2017年10月27日
監督が求めることと自分のやりたいこと。アントラーズで抜擢され、干された監督との付き合い方
■岩政大樹「現役目線」第30回
初の著書『PITCH LEVEL 例えば攻撃がうまくいかないとき改善する方法』が選手、ジャーナリストから「今年最高に面白い本」と絶賛される岩政大樹氏による最新寄稿。
選手に求められる、監督との適切な距離感
サッカーにおいて監督の存在は絶対です。「選手にとって“いい監督”とは試合に使ってくれる監督」とはよく言われる言葉で、選手は監督に必要とされなければ試合に出ることさえ叶いません。さらにサッカーの場合、選手を見る基準を数字で現すことができないことから、選手の評価には監督の趣向が少なからず反映され、選手は接する監督によって立ち位置を微妙に変化させなくてはなりません。
その付き合い方は、選手にとってとても大きな比重を占めます。それが外国人監督ならなおさらです。日本代表のハリルホジッチ監督も、お会いしたことはありませんが、かなりデリケートな付き合い方が必要なタイプに見えます。
監督の求めるものが明確に示される場合はまず、自分のやりたいことより、監督の求めるものを”やろうとする姿勢”を示すことが優先です。自分のやりたいことがどんなに正しいと思われることであっても、監督に「戦術を理解していない」「求めるものができない」と判断されてしまったら元も子もありません。試合に出続けて自分の立場を確立し、監督との信頼関係を築くことができるまでは「監督から見た自分の立ち位置」を客観的に見ることができなくてはなりません。
外国人監督だとそれは、より難しくなります。言語の違いにより言葉が意図したものと違って伝わってしまったり、文化の違いからそもそもの考え方が違っていたりするからです。
監督が変わるたびに「スタメンから外す候補」として見られていた
僕が所属した10年間、鹿島アントラーズは一貫してブラジル人監督でした。のべ5人の監督さんと付き合いました。
1年目のシーズン途中から退団することになる10年目のシーズン途中まで、まる9年間僕は、出場停止と怪我以外でスタメンを外されることがありませんでした。これはちょっとした僕の自慢ですが、そのことから僕を「不動のレギュラー」「スタメン安泰」と捉えていらっしゃった方も多かったのですが、実態は違いました。僕は監督が変わるたびにいつも「スタメンから外す候補」として見られていました。
監督の立場に立てばそれも理解できます。不器用で足が遅く、分かりやすい特徴はヘディングくらいしかないので、なぜ“イワマサ”が試合に出ているのか分からないのでしょう。僕にはいつも他の人以上に自分の存在意義を絶対的な結果で示し続ける必要がありました。
その中で9年間、僕が生き残り続けた要因は「常に100%」の姿勢でいたことが大きかったと思います。華麗な技術を駆使した芸術的なサッカーがイメージされるブラジルサッカーですが、彼らが共通して求めるものは実は華麗さではありません。
練習でも試合でも、やりたいプレーもやりたくないプレーも、調子がいい時も悪い時も、「常に100%」を続けること。彼らが求めることはいつもそれだけです。
元々僕にできることはヘディングとそれしかなかったですが、スーパーエリートが揃う鹿島アントラーズの中では異色に映ったのでしょう。彼らの求めるものと僕のスタイルが合っていたのか、彼らは次第に大きな信頼を置いてくれるようになりました。
監督に「干される」経験をすることに
それでも鹿島での最後の年となった2013年シーズンでは、俗に言う、監督に「干される」経験をすることになりました。当時の監督はトニーニョ・セレーゾ監督でした。
セレーゾ監督は僕をプロデビューさせてくれた監督です。1年目、僕はピッチ内でもピッチ外でもよくチームメイトからいじられていました。僕も新人だったので、それ自体は決して居心地が悪かったわけではありませんが、選手たちが僕を信頼していないことは明らかでした。そんな下手くそな男に真っ先に期待してくれたのがセレーゾ監督でした。毎日つきっきりで居残り練習をしてくださり、試合でもタイミングを見ながら大事に使ってくれました。
そんな彼が帰還したシーズン。今振り返ってもやり切れない気持ちが詰まった息苦しい一年でした。
最初のつまづきは開幕直前の肉離れでした。宮崎キャンプを終えて鹿島に戻ってきた後に受傷したその怪我は、僕には珍しく重めの肉離れでした。開幕戦には肉離れが完治どころか全く治っていない状態で出場しました。そんな状態だったので、試合中にまた出血をして悪化、そしてまた治らないまま試合に出る。そんなことを5月くらいまで繰り返してしまいました。
それは、それまで続けてきた僕のやり方でしたが、セレーゾ監督にはどう見えたのか。僕も鹿島でのキャリアの終焉を考えていた時代です。「それまで続けてきた僕のやり方」という判断は今でも間違いではなかったと思っていますが、僕とセレーゾ監督との間で少しだけボタンのかけ違いが起こっていたのかもしれません。
かけ違ったボタンは様々なところで姿を見せ始めました。
「ダイキの言うとおりにしていたら試合に使わないぞ」
