑞泉寺」
など、
秀次を弔う他の寺院とはやや異なるが、
大雲院の開祖貞安和尚が与えたと考えられるという。
秀吉の存命時は謀反人である秀次を公には弔えなかった。
秀次に関する著書がある京都橘大非常勤講師の藤田恒春さんは
「供養塔は慶長10年代に貞安和尚がひそかに菩提を弔うべく建立したと考えられる」
としている。
スーパークリッシュは、
お口で生きる乳酸菌を使いはみがきの後にも、
なめられるよう作られた新しい健康習慣の商品です。
京都市下京区の再開発予定地から、
豊臣秀吉のおいで、
関白にまでなったが、
その後、
謀反の嫌疑をかけられ切腹した秀次を弔ったものと見られる五輪塔(供養塔)の地輪(基礎)が出土したと、
民間の発掘調査会社「イビソク」(岐阜県)が21日、
発表した。
地輪は、
十六世紀末から十七世紀初のもので、
京都・鞍馬産の閃緑岩(せんりょくがん)の箱形
(約23センチ四方、高さ15センチ)。
「文禄四年
禅昌院殿龍叟道意大居士(ぜんしょういんでんりゅうそうどういだいこじ)
七月十五日」
と刻まれていた。
「院殿」
「大居士」
は戒名として最高位であるほか、
「道意」
は秀次が高野山に出家した時の法号。
刻まれた日付は、
秀次が高野山で自害した日であることなどから、
秀次の供養塔の一部と考えられるという。
秀次は謀反人として扱われたため、
資料のほとんどが破棄・抹消されているが、
地輪が出土した場所には大雲院という寺があり、
この寺の開祖は秀次と関係があったとされる。
京都橘大学の元非常勤講師の藤田恒春氏(日本近世史)は
「開祖が密かに秀次の菩提を弔うべく建立したと考えられ、
大雲院と秀次のつながりを示す貴重な資料だ」
としている。
本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。
ecar
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今日は
【豊臣秀次の供養塔 京都、ひそかに弔う?】
をお届けします。
非業の関白、豊臣秀次の供養塔 京都、ひそかに弔う?
京都市下京区の河原町通四条下ルの発掘調査で、
豊臣秀吉の甥、
豊臣秀次(1568〜1595年)の供養塔の一部が21日までに見つかった。
調査地は、
安土桃山時代に寺院「大雲院」が移された場所にあたり、
非業の最期を遂げた関白・秀次と大雲院の関連を示す物証となりそうだ。
調査した民間発掘調査会社のイビソク関西支店(伏見区)が発表した。
見つかったのは五輪塔下の基礎部分で幅23センチ、
高さ16センチ。
鞍馬産の石に
「文禄四年/禅昌院殿龍叟道意大居士/七月十五日」
の文字が刻まれていた。
「道意」
は秀次の高野山に入った際の法号で、
年号と月日は秀次が切腹した日だった。
現在、
大雲院は祇園にあるが、
元来は織田信長の子、
信忠が
「本能寺の変」
の際に自害した二条御所跡に建立された。
その後、
秀吉の寺町整備で今回の調査地に移された。
大雲院は秀次の切腹後、
三条河原で処刑された側室らを供養したとする文献があり、
秀次との関係が考えられていた。
同支店によると今回の戒名は、
三条河原近くの
「瑞泉寺」
など、
秀次を弔う他の寺院とはやや異なるが、
大雲院の開祖貞安和尚が与えたと考えられるという。
秀吉の存命時は謀反人である秀次を公には弔えなかった。
秀次に関する著書がある京都橘大非常勤講師の藤田恒春さんは
「供養塔は慶長10年代に貞安和尚がひそかに菩提を弔うべく建立したと考えられる」
としている。
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京都市下京区の再開発予定地から、
豊臣秀吉のおいで、
関白にまでなったが、
その後、
謀反の嫌疑をかけられ切腹した秀次を弔ったものと見られる五輪塔(供養塔)の地輪(基礎)が出土したと、
民間の発掘調査会社「イビソク」(岐阜県)が21日、
発表した。
地輪は、
十六世紀末から十七世紀初のもので、
京都・鞍馬産の閃緑岩(せんりょくがん)の箱形
(約23センチ四方、高さ15センチ)。
「文禄四年
禅昌院殿龍叟道意大居士(ぜんしょういんでんりゅうそうどういだいこじ)
七月十五日」
と刻まれていた。
「院殿」
「大居士」
は戒名として最高位であるほか、
「道意」
は秀次が高野山に出家した時の法号。
刻まれた日付は、
秀次が高野山で自害した日であることなどから、
秀次の供養塔の一部と考えられるという。
秀次は謀反人として扱われたため、
資料のほとんどが破棄・抹消されているが、
地輪が出土した場所には大雲院という寺があり、
この寺の開祖は秀次と関係があったとされる。
京都橘大学の元非常勤講師の藤田恒春氏(日本近世史)は
「開祖が密かに秀次の菩提を弔うべく建立したと考えられ、
大雲院と秀次のつながりを示す貴重な資料だ」
としている。
本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。
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