セレーゾ監督は気難しいところがある監督でした。若手には特に厳しく、その分、期待もかけていました。僕はそれを手助けしたいと考え、若いときに薫陶を受けた経験から、セレーゾ監督との接し方を様々な伝え方で若い選手たちにアドバイスしていました。しかし、日本語を分からないセレーゾ監督は次第に僕に対して疑心暗鬼になっているようでした。冗談ぽく笑いながらでしたが、「ダイキの言うとおりにしていたら試合に使わないぞ」と若い選手たちに言うようになりました。僕はそれを笑顔で突っ込みながら、セレーゾ監督の目の奥に潜む危険な匂いを感じていました。
問題はここでも「それまで続けてきた僕のやり方」という僕の振る舞いだったのでしょう。僕はその頃、このコラムでも何度か触れてきましたが、若い選手をあらゆることでサポートすることを自分のスタイルとして考えるようになっていました。
しかし、セレーゾ監督はいち選手にそんなことは求めていない。もしくは、いち選手がそんなことをすることが理解できなかったのではないかと思います。僕らは言い争うことは一度もありませんでしたが、何か通じ合わないものを感じていました。
最終的にはチームが連敗をしたタイミングでスタメンを外され、そこからチームが何度負けてもスタメンのチャンスは巡ってきませんでした。
自分の人生に対して「不当」だと思っていた
僕はそれを「不当」だと思っていました。決してセレーゾ監督に対して、ではありません。自分の人生に対して、です。
セレーゾ監督は監督として自分のやり方を貫いたに過ぎません。僕もまた選手として自分のやり方を貫きました。「帰還」とはいえ7年の時を経ていたので、新監督としてもっとうまくやるやり方はあったと思います。しかし、僕もベテランです。僕にはそれも分かった上で「それまで続けてきた僕のやり方」で生きたかったのです。そしてそれが必ず、若い選手たちと新しいチームを作る上でセレーゾ監督のためにもなる、と考えていました。
「不当」であるとは、ただ自分の人生に対して。僕が僕の人生に対して不当であると思える場合は必ず、その痛みに対比していい事が起こる。それを信じた先が、次の年にタイで成し遂げることができたタイトルでした。
と、今となっては思い出話で振り返ることができますが、僕も散々揺れ動く中で過ごした時間でした。「自分だってまだまだ輝きたい!」そんな思いは当然ありました。ただ、若い時の「選手として成功したい」「輝きたい」が1番だった頃とは僕も違っていたんだと思います。
それはある意味、僕がもうJリーガーではなくなっていた、ということなのでしょう。そして、「それでいい」と、「それが僕のやり方だ」と決めつけた時点で、選手としての成功はもう終わっていたということなのでしょう。
初の著書『PITCH LEVEL 例えば攻撃がうまくいかないとき改善する方法』が選手、ジャーナリストから「今年最高に面白い本」と絶賛される岩政大樹氏による最新寄稿。
選手に求められる、監督との適切な距離感
サッカーにおいて監督の存在は絶対です。「選手にとって“いい監督”とは試合に使ってくれる監督」とはよく言われる言葉で、選手は監督に必要とされなければ試合に出ることさえ叶いません。さらにサッカーの場合、選手を見る基準を数字で現すことができないことから、選手の評価には監督の趣向が少なからず反映され、選手は接する監督によって立ち位置を微妙に変化させなくてはなりません。
その付き合い方は、選手にとってとても大きな比重を占めます。それが外国人監督ならなおさらです。日本代表のハリルホジッチ監督も、お会いしたことはありませんが、かなりデリケートな付き合い方が必要なタイプに見えます。
監督の求めるものが明確に示される場合はまず、自分のやりたいことより、監督の求めるものを”やろうとする姿勢”を示すことが優先です。自分のやりたいことがどんなに正しいと思われることであっても、監督に「戦術を理解していない」「求めるものができない」と判断されてしまったら元も子もありません。試合に出続けて自分の立場を確立し、監督との信頼関係を築くことができるまでは「監督から見た自分の立ち位置」を客観的に見ることができなくてはなりません。
外国人監督だとそれは、より難しくなります。言語の違いにより言葉が意図したものと違って伝わってしまったり、文化の違いからそもそもの考え方が違っていたりするからです。
監督が変わるたびに「スタメンから外す候補」として見られていた
僕が所属した10年間、鹿島アントラーズは一貫してブラジル人監督でした。のべ5人の監督さんと付き合いました。
1年目のシーズン途中から退団することになる10年目のシーズン途中まで、まる9年間僕は、出場停止と怪我以外でスタメンを外されることがありませんでした。これはちょっとした僕の自慢ですが、そのことから僕を「不動のレギュラー」「スタメン安泰」と捉えていらっしゃった方も多かったのですが、実態は違いました。僕は監督が変わるたびにいつも「スタメンから外す候補」として見られていました。
監督の立場に立てばそれも理解できます。不器用で足が遅く、分かりやすい特徴はヘディングくらいしかないので、なぜ“イワマサ”が試合に出ているのか分からないのでしょう。僕にはいつも他の人以上に自分の存在意義を絶対的な結果で示し続ける必要がありました。
その中で9年間、僕が生き残り続けた要因は「常に100%」の姿勢でいたことが大きかったと思います。華麗な技術を駆使した芸術的なサッカーがイメージされるブラジルサッカーですが、彼らが共通して求めるものは実は華麗さではありません。
練習でも試合でも、やりたいプレーもやりたくないプレーも、調子がいい時も悪い時も、「常に100%」を続けること。彼らが求めることはいつもそれだけです。
元々僕にできることはヘディングとそれしかなかったですが、スーパーエリートが揃う鹿島アントラーズの中では異色に映ったのでしょう。彼らの求めるものと僕のスタイルが合っていたのか、彼らは次第に大きな信頼を置いてくれるようになりました。
監督に「干される」経験をすることに
それでも鹿島での最後の年となった2013年シーズンでは、俗に言う、監督に「干される」経験をすることになりました。当時の監督はトニーニョ・セレーゾ監督でした。
セレーゾ監督は僕をプロデビューさせてくれた監督です。1年目、僕はピッチ内でもピッチ外でもよくチームメイトからいじられていました。僕も新人だったので、それ自体は決して居心地が悪かったわけではありませんが、選手たちが僕を信頼していないことは明らかでした。そんな下手くそな男に真っ先に期待してくれたのがセレーゾ監督でした。毎日つきっきりで居残り練習をしてくださり、試合でもタイミングを見ながら大事に使ってくれました。
そんな彼が帰還したシーズン。今振り返ってもやり切れない気持ちが詰まった息苦しい一年でした。
最初のつまづきは開幕直前の肉離れでした。宮崎キャンプを終えて鹿島に戻ってきた後に受傷したその怪我は、僕には珍しく重めの肉離れでした。開幕戦には肉離れが完治どころか全く治っていない状態で出場しました。そんな状態だったので、試合中にまた出血をして悪化、そしてまた治らないまま試合に出る。そんなことを5月くらいまで繰り返してしまいました。
それは、それまで続けてきた僕のやり方でしたが、セレーゾ監督にはどう見えたのか。僕も鹿島でのキャリアの終焉を考えていた時代です。「それまで続けてきた僕のやり方」という判断は今でも間違いではなかったと思っていますが、僕とセレーゾ監督との間で少しだけボタンのかけ違いが起こっていたのかもしれません。
かけ違ったボタンは様々なところで姿を見せ始めました。
「ダイキの言うとおりにしていたら試合に使わないぞ」
セレーゾ監督は気難しいところがある監督でした。若手には特に厳しく、その分、期待もかけていました。僕はそれを手助けしたいと考え、若いときに薫陶を受けた経験から、セレーゾ監督との接し方を様々な伝え方で若い選手たちにアドバイスしていました。しかし、日本語を分からないセレーゾ監督は次第に僕に対して疑心暗鬼になっているようでした。冗談ぽく笑いながらでしたが、「ダイキの言うとおりにしていたら試合に使わないぞ」と若い選手たちに言うようになりました。僕はそれを笑顔で突っ込みながら、セレーゾ監督の目の奥に潜む危険な匂いを感じていました。
問題はここでも「それまで続けてきた僕のやり方」という僕の振る舞いだったのでしょう。僕はその頃、このコラムでも何度か触れてきましたが、若い選手をあらゆることでサポートすることを自分のスタイルとして考えるようになっていました。
しかし、セレーゾ監督はいち選手にそんなことは求めていない。もしくは、いち選手がそんなことをすることが理解できなかったのではないかと思います。僕らは言い争うことは一度もありませんでしたが、何か通じ合わないものを感じていました。
最終的にはチームが連敗をしたタイミングでスタメンを外され、そこからチームが何度負けてもスタメンのチャンスは巡ってきませんでした。
自分の人生に対して「不当」だと思っていた
僕はそれを「不当」だと思っていました。決してセレーゾ監督に対して、ではありません。自分の人生に対して、です。
セレーゾ監督は監督として自分のやり方を貫いたに過ぎません。僕もまた選手として自分のやり方を貫きました。「帰還」とはいえ7年の時を経ていたので、新監督としてもっとうまくやるやり方はあったと思います。しかし、僕もベテランです。僕にはそれも分かった上で「それまで続けてきた僕のやり方」で生きたかったのです。そしてそれが必ず、若い選手たちと新しいチームを作る上でセレーゾ監督のためにもなる、と考えていました。
「不当」であるとは、ただ自分の人生に対して。僕が僕の人生に対して不当であると思える場合は必ず、その痛みに対比していい事が起こる。それを信じた先が、次の年にタイで成し遂げることができたタイトルでした。
と、今となっては思い出話で振り返ることができますが、僕も散々揺れ動く中で過ごした時間でした。「自分だってまだまだ輝きたい!」そんな思いは当然ありました。ただ、若い時の「選手として成功したい」「輝きたい」が1番だった頃とは僕も違っていたんだと思います。
それはある意味、僕がもうJリーガーではなくなっていた、ということなのでしょう。そして、「それでいい」と、「それが僕のやり方だ」と決めつけた時点で、選手としての成功はもう終わっていたということなのでしょう。
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